ドキュメンタリー映画2本

Cocon烏丸の京都シネマで、2本続けて観てきた。

・新世紀 パリ・オペラ座
 2017年フランス/ジャン=ステファヌ・ブロン監督
・パッション・フラメンコ
 2016年スペイン/ラファ・モレス、ぺぺ・アンドレウ監督

『新世紀〜』の方はパリのオペラ座をまるごと捉えた映画、『パッション〜』はフラメンコの第一人者、サラ・サバスの新作を、世界ツアーまで含めてじっくり追いかけた作品。どちらも見応えがあった。やっぱわたしはドラマ=フィクションよりもこういうノンフィクション/ドキュメンタリー寄りのほうが性にあってるのかな。どちらも監督の目線というか主題の切り取りかたや編集にこめられたメッセージが伝わるいい映画だった。
あえて言えばカメラがより「空気」になってるオペラ座の方が凄いと感じたが、まあその辺は明確な主役がいるかいないかの差でもあるかもしれない。サラ・サバスを追いかける映像では、やっぱり彼女がカメラに向かってインタビューに答える絵も必要だろうし。
オペラ座の方も、新総裁に就いたステファン・リスナーがいちおう(団体の責任者ということもあり)主役級の扱いではあるけれども、もちろん彼だけを追ったものではない。オーディションを勝ち抜いて新しく入団した歌手をはじめ、演出家やダンサーといった<スター>たちから、事務方や清掃員に至るまで丹念に拾い上げられており、彼らの総体が築き上げる<パリ・オペラ座>こそがこの映画の主役なのだ(ふたつの映画のラストショットがともに「劇場を清掃するひと」のカットで締めくくられたのが印象的だった)。パリを震撼させたテロ事件、雇用削減、バレエ団芸術監督の降板、スト、はては公演2日前になって主役がダウンし急遽代役を立てる…など、ありとあらゆる問題が襲いかかる。チケット代が高すぎるのでなんとかしたい、という問題まで話し合われる。演出家と出演者の対立もある。舞台上に本物の牛を登場させるというのでその対策に追われる様子も描かれる。次から次へと難問が出てくるので、退屈している暇がまるでない。途中で、ああ、これは「働くおじさんたち(おばさんもいるが)」の映画なんだと思った。さらに、常に対話しコミュニケーションを取りたゆまなく調整しながらなお一級のクリエイティブを目指す映画でもある。
一流のクリエーターとは、常に他者と対話を続けるものであり、そのフィードバックがさらによりよい結果を生むことを知っているものなのだ…というのが、ふたつの映画に共通する一貫した姿勢で、これはおそらく真理でもあるのだろう。世の中には、孤独に耐えてただひとりで成し遂げるクリエイティブも確かに存在するのだけれども、オペラやダンスといった舞台芸術に限って言えば、やはり大勢の人間によるコラボレーションのたまものなのである、ということがよくわかる。
いや、なにも芸術だけでなく、およそ世の中のほとんどの「ビジネス」は互いにコミュニケーションを取り共通の目的を共有するところからはじまるのだから、だからこその「お仕事映画」でもあるんだけども。なのでダンスやオペラに関心のないサラリーマン諸氏こそ、こういう映画を観ればいいと思う。

Loving Vincent

ゴッホ 最期の手紙
 2017年/イギリス・ポーランド ドロタ・コビエラ監督/脚本
 
 フィンセント・ファン・ゴッホが死んだあと、弟テオに送るはずだった手紙が一通、遺されていた。生前親しかった郵便配達人ジョゼフは、その手紙を届けるよう息子アルマンに命じる。青年はテオを探しにパリに向かうも、彼はすでにこの世を去っていた。やがてアルマンはゴッホの死因に疑いをもち、フィンセントの最期の地を訪ね、最期を知る人々に会い、死の真相を探る…。
 ミステリ仕立てのストーリーで、かなり楽しめた。近現代の実在の人物を主題にするこの手の映画は、使い古された定説よりもむしろ最新の学説やら研究成果を取り入れることが多いので、この映画にも「新発見の歴史的事実」や「新しい視点の真実」がたっぷり含まれていることだろう。けれどもあくまでこの映画は「フィクション=絵空事」である、と宣言しているのが、他ならぬほぼ全編にわたってこの映画のために描かれた油彩画をもとにしたアニメーション映画であるという仕掛け。これは二重三重に仕組まれた罠なのか。
 
