ペンギン・ハイウェイ

2018年/石田裕康監督
原作は単純なように見えて結構複雑なので、時間の限られる1本の映画として破綻なくまとまるかどうか。そのあたりが全くの杞憂に終わったのは、さすがは上田さん脚本。(終盤、お姉さんがいなくなってからのとあるシーンでちょっと引っかかったところはあったけど。わざわざ「あのカット」を入れなくてもよかったのに)もっとも、わたくし原作を読んで久しいので、細部など忘れているところも多く、これはもう一度読み直さなきゃならないな。
ときどき登場人物の表情とか、え、別人? というようなカットもあった気がするが(別に作画厨ではないつもりなんだけど)、風景描写などビジュアル面でも満足度は高い。
なんちゅーか、正統派ジュブナイルをしっかりと描ききっているなあ、というのが第一印象。何度か見返すときっとまた別の感想も出てくるのだろうけど。ペンギンのメタモルフォーゼしかり、「海」の表現しかり、原作を読んで見たかったシーンをきちんと、それもアニメーションならではの手法で映像にしていただいて、ありがたや…と思わず手を合わせそうになる。できれば映画館でもう一度見たいけど、ちょっと身辺がドタバタしているので、次はブルーレイになるのかなあ。そうだ、サントラも買わなきゃ。

リズと青い鳥

2018年/山田尚子監督作品/松竹
原作は出版された直後に読んだきりなのでディテールをよく覚えていなかったりするんだけど、物語の大筋というかテーマ的な部分に関しては強い印象が残っていた。その第一印象と、ほぼ変わらない映画だったように思う。
しかしまあ隅々まで繊細につぐ繊細さ、なるほどキャラクターデザインも変えざるを得ないわけだなあと納得した次第。
絵本パートの水彩画的な美しさもさりながら(リズと少女が十二〜三頭身くらいになってるのはわざとなんでしょうね、けれどすごく自然に動いていた)、それ以上に学校の、校庭、教室、渡り廊下、階段にいたるまで美しく描かれているのに圧倒された。それと、山田監督特有の「足の演技」が今作も大量に出てくるのだけれども、それぞれがすごく意味を持っていて、演出手法として円熟味すら感じさせた。
映画館という密閉空間でしっかり集中して見るにふさわしい内容だったので、家のテレビで見るとまたちがった印象になるんだろうなあ。しかし、本編が始まるまでの予告編の多さ&長さにはいいかげんイライラしたぞ。観に行こうと思わされた作品がなにひとつなかったし。。。アレはなんとかならんもんか。

KIDS ON THE SLOPE

坂道のアポロン/2018年/三木孝浩監督作品

原作漫画が好きで、テレビアニメ版の方も楽しく観ていたあの作品が映画化された、なんてつい昨日知った。で、観てきた。
冒頭「十年後」のシーンから始まるのでびっくりした。2時間の尺で、最後まで描ききるつもりなんだ、これ。アニメ版でも最終回はやや駆け足になっていたのが印象に残っていたので、一本の映画としてほんとに全部やれるんだろうか、バッサバサにカットしまくって変なストーリーになってなきゃいいんだけど…という杞憂は、2時間後さっぱりなくなっていた。いやあ、よく纏まってますわ。お見事。
話としては、たとえば文化祭をクライマックスとしてそのまま大団円、というテもあったかと思う。もちろん大改変ではあるけれど、互いにギクシャクした関係が一気に…というカタルシスは描けるはずだし、中途半端にあれもこれもとエピソードを拾おうとして支離滅裂になるくらいなら、原作のちょうど半分くらいに置かれた屈指の名シーンを、映画としての結末に選ぶというのもひとつの考え方ではあったと思う。しかしこの映画は、原作の重要な演奏シーンはほとんど残したまま、物語としてもちゃんと最後までやりきった。なので、観ている側としては満足度が非常に高い。セットや衣装まわりも1960年代の空気を出すべく気合いが入っていたように思った。代役なしという触れ込みの演奏シーンもとてもよかった。あえて言うなら喧嘩のシーンだけがちょっと引っかかった程度だけど、まあ大きな問題ではあるまい。
びっくりするくらい観客が少なかったんだけど、これからじわじわ人気が出るのかな。折りに触れて何度も見返したくなる物語なので、円盤化が今から楽しみでしょうがない。

