AD ASTRA

20世紀フォックスジェームズ・グレイ監督作品/123分/2019年

 

太陽系の果てまでお出かけするという舞台の壮大さと対比するかのように、主人公の内面に深く深く潜り込んでいくストーリィ。地味すぎるという評価があるらしいが、わたしはたいへん面白く観た。自宅でビデオ鑑賞だとなかなか難しい没入感を得られるという点で、これこそ映画館で鑑賞する映画だと思う。

劇能でここ数年のうちに観た宇宙ものというと…えーと何だっけ。インターステラーとかゼロ・グラヴィティあたりが記憶に残ってるかな。それらに比べると確かに派手なアクションだとかドラマティックな生還劇だとかはほとんどないんだけれど、この映画はそういうところを目指しているのではないんだろう。

火星の地下に基地が造られるほど宇宙開発が進んだ時代。はるばる海王星付近にまで知的宇宙生命体を探査する「有人」宇宙船。どんな遠未来かと思いきや、ファッションとか親子の関係性とか、登場人物を直接取り巻く環境そのものは現代とスムーズにつながる適度な近未来感で、つまりは時代がどう移り変わろうとも人間関係なんかは普遍的なものとして存在するのだ、という制作者の世界観がここにあらわれている。ていうか、そこまで変えてしまうと観客がどこにも感情移入できない映画になってしまうからでもあるんだろうけど。

というより、ひとりの人間をとことん内省的に追い詰める舞台装置としては、もはや深宇宙にしか残っていないということなのかもしれない。南北極点や未踏のジャングルなどでは、この手のテーマを演出する舞台としてはすでに「開かれ」すぎているのだろう。

火星で「西部劇ばりの」カーチェイス(あれはどうみても<幌馬車>だろ)を繰り広げてみたり、目的の宇宙船に乗り込んだ途端に小さいモニターに再生されていたのが古いタップ・ダンス(1930年代? ダンサーはニコラス・ブラザーズか彼らに類似したチーム)のモノクロ映像だったりと、随所に<古い時代>(1930年代なんて、登場人物たちが生きている時代からみればもはや神話の域かもしれない)の痕跡が見られるのがいろいろ楽しい(たとえ観客の興味をつなげるためのサーヴィス演出だとしても)。

 

個人的には、別れた妻とよりを戻すようなニュアンスで締めくくられたエンディングだけはちょっと引っかかった。父親との確執を乗り越えた主人公が、「ようやく他人との深い関わり合いを持ち始めるようになった」という成長のしるしとして置かれたラストシーンなのでここを否定してしまえば映画全体を拒否しているようなものでもあるんだけど、ちょっと都合がよすぎるんじゃあ…と思ってしまった。まあ、爆発する宇宙船からの脱出シークエンスとかも含めて、映画ならではのご都合主義が満載なのはご愛敬。

宇宙探検ものの派手な映画を期待する向きには不評なのかもだけど、ほとんど事前情報を得ずに観たわたしなんかはむしろこのシックさに好感を持った。家ではたぶん見返さないかもしれないが、ブルーレイは買ってもいいかな(同じような理由でゼロ・グラヴィティも開封すらせずに置いてある)。

 

Ride,Your Wave

2019年東宝湯浅政明監督作品

いやあびっくりした。これほどまでに少女マンガそのままをやるとは。プチフラワーあたりの人気連載作を、売り出し中の若手アイドルで映画化するパターンのやつ!実際、後半から終盤のファンタジー部分をうまくやれば、そのまんま実写映画になると思ったし、なんなら外国映画でもいいんじゃないか(パンフで監督自身がハリウッドの人気作にも触れていたし)。

今をときめく実力派の脚本(吉田玲子さん)ということもあり、ストーリーの安定感はさすが。わずか一時間半ほどの上映時間だが、もっと長く重厚な、ドラマティックな時間を過ごした感じがした。

水の描写はもちろん、溶き卵やドリップコーヒーなど液状のものの描きかたがひたすら凄い。そしてその対比としての火。物語もさりながら、これらのディテールをじっくり観るだけでも価値のある作品だと思う。

 

それにしても、、、そこそこ広いハコが用意されていたにもかかわらず、観客はほんの10人程度だったのが悲しい。封切り週の土・日がこの有様だと、すぐに打ち切られてしまうんだろうなあ…大スクリーンで観られたことが本当にラッキーだった。