 実在の画家を主題にした映画は(特にヨーロッパで)盛んで、ここ数年でもクリムト、シーレ、ターナーセザンヌなどなど枚挙にいとまがない(日本映画でもフジタがあった)。フィンセント・ファン・ゴッホはその中でも特に昔から好んで映画になっていたそうで、パンフによればゴッホ映画は100本はあるだろうとのこと。個人的にはこの映画が「最初のゴッホ映画」なので、いろいろ新鮮だった。
 
 
 
 物語じたいがとても面白かっただけに、<実写→油彩による作画→アニメーション化>という手続きが本当に必要だったのか、疑問に思うところはある。基本は普通の劇映画の体裁をとりつつ、作中のここぞというシーンだけ映像がいきなり油彩画アニメーションに…というだけでずいぶん効果的な、よりドラマチックな演出が可能だったのではないか。全編「絵画」である必然性が—手法が斬新なだけに余計に—薄れてしまったのではないか。監督は当初短編を構想していたらしいが、ゴッホの映画をゴッホ絵でという、いわば「究極の出オチ」ともいえるこの画期的なアイディア/手法が、長編作品となることでかえって弱くなってしまった嫌いがある。勿体ない、という気もするが、まあ、ここまでやりきったからこその迫力というか説得力が生まれているのもまた確かで、早い話が見終わった直後の感想としては「ほえ〜」というため息だったのだ。
 
 事前情報をあまり仕入れずに観に行ったものだからミステリだとは思わずに、なので劇の中頃から「あ、これはもいちど頭から見直さなきゃ」と思った。わたしが観た回は吹き替え版だったので(画面隅々まできちんと観られたのは嬉しいが、何人かの声優がいかにもテレビアニメ声だったのは若干不満ではある)、つぎは字幕版が観たいなあ。ま、とりあえずブルーレイディスクの発売待ちかな。

みちづれはいても、ひとり

寺地はるな著/光文社/2017年10月初版
思春期のころのもやもやした妄想だとか漠然とした不安、その裏返しのような根拠のない万能感。そういうものを「中二病」と呼ぶのなら、アラフォーのころの「もやもや感」はなんと呼べばいいんだろう。若さが徐々に失われていることを実感しつつ、けれども老人と言うにはまだまだ早い、ある意味宙ぶらりんな状態。誰かに胸をはって主張できるほどの実績も残せず、ゆえにこの先の生き方もまったくわからない。不惑、どころかますます惑いっぱなしの毎日を、とりあえず日々の暮らしに追われることでなんとなくごまかしている、そんな「もやもや感」。



既婚だが夫に逃げられ離婚を決意した39歳と、男をとっかえひっかえしながらずっと独身を貫いてきた41歳。この小説は、ふたりの女性が交互に(でもないけど)語ることで進んでいく。
おおざっぱに言えば、逃げた男を捜す旅であると同時に、それが自分探しの旅にもなったという構図なのだが、「旅」というには旅先での滞在がけっこう長い。それまで生きていた環境とはまったく違う土地で「生活する/しかし身分としては旅人であり異邦人」というアンバランスさを描いていることが、本作の魅力のひとつなのではなかろうか。
主役ふたりとも、まあ警察沙汰だよね、という程度には危ない目にあっているし、そのことによって心身ともに傷ついてもいるのだけれども、読後の印象は悪くない。それは、ふたりの女性に向けられた登場人物たちの「悪意」について、最後にちゃんと落とし前をつけているからだろう(まあ、例の社長だけはまだ危なそうだけど)。
「女とはこういうものだ」と頭から決めつけてかかる宏基と、「普通の人はこういうことしないっ」とことあるごとに怒鳴るシズさんは、価値観という点ではたぶん似たもの同士で、関わり合いになりたいかどうかは別にして、それなりにいいカップルになるんじゃないか。というかいいカップルになって欲しいと思った。この物語に救いがあるとすれば、このふたりの行く末を祝福する以外にないのではないか。