【同日追記】
ちょっと冷静になって思い返してみたら、やっぱり少し引っかかったところはあった。いちばんは百合香さんを初対面時に「20歳」に設定したところ。帰宅して原作を読み直したら、やっぱ普通に上級生だったよなあと。大人の女性にした理由もわからなくはないけれども(2時間という尺では彼女のエピソードを深く掘り下げる余裕はないので、主人公たちとの関わり方も浅くならざるを得ない/にもかかわらず、作品タイトルといちばん関わりのある人物なのでストーリーから完全に省くこともできないという難しい役どころ)、それなら10年後の再会時にようやく淳兄との子を身ごもったという状況はどうなのか。駆け落ち同然で故郷を去ったふたりなら、その翌年には子供ができていて再会時にはすでに小学生になる子供を連れてきていた、というくらいの方がしっくりくるのではないかな。
物語終盤、事故を起こして意識不明に陥ったのが幸ちゃんではなく律ちゃんというのはいいとして、彼女が目覚めて千に伝言を、というシーンも少し引っかかった。つい今しがたまで廊下に一緒にいたんだから、「そこにいるから連れてくるよ」的な台詞が入っていたほうが自然だし、そのあとの喪失感により落差のある演出ができたような気がする。
まあでも上記は些細な点であり、映画全体の評価を損なうものではないと思う。ほどよく笑ってしっかり泣ける、いい映画だったという第一印象には変わりはない。

架空の犬と嘘をつく猫

寺地はるな著/中央公論新社/2017年12月
著者6冊目の書き下ろし長編小説。とある家族の、1988年からの30年間を描く面白い試みで、最終章が本書刊行時点からすれば「未来」である2018年5月、というのが最大のミソだろう。つまり、未来への希望を高らかにうたっているのだ。
子供はいつだって無邪気で楽しい、なんてことはさらさらないのであって、おそらく多くの子供は子供であるが故に辛くて悲しい。自分のことなのになにひとつ自分で決定できない、常に「親」と呼ばれるひとたちに保護され規定される日々。この小説は、その半分以上が、そういうつらさを丹念に描く。なにしろ、小説の冒頭からして「この家にはまともな大人がひとりもいない」というフレーズで始まるのだ。8歳の少年主人公がすでに「まともな大人」に欠如していることからスタートする物語。これはいったいどういう結末を迎えるのだろうかと、どきどきしながらページを繰った。
出張中の新幹線車内で一気に読み終えた直後の感想としては「スケールアップしたなあ」。30年という、人間の一生のなかではそれなりに長いスパンをこうも丹念に説き起こされると、登場人物たちのあれこれはもはや他人事とは思えないほどのリアリティをもって迫ってくるし、結果、誰に対しても慈しみのまなざしをもって眺めてしまう。その説得力の強さたるや。

わたしは著者の作品のなかでは『ミナトホテル』が一番好きと以前書いたことがあるし、今でもその感想には変わりはないが、本作はもしかするとそれに次ぐかあるいは同等くらいで好きかもしれない。『ミナト』は折に触れて何度も読み返したくなる魅力があって、本書の場合そこまで何度も、というにはどうかなとも(現時点では)思うのだけれども、少し時間をおいてみるとまた違った感想を持つかもしれない。ここ数作でちょっと鼻につくなと思っていたある種の「説教臭さ」がほどよく回避されているのもいい。
小説家、というか「お話をつくるひと」として、またひとつ新しいステージを迎えた感があるけれど、そのうちあっと驚く「物語」を見せてくれるかもしれないという期待がここにきて急激に高まった。これからがますます楽しみです。

KUBO AND THE TWO STRINGS

2016年アメリカ映画/トラヴィス・ナイト監督

遅ればせながらようやく観られた。もっとも、ウェブサイトの予告編映像を観る限り「あんまりわたし好みではないな」と感じていたこともあり、なのでさほど期待せずに出かけたのだが。

キャラクター造形、およびいかにもアメリカンな表情の作り方にはやはり最後まで違和感を拭えなかったし、物語そのものも特に好きなタイプというワケではない。けれども、細部の作り込みや画角・ライティングなど映像としてはとてもすばらしく、映画冒頭で「ここから先は一瞬たりとも目を離すな」という意味の台詞があるけれども、その言葉通りに画面に釘付けになってしまった。運良く入手できたパンフレットによれば監督は黒澤映画をかなり研究したそうで、なるほど。山間を旅する主人公たち三人組のやや引いたショットなんかはたいへん美しく、印象に残るものだった。