誓いのフィナーレ

って、全然<フィナーレ>と違いますやん。このあとも続く気まんまんですやん。

…というのは置いといて。映画は、とても面白かった。

 

 

本作は2期にわたるテレビシリーズ(+総集編映画2本)と、スピンオフ作品としての『リズと青い鳥』という、過去の歴史を踏まえての完全新作なので、これまでを丹念に追いかけてきた人と全くの初見では生まれる感想も自ずと異なるものになるだろう。

1本の単体映画として観ると、少々説明不足な点がある気がする。そうでなくてもエピソードが盛りだくさんなので、駆け足気味なのは否めない。例えば、新入生のみっちゃん・さっちゃん。周囲の人に対する接し方、態度が正反対なのはよく伝わったけれど、肝心の二人の「技量の差」については登場人物たちによるセリフでしか説明がなかったように思う。片方が吹きこなすのに四苦八苦しているそばで、もう片方がさらっと難しいフレーズを…的なシーンを一瞬はさむだけでも印象が違ったのではなかろうか(わたしが見逃していただけかも、だけど)。

劇中のスパンとしては新入生の入部から関西大会までで、途中にサンライズフェスティバルや合宿までも入ってくるので、本来ならテレビシリーズと同じく12〜13話数でじっくり語られてもおかしくないのだけれども、かといって馬鹿正直にそのままシリーズ3期としてやったらそれはそれで中だるみするんだろうなあ。なので映画でぎゅぎゅっとコンパクトにまとめたのは正解だと思う。ただ、それでいて過去のメインキャラ・サブキャラそれぞれにしっかりセリフも与えているから余計に「詰め込んだなあ」という印象が(正直なところ、チューバの3年生カップルにあそこまでセリフがあるとは思ってなかった)。

部員ひとりひとりをしっかり描きたい、という制作側の意図は理解できるものの、今回の物語は「問題多き」1年生部員と久美子先輩の関係を描くことが主題なんだろうから、もっとバッサリ刈り込んでも良かったかも知れない…

 

…などと言いつつ、第一印象としてはこれまでのユーフォシリーズの中でいちばん好き。登場人物の誰にもそれぞれ感情移入しやすく描かれているように感じた。ここぞというところで挿入される過去のシーンがうまく作用していて、ストーリーに奥行きの深さを感じさせるのもしみじみ良かった(…なので、過去作品を知らない人にどう映るかはわたしにはわからない)。

 

とまれ、「次の曲」こそ全シリーズを通しての本当のフィナーレになるはずだし、気が早いけれどもそれが今から待ち遠しくってしょうがない。原作の前編は発売されたばかりだけれども、わたしは後編が出る6月まで待って、一気に読むつもり。

楽しみだあ。

 

2019年/石原立也監督作品/京都アニメーション

ペンギン・ハイウェイ

2018年/石田裕康監督
原作は単純なように見えて結構複雑なので、時間の限られる1本の映画として破綻なくまとまるかどうか。そのあたりが全くの杞憂に終わったのは、さすがは上田さん脚本。(終盤、お姉さんがいなくなってからのとあるシーンでちょっと引っかかったところはあったけど。わざわざ「あのカット」を入れなくてもよかったのに)もっとも、わたくし原作を読んで久しいので、細部など忘れているところも多く、これはもう一度読み直さなきゃならないな。
ときどき登場人物の表情とか、え、別人? というようなカットもあった気がするが(別に作画厨ではないつもりなんだけど)、風景描写などビジュアル面でも満足度は高い。
なんちゅーか、正統派ジュブナイルをしっかりと描ききっているなあ、というのが第一印象。何度か見返すときっとまた別の感想も出てくるのだろうけど。ペンギンのメタモルフォーゼしかり、「海」の表現しかり、原作を読んで見たかったシーンをきちんと、それもアニメーションならではの手法で映像にしていただいて、ありがたや…と思わず手を合わせそうになる。できれば映画館でもう一度見たいけど、ちょっと身辺がドタバタしているので、次はブルーレイになるのかなあ。そうだ、サントラも買わなきゃ。