< 私はたぶん、いつも正しいわけではない。私の生きかたはきっと美しくない。>で始まるラストシーンの独白こそが、きっとこの小説のキモなんだろう。アラフォーにしてようやくそういう結論を得るに至ったこの物語は、一本のささやかな映画のような余韻を読者に残す(毎回言ってるけどこの人の小説って映像向きだと思うんだよなあ)。

ポリーナ、私を踊る

2016年フランス/ヴァレリー・ミュラーアンジュラン・プレルジョカージュ監督

原作のバンド・デシネはずいぶん前に読んだきりで、けっこう細かいところは忘れていた。このエントリを書き終わったら読み返します。
おっ、と思ったのは、巻頭間もない、まだ幼い頃の主人公がレッスンの帰り道で一人で踊るシーンと、先生との問答シーンで、この頃からすでに「踊ること」についての自分の意見をはっきり持っていたことがわかる。けして優等生だったわけでもなく貧しい生活環境から苦労のしっぱなしだった学生時代。やがて父母の念願だったボリショイ劇場の入団試験に合格するも、その直後、彼女は自分の意思でそれまでとは全く違う環境を求めて家を出る。遠く南仏プロヴァンスの地で、しかし、主演の座をつかみかけたもののあえなく挫折。流れ流れてベルギーはアントワープに辿り着く。
失意や挫折や困難というのは主人公の成長物語というドラマを作る上で必要なのだろうが、この映画の場合、まるで実在の人物の半生をドキュメンタリーで追っていたかのようなリアルさがある。とはいえまあ、喧噪かまびすしい居酒屋できついバイトをこなして、ほとんど自堕落な日々に陥ったなかでもダンサーとしての体形は崩れてないし、主人公をとりまく登場人物たちは(ボリショイの先生や父母など)主人公の成長にはおかまいなしにまったく年を取ってないように見えるのだが、それはある意味「彼女の目から通した世界」がそう見えている、という意味なのだろう。なので、映画全体を通して物語がおとぎ話めくというか、どこか寓話的な感触を観る者に残す。
本日より封切りの、記念すべき第一回上映に足を運んだのだけど、大規模なシネコンの大きなハコではないので前の方に座った。途中から、もう少し後ろの席でもよかったかな、と思い出した。
というのも、クローズ・アップが多いのだ。うんと引いた画面というのがかなり少なかったと思う。それがこの作品の意図であることはわかるが、案外家のテレビで観るのに向いているのかも、とも思いながら画面を追っていた。
曇り空が重い厳冬のロシア、日差しの柔らかさが印象的な南仏プロヴァンス、夕景〜夜のシーンが多いベルギーと、主人公の成長ステージに合わせた舞台設定とその撮り方が美しい。これはよく考え抜かれた脚本であることの証拠でもあるだろう。クラシック・バレエコンテンポラリー・ダンスの違いなども丁寧に描写されていて、そういうディテールもまるでドキュメンタリーみたいだな、と思わせる一因かもしれない。

ラストのダンスが例えようなく美しい。いやその前の練習シーンからすでにかなり涙腺に来ていて、ちょっと困っていたのだけれども。ダンスを、そしてダンサーをこういう風に切り取った映画はちょっと前例が思いつかないが(そもそもそれほどダンス映画を観ているわけではないので知識が皆無ということもある)、「いま」撮るべき映画、「いま」観るべき物語なのだ、という制作者の意図は充分伝わってきた。心に沁み入るいい映画でした。

【追記】
原作再読。いやあ、かなり変えてきていたんだねえ。そういや初読時には、先生とのワルツのシーンでうるっときたんだっけ。でも映画は原作のもつ甘い感傷をかなり後ろに追いやり、成功への足がかりを掴むところで終わっている。
この世界、実際には夢半ばで倒れてしまう人の方が圧倒的に多いだろうから、どちらのストーリィも“おとぎ話”なのかもしれないが、映画版の方がより「刺さる」気がする。なによりこの先の未来を予感させつつ終わる、てのがいいですね。

理想的な“劇場版”