おそらく販売されるだろうブルーレイ盤には、きっとメイキングなどの舞台裏もたっぷり見せてくれることだろうし、監督のオーディオコメンタリーなんかにも期待したい。絵になるカットが多いので、自宅で気に入ったシーンを何度もリプレイできるのが今からとても楽しみであります。

【追記】
ネットをちょと検索するだけで絶賛の嵐がいくらでも出てくるこの作品、なぜわたし好みではないのかというと、つまりは作品のテーマでもある「人間にはなぜ物語が必要なのか」という議論にあまり乗れなかったりするからでもあるかもしれない。
わたしだってこれまで多くの「物語」を楽しみつつ消費してきたのは間違いのない事実ではあるんだけれども、「物語」をするからこそ人間であるのだ、という(おそらくは大多数のひとが首肯するだろう)大前提には、いまいち共感できない自分がいたりする。まあ、このへんのことについては、この日記で過去に何度か触れてきたと思うのでここでは繰り返さない。引き続き自問しつづけたい問題ではあるが。


【さらに追記】
ふと思い出して『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』を見返した。両作品、かなり共通点があってびっくりした。冒頭で主人公が住む家が断崖絶壁の上にあるというのもそうだけど、主人公に対峙するラスボスが同じなのだ。月の帝・フクロウの魔女ともに、人間世界の病・老・死や痛みや苦しみ、怒りや悩みと言った負の感情を嫌悪し、それらのない世界に主人公を導こうとする。しかし主人公はそれを拒否。『KUBO』では三味線の力(とお墓に眠る幾多の霊たち)によって、『海』ではついに口を開いた妹のうた声によって、ラスボスを浄化させ、倒す。欠損していた主人公の家族がラストで再会し、しかしすぐに(今度こそ納得の上で)別離する、という展開も同じだ。
別にどちらかがどちらかを真似た、パクったという話ではない。ともに物語類型として「よくあるお話」の範疇におさまるものだろうし、だからこそ舞台装置が特殊(片や現代アイルランドハロウィン・ナイト、片や中世日本のお盆。キリスト教を信仰する欧米中心価値観からすればともに辺境と言える土地であり、かつ、一年のうちでこの世とあの世が再会できる絶妙のタイミングでもある)であっても世界中の多くのひとが観ても共感できる普遍性を獲得しているのだろう。

個人的な問題として、なぜわたしは『海』は大絶賛できるにもかかわらず『KUBO』をやや冷静になって見てしまうのか、ということがある。ラスボスを倒す「人間側の存在理由」がともに古い言い伝えや祖先からの伝承、と共通しているにもかかわらず。
考えられることとして、ひとつは、『海』での「武器」が「うたそのもの」だった、というのは大きいだろう。『KUBO』では三種の武具を手に主人公が戦うものの、最終的にはそれらを捨てて三味線を手にする。しかし、主人公は決してうたうことはない。かれはうたうのではなく、「語る」のである。
詩と散文の違い? そうなのかもしれない。たぶん、個人的には「語り」よりも「謡う/唱う/詠う/歌う」ことの方により神秘性を認めているのだろう。だから、三味線を持ったクボ少年がもしも歌い手であったら、もっと作品にのめり込んでいた可能性はある。

けれども、よくよく考えてみるに、本当はもっと表層的でたわいもない理由かもしれないなとも思う。たぶんわたしは、クレイアニメ/モーションアニメよりも、描いた絵が動くことそれそのものに興奮するタチなのだろう。その証拠に、『KUBO』のエンドロールに出てきた登場人物のイラストの方にときめいたし、なんならこっちの絵でアニメ化されないかなあ、などとちらっと思ったからだ。
だとするとわたしの「好み」って、なんだかんだ偉そうに分析する以前の問題として、なんて浅はかで軽いものなんだろうということになるけれども、「何を語るか」以上に「どう語るか」「どう見せるか」を重視していることだけはどうやら間違いないのかもしれない。うーむ。

ドキュメンタリー映画2本

Cocon烏丸の京都シネマで、2本続けて観てきた。

・新世紀 パリ・オペラ座
 2017年フランス/ジャン=ステファヌ・ブロン監督
・パッション・フラメンコ
 2016年スペイン/ラファ・モレス、ぺぺ・アンドレウ監督