リズと青い鳥

2018年/山田尚子監督作品/松竹
原作は出版された直後に読んだきりなのでディテールをよく覚えていなかったりするんだけど、物語の大筋というかテーマ的な部分に関しては強い印象が残っていた。その第一印象と、ほぼ変わらない映画だったように思う。
しかしまあ隅々まで繊細につぐ繊細さ、なるほどキャラクターデザインも変えざるを得ないわけだなあと納得した次第。
絵本パートの水彩画的な美しさもさりながら(リズと少女が十二〜三頭身くらいになってるのはわざとなんでしょうね、けれどすごく自然に動いていた)、それ以上に学校の、校庭、教室、渡り廊下、階段にいたるまで美しく描かれているのに圧倒された。それと、山田監督特有の「足の演技」が今作も大量に出てくるのだけれども、それぞれがすごく意味を持っていて、演出手法として円熟味すら感じさせた。
映画館という密閉空間でしっかり集中して見るにふさわしい内容だったので、家のテレビで見るとまたちがった印象になるんだろうなあ。しかし、本編が始まるまでの予告編の多さ&長さにはいいかげんイライラしたぞ。観に行こうと思わされた作品がなにひとつなかったし。。。アレはなんとかならんもんか。

KIDS ON THE SLOPE

坂道のアポロン/2018年/三木孝浩監督作品

原作漫画が好きで、テレビアニメ版の方も楽しく観ていたあの作品が映画化された、なんてつい昨日知った。で、観てきた。
冒頭「十年後」のシーンから始まるのでびっくりした。2時間の尺で、最後まで描ききるつもりなんだ、これ。アニメ版でも最終回はやや駆け足になっていたのが印象に残っていたので、一本の映画としてほんとに全部やれるんだろうか、バッサバサにカットしまくって変なストーリーになってなきゃいいんだけど…という杞憂は、2時間後さっぱりなくなっていた。いやあ、よく纏まってますわ。お見事。
話としては、たとえば文化祭をクライマックスとしてそのまま大団円、というテもあったかと思う。もちろん大改変ではあるけれど、互いにギクシャクした関係が一気に…というカタルシスは描けるはずだし、中途半端にあれもこれもとエピソードを拾おうとして支離滅裂になるくらいなら、原作のちょうど半分くらいに置かれた屈指の名シーンを、映画としての結末に選ぶというのもひとつの考え方ではあったと思う。しかしこの映画は、原作の重要な演奏シーンはほとんど残したまま、物語としてもちゃんと最後までやりきった。なので、観ている側としては満足度が非常に高い。セットや衣装まわりも1960年代の空気を出すべく気合いが入っていたように思った。代役なしという触れ込みの演奏シーンもとてもよかった。あえて言うなら喧嘩のシーンだけがちょっと引っかかった程度だけど、まあ大きな問題ではあるまい。
びっくりするくらい観客が少なかったんだけど、これからじわじわ人気が出るのかな。折りに触れて何度も見返したくなる物語なので、円盤化が今から楽しみでしょうがない。

【同日追記】
ちょっと冷静になって思い返してみたら、やっぱり少し引っかかったところはあった。いちばんは百合香さんを初対面時に「20歳」に設定したところ。帰宅して原作を読み直したら、やっぱ普通に上級生だったよなあと。大人の女性にした理由もわからなくはないけれども(2時間という尺では彼女のエピソードを深く掘り下げる余裕はないので、主人公たちとの関わり方も浅くならざるを得ない/にもかかわらず、作品タイトルといちばん関わりのある人物なのでストーリーから完全に省くこともできないという難しい役どころ)、それなら10年後の再会時にようやく淳兄との子を身ごもったという状況はどうなのか。駆け落ち同然で故郷を去ったふたりなら、その翌年には子供ができていて再会時にはすでに小学生になる子供を連れてきていた、というくらいの方がしっくりくるのではないかな。
物語終盤、事故を起こして意識不明に陥ったのが幸ちゃんではなく律ちゃんというのはいいとして、彼女が目覚めて千に伝言を、というシーンも少し引っかかった。つい今しがたまで廊下に一緒にいたんだから、「そこにいるから連れてくるよ」的な台詞が入っていたほうが自然だし、そのあとの喪失感により落差のある演出ができたような気がする。
まあでも上記は些細な点であり、映画全体の評価を損なうものではないと思う。ほどよく笑ってしっかり泣ける、いい映画だったという第一印象には変わりはない。