劇場版響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディ〜
2017年/京都アニメーション制作/小川太一監督
テレビシリーズ2期全13話のうち、後半のエピソードを中心に再構成した総集編…なのだけど、新規カットが大幅に加わっただけでなく、時系列も大胆に再構築し、<一本の映画>として成立させているのがすばらしい。確かに、人物関係の細々などは全くの初見ではわかりづらいところもあるかもだけれども、まとめ方としては前回の劇場版(テレビ第一シリーズの総集編)よりもはるかにうまくいってると思った。
テレビ2期は1期シリーズ/劇場版を楽々越えてきたなあ、と感じ入っていたけれど、今作はそれをもさらっと超えてきた。京アニ、攻めてるなあ(攻めてるといえば来年4月公開予定のユーフォ劇場版/山田尚子監督作の予告にも度肝を抜かれた。なるほど、そう来るかあ(新作小説を読んでなかったらまるきり????だったと思うけど))。
細かくストーリーを追えば、田中あすか先輩の「突出したカリスマ性」が序盤でもっと表現されていれば後半の展開に説得力がさらに増しただろうし、控えメンバー中川夏紀の、けして表面には出せない葛藤にももっと深みが出ただろう。しかし、そこまで求めるのはこの尺では酷でもあるかもしれない。そういった諸々は言外には匂わせつつ、最優先すべき物語をきちんと畳まなければならない。監督/脚本の苦悩が見えるようだった。
新規カットはどれも見応えがあり、映画館で見るにふさわしい音響だった。時間が取れたらもう一度くらいは見に行きたいなあ。

The SECRET of KELLS

ブレンダンとケルズの秘密
トム・ムーア監督作品/2009年/フランス・ベルギー・アイルランド合作
 
関西初日、大阪・梅田で吹き替え版と字幕版を連続して観てきた。いやあ、面白かった。
アイルランドの国宝「ケルズの書」の成立にまつわる神話的エピソードをダイナミックにアニメーション映画化した本作は、昨年日本公開された『SONG of the SEA 海のうた』よりも以前に作られた、トム・ムーア監督の商業長編デビュー作…のはず。映画としての完成度はさすがに『海』の方が高いのだろうが、作品に込められた熱量はこちらの方が濃度が濃い…と感じた。
吹き替え/字幕版はどちらも長所短所があって、こればかりは「両方観てください」としか言い様がない。画面の緊張感を孕んだビジュアルをいっさい邪魔しないのはやはり吹き替え版だが、音声のセリフだけでは把握しきれない言葉の意味なんかは、言葉として字幕に表されることではじめてわかることもあるからだ。古代アイルランドの伝承や神話・伝説のあれこれなどに精通しているひとの方が少ないだろうから、まあ仕方の無いことでもあるんだけど(なので、物語をしっかり把握した後ならば、オリジナル版で鑑賞するのが一番かもしれない)。
実は、わたしは昨年『海』を観た直後に本作のDVD(英語/仏語字幕版、当然日本語などどこにも出て来ない)を購入していた。英語字幕で鑑賞していて全体のアウトラインはなんとなく把握していたつもりだったが、やはりきちんと翻訳されたものを観ると、全然わかっていなかったんだなあと思うことしきり。
 
最大のハイライトは、やはり主人公のブレンダンがただひとりクロム・クルアハと対峙するシークエンスだろうか。あのシーンは何度観ても手に汗握る、アニメーション映画史上としてもかなり上位にランクされるに違いない名場面ではないかと思う。写字師、という役職を得ている主人公少年ならばこその戦い方であり、また、ここは映像作家・アニメーション作家としての監督の思い入れもたっぷり詰まった展開のしかたであった。
そういう意味では、この映画の見どころは他にもたくさんあるし(もちろんエンディングだって息を呑むほど美しい)、いずれのシークエンスもまさに“アニメーション”でしか表現し得ないだろう説得力に満ちあふれていた。近年の、時に実写と見まごうばかりの(というか実写以上のリアルさを追い求めている)日本製アニメーション作品では決して体験することのできないセンス・オブ・ワンダーが、そこかしこに詰まっている。現在の、商業ベースの日本人アニメーション作家でこういった作風に堂々と拮抗できるのは、たぶん湯浅政明さんぐらいじゃなかろうか。映画が映画として成立する必然性、同時にそれがアニメーションでなくてはならない必然性。それらをとてつもない強度をもった説得力として提示できる映像作家。トム・ムーアというひとは、わたしにとってはアニメーション界の新しいヒーロに思えてしかたがない。この作家がこれからどのような世界観を提示してくれるのか、いち観客としてはとにかく楽しみなのであります。