『新世紀〜』の方はパリのオペラ座をまるごと捉えた映画、『パッション〜』はフラメンコの第一人者、サラ・サバスの新作を、世界ツアーまで含めてじっくり追いかけた作品。どちらも見応えがあった。やっぱわたしはドラマ=フィクションよりもこういうノンフィクション/ドキュメンタリー寄りのほうが性にあってるのかな。どちらも監督の目線というか主題の切り取りかたや編集にこめられたメッセージが伝わるいい映画だった。
あえて言えばカメラがより「空気」になってるオペラ座の方が凄いと感じたが、まあその辺は明確な主役がいるかいないかの差でもあるかもしれない。サラ・サバスを追いかける映像では、やっぱり彼女がカメラに向かってインタビューに答える絵も必要だろうし。
オペラ座の方も、新総裁に就いたステファン・リスナーがいちおう(団体の責任者ということもあり)主役級の扱いではあるけれども、もちろん彼だけを追ったものではない。オーディションを勝ち抜いて新しく入団した歌手をはじめ、演出家やダンサーといった<スター>たちから、事務方や清掃員に至るまで丹念に拾い上げられており、彼らの総体が築き上げる<パリ・オペラ座>こそがこの映画の主役なのだ(ふたつの映画のラストショットがともに「劇場を清掃するひと」のカットで締めくくられたのが印象的だった)。パリを震撼させたテロ事件、雇用削減、バレエ団芸術監督の降板、スト、はては公演2日前になって主役がダウンし急遽代役を立てる…など、ありとあらゆる問題が襲いかかる。チケット代が高すぎるのでなんとかしたい、という問題まで話し合われる。演出家と出演者の対立もある。舞台上に本物の牛を登場させるというのでその対策に追われる様子も描かれる。次から次へと難問が出てくるので、退屈している暇がまるでない。途中で、ああ、これは「働くおじさんたち(おばさんもいるが)」の映画なんだと思った。さらに、常に対話しコミュニケーションを取りたゆまなく調整しながらなお一級のクリエイティブを目指す映画でもある。
一流のクリエーターとは、常に他者と対話を続けるものであり、そのフィードバックがさらによりよい結果を生むことを知っているものなのだ…というのが、ふたつの映画に共通する一貫した姿勢で、これはおそらく真理でもあるのだろう。世の中には、孤独に耐えてただひとりで成し遂げるクリエイティブも確かに存在するのだけれども、オペラやダンスといった舞台芸術に限って言えば、やはり大勢の人間によるコラボレーションのたまものなのである、ということがよくわかる。
いや、なにも芸術だけでなく、およそ世の中のほとんどの「ビジネス」は互いにコミュニケーションを取り共通の目的を共有するところからはじまるのだから、だからこその「お仕事映画」でもあるんだけども。なのでダンスやオペラに関心のないサラリーマン諸氏こそ、こういう映画を観ればいいと思う。

Loving Vincent

ゴッホ 最期の手紙
 2017年/イギリス・ポーランド ドロタ・コビエラ監督/脚本
 
 フィンセント・ファン・ゴッホが死んだあと、弟テオに送るはずだった手紙が一通、遺されていた。生前親しかった郵便配達人ジョゼフは、その手紙を届けるよう息子アルマンに命じる。青年はテオを探しにパリに向かうも、彼はすでにこの世を去っていた。やがてアルマンはゴッホの死因に疑いをもち、フィンセントの最期の地を訪ね、最期を知る人々に会い、死の真相を探る…。
 ミステリ仕立てのストーリーで、かなり楽しめた。近現代の実在の人物を主題にするこの手の映画は、使い古された定説よりもむしろ最新の学説やら研究成果を取り入れることが多いので、この映画にも「新発見の歴史的事実」や「新しい視点の真実」がたっぷり含まれていることだろう。けれどもあくまでこの映画は「フィクション=絵空事」である、と宣言しているのが、他ならぬほぼ全編にわたってこの映画のために描かれた油彩画をもとにしたアニメーション映画であるという仕掛け。これは二重三重に仕組まれた罠なのか。
 
 実在の画家を主題にした映画は(特にヨーロッパで)盛んで、ここ数年でもクリムト、シーレ、ターナーセザンヌなどなど枚挙にいとまがない(日本映画でもフジタがあった)。フィンセント・ファン・ゴッホはその中でも特に昔から好んで映画になっていたそうで、パンフによればゴッホ映画は100本はあるだろうとのこと。個人的にはこの映画が「最初のゴッホ映画」なので、いろいろ新鮮だった。
 
 
 