架空の犬と嘘をつく猫

寺地はるな著/中央公論新社/2017年12月
著者6冊目の書き下ろし長編小説。とある家族の、1988年からの30年間を描く面白い試みで、最終章が本書刊行時点からすれば「未来」である2018年5月、というのが最大のミソだろう。つまり、未来への希望を高らかにうたっているのだ。
子供はいつだって無邪気で楽しい、なんてことはさらさらないのであって、おそらく多くの子供は子供であるが故に辛くて悲しい。自分のことなのになにひとつ自分で決定できない、常に「親」と呼ばれるひとたちに保護され規定される日々。この小説は、その半分以上が、そういうつらさを丹念に描く。なにしろ、小説の冒頭からして「この家にはまともな大人がひとりもいない」というフレーズで始まるのだ。8歳の少年主人公がすでに「まともな大人」に欠如していることからスタートする物語。これはいったいどういう結末を迎えるのだろうかと、どきどきしながらページを繰った。
出張中の新幹線車内で一気に読み終えた直後の感想としては「スケールアップしたなあ」。30年という、人間の一生のなかではそれなりに長いスパンをこうも丹念に説き起こされると、登場人物たちのあれこれはもはや他人事とは思えないほどのリアリティをもって迫ってくるし、結果、誰に対しても慈しみのまなざしをもって眺めてしまう。その説得力の強さたるや。

わたしは著者の作品のなかでは『ミナトホテル』が一番好きと以前書いたことがあるし、今でもその感想には変わりはないが、本作はもしかするとそれに次ぐかあるいは同等くらいで好きかもしれない。『ミナト』は折に触れて何度も読み返したくなる魅力があって、本書の場合そこまで何度も、というにはどうかなとも(現時点では)思うのだけれども、少し時間をおいてみるとまた違った感想を持つかもしれない。ここ数作でちょっと鼻につくなと思っていたある種の「説教臭さ」がほどよく回避されているのもいい。
小説家、というか「お話をつくるひと」として、またひとつ新しいステージを迎えた感があるけれど、そのうちあっと驚く「物語」を見せてくれるかもしれないという期待がここにきて急激に高まった。これからがますます楽しみです。

KUBO AND THE TWO STRINGS

2016年アメリカ映画/トラヴィス・ナイト監督

遅ればせながらようやく観られた。もっとも、ウェブサイトの予告編映像を観る限り「あんまりわたし好みではないな」と感じていたこともあり、なのでさほど期待せずに出かけたのだが。

キャラクター造形、およびいかにもアメリカンな表情の作り方にはやはり最後まで違和感を拭えなかったし、物語そのものも特に好きなタイプというワケではない。けれども、細部の作り込みや画角・ライティングなど映像としてはとてもすばらしく、映画冒頭で「ここから先は一瞬たりとも目を離すな」という意味の台詞があるけれども、その言葉通りに画面に釘付けになってしまった。運良く入手できたパンフレットによれば監督は黒澤映画をかなり研究したそうで、なるほど。山間を旅する主人公たち三人組のやや引いたショットなんかはたいへん美しく、印象に残るものだった。

おそらく販売されるだろうブルーレイ盤には、きっとメイキングなどの舞台裏もたっぷり見せてくれることだろうし、監督のオーディオコメンタリーなんかにも期待したい。絵になるカットが多いので、自宅で気に入ったシーンを何度もリプレイできるのが今からとても楽しみであります。

【追記】
ネットをちょと検索するだけで絶賛の嵐がいくらでも出てくるこの作品、なぜわたし好みではないのかというと、つまりは作品のテーマでもある「人間にはなぜ物語が必要なのか」という議論にあまり乗れなかったりするからでもあるかもしれない。
わたしだってこれまで多くの「物語」を楽しみつつ消費してきたのは間違いのない事実ではあるんだけれども、「物語」をするからこそ人間であるのだ、という(おそらくは大多数のひとが首肯するだろう)大前提には、いまいち共感できない自分がいたりする。まあ、このへんのことについては、この日記で過去に何度か触れてきたと思うのでここでは繰り返さない。引き続き自問しつづけたい問題ではあるが。