有頂天家族2

ずいぶん駆け足だったなあ、というのが第一印象。2クールとまでは言わないが、せめてプラスもう1話、つまり全13話くらいにはならなかったものか。なんだかダイジェスト版を観ているようで、せっかくの原作が少々もったいない気がした。

絵はキレイだし、声優陣の演技も申し分ない。最終回のバトルシーンも凄かった。それだけに、もう少し各場面をじっくりたっぷり観てみたかった。
アニメーション版で見る限り、話の構成は第1期のじわじわと盛り上げていくスタイルが好きで、「2」の方が静と動のダイナミズムはより計算されているように思うんだけど、トータルで「いいお話しを聞いた」という満足感はやはり「1」に軍配が上がるかなあ。
ともあれ、来月発売予定のブルーレイボックス上巻と、今月末に出るサントラCDは今からすっごく楽しみ。音楽は今回もとても印象的だったし、「2」のサントラもきっとヘビロテ間違いなしだろう。そうそう、パッケージ版はまたキャスト陣のオーコメが入るんだろうか。こちらにも期待したいっす。

【追記】
そういや寿老人(李白)さいごどこ行った???
上で「駆け足」って書いたけど、最後の最後までなんか投げっぱなしでぶった切られた感が残ったなあ。ちと残念。

TAP THE LAST SHOW

2017年東映/水谷豊監督作品


“古き善き”を濃厚に感じさせつつも、現代風に仕上げられた映画だった、という第一印象。

ストーリィ自体は王道というかまあぶっちゃけベタなもので、特に出演する若きダンサーたちのそれぞれのバックグラウンドのあたり、やや取って付けた感はある(脚本というか設定として、いちばん難しい箇所でもあるんだろうが、それにしても深窓の令嬢のアレとかまるでアレだよね、とかは思ったが)。
わたしはテレビをほとんど観ないので、出演している役者さんがどれが誰だかがわかるのはほんの2、3名だけだ。その分、画面に映る人たちは「その役」というよりも「その人」そのもの、という目で見ていた。しかし、このドラマをそういう目で見られるのは、この作品の多くのシーンでリアルなドキュメンタリーを撮っているような気にさせられるから、なのかもしれない。
なにより、この映画のもっとも重要な「ダンスシーン」がマジモンなのだ。映画的にはきっとクライマックスのショウ・タイムが見せ場なのだろうけど、わたしがいちばん面白かったのはむしろ前半のオーディション〜練習シーンの、若きダンサーたちの本気の姿だったりする。そのへんに「ウソ」っぽさがほとんど感じられないからこそ、この作品は「映画」たりえているのだろう。



今年ももう半分近くになるんだけど、これまで観た中で特に「ダンス」が印象的な映画というと、湯浅政明監督『夜明け告げるルーのうた』と、今回の『TAP』のふたつだけかなあ。ひとつはそもそもストーリィのごく一部だし、さらに言えばダンスシーンはひときわアニメーション的なファンタジーあふれる演出。対するもうひとつは、まるでライブ中継みたいなリアルな実写映像。と、まるで正反対なんだけど、それぞれ「ダンス」をきちんと「ダンス」としてフィルムに定着させてやるぞという強い意志が感じられるのがたいへん心地よかった(別作品の悪口をあまり言わない方がいいとは思うけど、これらの日本映画に比べて某・米アカデミー賞受賞作品のダンスのがっかり具合ときたら、もう)。


この手の映画では主役連中よりも脇を固める登場人物の渋さに惹かれることが多い。今回もたとえば「八王子のジンジャー」と「アステア太郎」のデュエットにはニヤリとしたし(ああいう演出は往年のハリウッドミュージカル映画の十八番だよなあ)、劇場の事務員さんのことあるごとに光る演技など、心に残るシーンが多かった(メインのご老体おふたりの演技はなにしろ往年のハードボイルドすぎて。いやもちろんコレは褒め言葉ではあるんだけど)。もうひとつ、ほんの一瞬の出番だけど、ぽっちゃりダンサーさんのご亭主さんの、まあ似たもの夫婦感というかいかにもさにも笑わせてもらった(一見無駄なようで、こういう遊びがなけりゃ映画全体がどれだけ淋しいものになってしまうか)。
 