 物語じたいがとても面白かっただけに、<実写→油彩による作画→アニメーション化>という手続きが本当に必要だったのか、疑問に思うところはある。基本は普通の劇映画の体裁をとりつつ、作中のここぞというシーンだけ映像がいきなり油彩画アニメーションに…というだけでずいぶん効果的な、よりドラマチックな演出が可能だったのではないか。全編「絵画」である必然性が—手法が斬新なだけに余計に—薄れてしまったのではないか。監督は当初短編を構想していたらしいが、ゴッホの映画をゴッホ絵でという、いわば「究極の出オチ」ともいえるこの画期的なアイディア/手法が、長編作品となることでかえって弱くなってしまった嫌いがある。勿体ない、という気もするが、まあ、ここまでやりきったからこその迫力というか説得力が生まれているのもまた確かで、早い話が見終わった直後の感想としては「ほえ〜」というため息だったのだ。
 
 事前情報をあまり仕入れずに観に行ったものだからミステリだとは思わずに、なので劇の中頃から「あ、これはもいちど頭から見直さなきゃ」と思った。わたしが観た回は吹き替え版だったので(画面隅々まできちんと観られたのは嬉しいが、何人かの声優がいかにもテレビアニメ声だったのは若干不満ではある)、つぎは字幕版が観たいなあ。ま、とりあえずブルーレイディスクの発売待ちかな。

みちづれはいても、ひとり

寺地はるな著/光文社/2017年10月初版
思春期のころのもやもやした妄想だとか漠然とした不安、その裏返しのような根拠のない万能感。そういうものを「中二病」と呼ぶのなら、アラフォーのころの「もやもや感」はなんと呼べばいいんだろう。若さが徐々に失われていることを実感しつつ、けれども老人と言うにはまだまだ早い、ある意味宙ぶらりんな状態。誰かに胸をはって主張できるほどの実績も残せず、ゆえにこの先の生き方もまったくわからない。不惑、どころかますます惑いっぱなしの毎日を、とりあえず日々の暮らしに追われることでなんとなくごまかしている、そんな「もやもや感」。



既婚だが夫に逃げられ離婚を決意した39歳と、男をとっかえひっかえしながらずっと独身を貫いてきた41歳。この小説は、ふたりの女性が交互に(でもないけど)語ることで進んでいく。
おおざっぱに言えば、逃げた男を捜す旅であると同時に、それが自分探しの旅にもなったという構図なのだが、「旅」というには旅先での滞在がけっこう長い。それまで生きていた環境とはまったく違う土地で「生活する/しかし身分としては旅人であり異邦人」というアンバランスさを描いていることが、本作の魅力のひとつなのではなかろうか。
主役ふたりとも、まあ警察沙汰だよね、という程度には危ない目にあっているし、そのことによって心身ともに傷ついてもいるのだけれども、読後の印象は悪くない。それは、ふたりの女性に向けられた登場人物たちの「悪意」について、最後にちゃんと落とし前をつけているからだろう(まあ、例の社長だけはまだ危なそうだけど)。
「女とはこういうものだ」と頭から決めつけてかかる宏基と、「普通の人はこういうことしないっ」とことあるごとに怒鳴るシズさんは、価値観という点ではたぶん似たもの同士で、関わり合いになりたいかどうかは別にして、それなりにいいカップルになるんじゃないか。というかいいカップルになって欲しいと思った。この物語に救いがあるとすれば、このふたりの行く末を祝福する以外にないのではないか。

< 私はたぶん、いつも正しいわけではない。私の生きかたはきっと美しくない。>で始まるラストシーンの独白こそが、きっとこの小説のキモなんだろう。アラフォーにしてようやくそういう結論を得るに至ったこの物語は、一本のささやかな映画のような余韻を読者に残す(毎回言ってるけどこの人の小説って映像向きだと思うんだよなあ)。