【さらに追記】
ふと思い出して『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』を見返した。両作品、かなり共通点があってびっくりした。冒頭で主人公が住む家が断崖絶壁の上にあるというのもそうだけど、主人公に対峙するラスボスが同じなのだ。月の帝・フクロウの魔女ともに、人間世界の病・老・死や痛みや苦しみ、怒りや悩みと言った負の感情を嫌悪し、それらのない世界に主人公を導こうとする。しかし主人公はそれを拒否。『KUBO』では三味線の力(とお墓に眠る幾多の霊たち)によって、『海』ではついに口を開いた妹のうた声によって、ラスボスを浄化させ、倒す。欠損していた主人公の家族がラストで再会し、しかしすぐに(今度こそ納得の上で)別離する、という展開も同じだ。
別にどちらかがどちらかを真似た、パクったという話ではない。ともに物語類型として「よくあるお話」の範疇におさまるものだろうし、だからこそ舞台装置が特殊(片や現代アイルランドハロウィン・ナイト、片や中世日本のお盆。キリスト教を信仰する欧米中心価値観からすればともに辺境と言える土地であり、かつ、一年のうちでこの世とあの世が再会できる絶妙のタイミングでもある)であっても世界中の多くのひとが観ても共感できる普遍性を獲得しているのだろう。

個人的な問題として、なぜわたしは『海』は大絶賛できるにもかかわらず『KUBO』をやや冷静になって見てしまうのか、ということがある。ラスボスを倒す「人間側の存在理由」がともに古い言い伝えや祖先からの伝承、と共通しているにもかかわらず。
考えられることとして、ひとつは、『海』での「武器」が「うたそのもの」だった、というのは大きいだろう。『KUBO』では三種の武具を手に主人公が戦うものの、最終的にはそれらを捨てて三味線を手にする。しかし、主人公は決してうたうことはない。かれはうたうのではなく、「語る」のである。
詩と散文の違い? そうなのかもしれない。たぶん、個人的には「語り」よりも「謡う/唱う/詠う/歌う」ことの方により神秘性を認めているのだろう。だから、三味線を持ったクボ少年がもしも歌い手であったら、もっと作品にのめり込んでいた可能性はある。

けれども、よくよく考えてみるに、本当はもっと表層的でたわいもない理由かもしれないなとも思う。たぶんわたしは、クレイアニメ/モーションアニメよりも、描いた絵が動くことそれそのものに興奮するタチなのだろう。その証拠に、『KUBO』のエンドロールに出てきた登場人物のイラストの方にときめいたし、なんならこっちの絵でアニメ化されないかなあ、などとちらっと思ったからだ。
だとするとわたしの「好み」って、なんだかんだ偉そうに分析する以前の問題として、なんて浅はかで軽いものなんだろうということになるけれども、「何を語るか」以上に「どう語るか」「どう見せるか」を重視していることだけはどうやら間違いないのかもしれない。うーむ。

ドキュメンタリー映画2本

Cocon烏丸の京都シネマで、2本続けて観てきた。

・新世紀 パリ・オペラ座
 2017年フランス/ジャン=ステファヌ・ブロン監督
・パッション・フラメンコ
 2016年スペイン/ラファ・モレス、ぺぺ・アンドレウ監督

『新世紀〜』の方はパリのオペラ座をまるごと捉えた映画、『パッション〜』はフラメンコの第一人者、サラ・サバスの新作を、世界ツアーまで含めてじっくり追いかけた作品。どちらも見応えがあった。やっぱわたしはドラマ=フィクションよりもこういうノンフィクション/ドキュメンタリー寄りのほうが性にあってるのかな。どちらも監督の目線というか主題の切り取りかたや編集にこめられたメッセージが伝わるいい映画だった。
あえて言えばカメラがより「空気」になってるオペラ座の方が凄いと感じたが、まあその辺は明確な主役がいるかいないかの差でもあるかもしれない。サラ・サバスを追いかける映像では、やっぱり彼女がカメラに向かってインタビューに答える絵も必要だろうし。
オペラ座の方も、新総裁に就いたステファン・リスナーがいちおう(団体の責任者ということもあり)主役級の扱いではあるけれども、もちろん彼だけを追ったものではない。オーディションを勝ち抜いて新しく入団した歌手をはじめ、演出家やダンサーといった<スター>たちから、事務方や清掃員に至るまで丹念に拾い上げられており、彼らの総体が築き上げる<パリ・オペラ座>こそがこの映画の主役なのだ(ふたつの映画のラストショットがともに「劇場を清掃するひと」のカットで締めくくられたのが印象的だった)。パリを震撼させたテロ事件、雇用削減、バレエ団芸術監督の降板、スト、はては公演2日前になって主役がダウンし急遽代役を立てる…など、ありとあらゆる問題が襲いかかる。チケット代が高すぎるのでなんとかしたい、という問題まで話し合われる。演出家と出演者の対立もある。舞台上に本物の牛を登場させるというのでその対策に追われる様子も描かれる。次から次へと難問が出てくるので、退屈している暇がまるでない。途中で、ああ、これは「働くおじさんたち(おばさんもいるが)」の映画なんだと思った。さらに、常に対話しコミュニケーションを取りたゆまなく調整しながらなお一級のクリエイティブを目指す映画でもある。
一流のクリエーターとは、常に他者と対話を続けるものであり、そのフィードバックがさらによりよい結果を生むことを知っているものなのだ…というのが、ふたつの映画に共通する一貫した姿勢で、これはおそらく真理でもあるのだろう。世の中には、孤独に耐えてただひとりで成し遂げるクリエイティブも確かに存在するのだけれども、オペラやダンスといった舞台芸術に限って言えば、やはり大勢の人間によるコラボレーションのたまものなのである、ということがよくわかる。
いや、なにも芸術だけでなく、およそ世の中のほとんどの「ビジネス」は互いにコミュニケーションを取り共通の目的を共有するところからはじまるのだから、だからこその「お仕事映画」でもあるんだけども。なのでダンスやオペラに関心のないサラリーマン諸氏こそ、こういう映画を観ればいいと思う。