とはいえ、個人的には物語の隅々にまで共感/納得できたわけではないし、肝心のショウの音楽/編曲も個人的にはあまり好きになれない。
けれども、それでもクライマックスのダンスシーンには思わず息を呑んだし、なんなら盛大なスタンディングオベーションをしていたかもしれない(映画館に他の観客が誰もいなけりゃ、絶対大きな拍手をしていた)。
ダンスシーンのメイキングと、それからあのショウの(観客の視線などの、ダンス以外のシーンがない)アナザーバージョンが特典ディスクとして付くならば、絶対DVDでもブルーレイでも買います! まあ、いや、そういうのが無くてもたぶんディスクは買っちゃうとは思うけど。
ダンスをちゃんとダンスとして映像に残してくれた。この映画は、そんな当たり前のことをきちんとやっているから素晴らしい。正直言ってドラマ部分の方はわたしにはよくわからないけど、それはそれとして、「ダンス映画」として、実にいいものを見せていただいたことに最敬礼! なのであります。


【翌日追記】
一晩経って、ああそうだ、この映画ってもっと笑いがたくさんあった方が良かったんだ、ということに気が付いた。別にドタバタギャグをやる必要はなく、クスリとさせる感じのユーモアがもっと散りばめられていたら、話のメインである「かっこよさ」と相まってさらに素敵な映画になっていたと思う(劇場の社長とか、そういう味を出そうとしていたことは判るが)。脚本を含め全体からなんとなく感じる余裕のなさというか「いっぱいいっぱいな感じ」は、この映画が初めての監督によるものだからなのだろうか。

今日のハチミツ、あしたの私

寺地はるな著/角川春樹事務所/2017年3月初版

読後のモヤモヤがいまだに晴れない。うーん。



発売後すぐに読み始めたはいいものの、全体の1/6あたりで引っかかってしまい、しばらく放置していた。先日まとまった時間が取れたので(具体的には出張中の新幹線車中だ)残りを一気に読んだ。
冒頭で読み進めるのをやめたのは、登場人物たちの言動すべてにおいてなにひとつ共感も感情移入もできなかったからだ。安西一家はもちろんのこと、主人公である碧についても「なんだこいつ」とまず思ってしまったことが大きい。
碧の彼氏である安西はいわゆる「だめんず」として描写されていて、にもかかわらずなのかどうなのか、碧はそんな安西を見放すことができない。彼が実家に戻るというタイミングで結婚を切り出され、両親に挨拶するため彼の実家に向かうのだけれども、安西の父親はそれを認めない、というか彼氏の方は父親に対して結婚相手としてまともに紹介することすらできていない。
安西父は父で、初対面の女性に対してあまりに理不尽と言うしかない条件を押しつけ…というあたりで本を投げ出したくなった。なんだ、なんなんだ。どいつもこいつもまともな人間がひとりもいやしねえ。でもって、それを唯々諾々と受けちゃう主人公もたいがいだ。
主人公も、子どものころから実の両親の愛情をほとんど受けられていなかったという過去もあり(中学生時代のいじめ問題もある)、なんだかんだで見ず知らずの(恋人とも隔離された)土地で、たったひとりで生きてゆかなくてはならなくなってしまう。いや、おまえ、なんでそこまで。

物語前半の、少々無理のあるように思える設定の数々は、全てが後半に向けてのお膳立てだったというのが読み進むにつれてわかってゆくし、後半はむしろけっこう面白かったんだけど、しかしやはり読後のモヤモヤは残る。うーん、「いいお話し」に持って行きたいが故に設定とか登場人物の性格づけとかを無理矢理持って行っていないか?これ。