ポリーナ、私を踊る

2016年フランス/ヴァレリー・ミュラーアンジュラン・プレルジョカージュ監督

原作のバンド・デシネはずいぶん前に読んだきりで、けっこう細かいところは忘れていた。このエントリを書き終わったら読み返します。
おっ、と思ったのは、巻頭間もない、まだ幼い頃の主人公がレッスンの帰り道で一人で踊るシーンと、先生との問答シーンで、この頃からすでに「踊ること」についての自分の意見をはっきり持っていたことがわかる。けして優等生だったわけでもなく貧しい生活環境から苦労のしっぱなしだった学生時代。やがて父母の念願だったボリショイ劇場の入団試験に合格するも、その直後、彼女は自分の意思でそれまでとは全く違う環境を求めて家を出る。遠く南仏プロヴァンスの地で、しかし、主演の座をつかみかけたもののあえなく挫折。流れ流れてベルギーはアントワープに辿り着く。
失意や挫折や困難というのは主人公の成長物語というドラマを作る上で必要なのだろうが、この映画の場合、まるで実在の人物の半生をドキュメンタリーで追っていたかのようなリアルさがある。とはいえまあ、喧噪かまびすしい居酒屋できついバイトをこなして、ほとんど自堕落な日々に陥ったなかでもダンサーとしての体形は崩れてないし、主人公をとりまく登場人物たちは(ボリショイの先生や父母など)主人公の成長にはおかまいなしにまったく年を取ってないように見えるのだが、それはある意味「彼女の目から通した世界」がそう見えている、という意味なのだろう。なので、映画全体を通して物語がおとぎ話めくというか、どこか寓話的な感触を観る者に残す。
本日より封切りの、記念すべき第一回上映に足を運んだのだけど、大規模なシネコンの大きなハコではないので前の方に座った。途中から、もう少し後ろの席でもよかったかな、と思い出した。
というのも、クローズ・アップが多いのだ。うんと引いた画面というのがかなり少なかったと思う。それがこの作品の意図であることはわかるが、案外家のテレビで観るのに向いているのかも、とも思いながら画面を追っていた。
曇り空が重い厳冬のロシア、日差しの柔らかさが印象的な南仏プロヴァンス、夕景〜夜のシーンが多いベルギーと、主人公の成長ステージに合わせた舞台設定とその撮り方が美しい。これはよく考え抜かれた脚本であることの証拠でもあるだろう。クラシック・バレエコンテンポラリー・ダンスの違いなども丁寧に描写されていて、そういうディテールもまるでドキュメンタリーみたいだな、と思わせる一因かもしれない。

ラストのダンスが例えようなく美しい。いやその前の練習シーンからすでにかなり涙腺に来ていて、ちょっと困っていたのだけれども。ダンスを、そしてダンサーをこういう風に切り取った映画はちょっと前例が思いつかないが(そもそもそれほどダンス映画を観ているわけではないので知識が皆無ということもある)、「いま」撮るべき映画、「いま」観るべき物語なのだ、という制作者の意図は充分伝わってきた。心に沁み入るいい映画でした。

【追記】
原作再読。いやあ、かなり変えてきていたんだねえ。そういや初読時には、先生とのワルツのシーンでうるっときたんだっけ。でも映画は原作のもつ甘い感傷をかなり後ろに追いやり、成功への足がかりを掴むところで終わっている。
この世界、実際には夢半ばで倒れてしまう人の方が圧倒的に多いだろうから、どちらのストーリィも“おとぎ話”なのかもしれないが、映画版の方がより「刺さる」気がする。なによりこの先の未来を予感させつつ終わる、てのがいいですね。

理想的な“劇場版”

劇場版響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディ〜
2017年/京都アニメーション制作/小川太一監督
テレビシリーズ2期全13話のうち、後半のエピソードを中心に再構成した総集編…なのだけど、新規カットが大幅に加わっただけでなく、時系列も大胆に再構築し、<一本の映画>として成立させているのがすばらしい。確かに、人物関係の細々などは全くの初見ではわかりづらいところもあるかもだけれども、まとめ方としては前回の劇場版(テレビ第一シリーズの総集編)よりもはるかにうまくいってると思った。
テレビ2期は1期シリーズ/劇場版を楽々越えてきたなあ、と感じ入っていたけれど、今作はそれをもさらっと超えてきた。京アニ、攻めてるなあ(攻めてるといえば来年4月公開予定のユーフォ劇場版/山田尚子監督作の予告にも度肝を抜かれた。なるほど、そう来るかあ(新作小説を読んでなかったらまるきり????だったと思うけど))。
細かくストーリーを追えば、田中あすか先輩の「突出したカリスマ性」が序盤でもっと表現されていれば後半の展開に説得力がさらに増しただろうし、控えメンバー中川夏紀の、けして表面には出せない葛藤にももっと深みが出ただろう。しかし、そこまで求めるのはこの尺では酷でもあるかもしれない。そういった諸々は言外には匂わせつつ、最優先すべき物語をきちんと畳まなければならない。監督/脚本の苦悩が見えるようだった。
新規カットはどれも見応えがあり、映画館で見るにふさわしい音響だった。時間が取れたらもう一度くらいは見に行きたいなあ。