Loving Vincent

ゴッホ 最期の手紙
 2017年/イギリス・ポーランド ドロタ・コビエラ監督/脚本
 
 フィンセント・ファン・ゴッホが死んだあと、弟テオに送るはずだった手紙が一通、遺されていた。生前親しかった郵便配達人ジョゼフは、その手紙を届けるよう息子アルマンに命じる。青年はテオを探しにパリに向かうも、彼はすでにこの世を去っていた。やがてアルマンはゴッホの死因に疑いをもち、フィンセントの最期の地を訪ね、最期を知る人々に会い、死の真相を探る…。
 ミステリ仕立てのストーリーで、かなり楽しめた。近現代の実在の人物を主題にするこの手の映画は、使い古された定説よりもむしろ最新の学説やら研究成果を取り入れることが多いので、この映画にも「新発見の歴史的事実」や「新しい視点の真実」がたっぷり含まれていることだろう。けれどもあくまでこの映画は「フィクション=絵空事」である、と宣言しているのが、他ならぬほぼ全編にわたってこの映画のために描かれた油彩画をもとにしたアニメーション映画であるという仕掛け。これは二重三重に仕組まれた罠なのか。
 
 実在の画家を主題にした映画は(特にヨーロッパで)盛んで、ここ数年でもクリムト、シーレ、ターナーセザンヌなどなど枚挙にいとまがない(日本映画でもフジタがあった)。フィンセント・ファン・ゴッホはその中でも特に昔から好んで映画になっていたそうで、パンフによればゴッホ映画は100本はあるだろうとのこと。個人的にはこの映画が「最初のゴッホ映画」なので、いろいろ新鮮だった。
 
 
 
 物語じたいがとても面白かっただけに、<実写→油彩による作画→アニメーション化>という手続きが本当に必要だったのか、疑問に思うところはある。基本は普通の劇映画の体裁をとりつつ、作中のここぞというシーンだけ映像がいきなり油彩画アニメーションに…というだけでずいぶん効果的な、よりドラマチックな演出が可能だったのではないか。全編「絵画」である必然性が—手法が斬新なだけに余計に—薄れてしまったのではないか。監督は当初短編を構想していたらしいが、ゴッホの映画をゴッホ絵でという、いわば「究極の出オチ」ともいえるこの画期的なアイディア/手法が、長編作品となることでかえって弱くなってしまった嫌いがある。勿体ない、という気もするが、まあ、ここまでやりきったからこその迫力というか説得力が生まれているのもまた確かで、早い話が見終わった直後の感想としては「ほえ〜」というため息だったのだ。
 
 事前情報をあまり仕入れずに観に行ったものだからミステリだとは思わずに、なので劇の中頃から「あ、これはもいちど頭から見直さなきゃ」と思った。わたしが観た回は吹き替え版だったので(画面隅々まできちんと観られたのは嬉しいが、何人かの声優がいかにもテレビアニメ声だったのは若干不満ではある)、つぎは字幕版が観たいなあ。ま、とりあえずブルーレイディスクの発売待ちかな。