著者の小説は、どの作品にも感じているのだけれども、かなり映像的だと思う。どの作品も映画にしたらキレイそうだなとか、こっちの作品は連続ドラマ向きじゃないかな、などと、いつも「映像化」されやすいなあと思って読んでいる。
今回の小説も、映画にしたらけっこう面白いような気がする。養蜂の手順なんかもスクリーンの大画面で見てみたいし。
日本映画に限らず、ヨーロッパの小品あたりでもそうなんだけど、映画だと少しばかり突飛な設定や人物描写でもなんとなく「そんなものか」と流してしまい、気が付いたらクライマックスでぼろぼろ涙を流して「いい映画だったなあ」なんて感想を持って劇場を後にする…なんてことがある。そういう意味でも、このひとの小説ってとても「映画的」であるのかもしれない。
本作の登場人物でいえばたとえば「あざみ」さん。実に存在感のある人物として描かれながら、そのバックグラウンドには全く触れない。主人公からしてこのひとの過去を詮索することは徹底して避けている。「背景がよくわかんないけどやたら光る脇役」っていう存在のしかたって、あらかじめ尺が決められた映画にはよく出てくる気がするのだ。
もちろん、物語に登場する人物について一から十までぜんぶ作品内で説明しなくてはならないなんて法はないし、警察の調書じゃないんだから全てを知る必要など最初からないんだけれども、他の登場人物の「実はこういう一面が」が街の噂話レベルでも描写されているのにくらべ、「あざみ」さんの正体の知れなさはちょっと次元が違う気がするのだ。で、そういう(情報公開の)レベルを作者がかなり意識的にコントロールしているのがよくわかるので、かえって読者としては鼻白らんでしまうというか。結論ありきで書いているんだろうなあということがある時点で伝わってしまうので、残りはなんだかありがたいお説教だけを聞かされている気分になってしまうというか。

主人公が30歳そこそこで妙に達観しているというか、なんでもそれなりに上手に対処してしまい過ぎ、というのもある。もちろん彼女には彼女なりの欠点があり、作者はそこも書いてはいるんだけれども、なにしろ小説は彼女の主観をこと細かに描いているので、そのへんは上手に隠そうとしているようにも見える。人物の出来具合は、同い年の安西に比べても格段に差があるし、安西の親族ぜんたいに比べても彼女の方がずいぶんデキる大人という印象を与えるのだ。そこまでデキた主人公なら、もっと早い時点で安西を見限っていてもおかしくない—結局、なぜ碧が安西に惹かれていたのか、最後の最後になって明かされるんだけれども—そしてそのエピソードが、物語全体にほろ苦い印象を与え「いい話だなあ」という感想をもたらすんだけれども—そんな「いい話だなあ」に収束させたいがために全てを組み立てていたというあたりが、ちょっと自分には苦手かも、と思った。

著者の小説でいうとわたしがいちばん好きなのは『ミナトホテルの裏庭には』、次点が『月のぶどう』、そしてデビュー前の『こぐまビル』。ここらへんの作品にはあからさまな作為ではない、物語のダイナミズムそのものに心地良く乗れることができたし、読後感だってたいへん良かった。デビュー作の『ビオレタ』は結局まだ読了してないので(文庫版も買ってはいるけれども読んでない)言及は避けるけど、読んでる途中で投げ出したくなる作品とそうでない作品との差っていったいどのへんにあるんだろう、というのは少しばかり気になる。



しかし、いずれにせよ、このひとの小説がどれも「映像向き」であることには疑いようのないことだとは思う。いずれ何かしら映像化されるんじゃないかという予言をここでしておきつつ、現在連載中の小説が単行本になることを今から心待ちにしております(実は第一回だけ読んだきり以降はまったく知らないので)。

夜明け告げるルーのうた

2017年/湯浅政明監督作品
事前情報をできるだけ避けて(それでも人魚の女の子が出てくるお話しだ、ということは知らされてしまったが)封切りを楽しみにしていた作品。先月の『夜は短し歩けよ乙女』もたいへん素敵だったが、こちらも実にチャーミングだった。
心を閉ざし気味な主人公カイと、天真爛漫な人魚ルー、ふたりの交流だけで話が進むファンタジーかと思ったら、途中で街の大人たちがわらわら出てきて、リアルさが顔を出す。そのふたつのバランスというかさじ加減がなかなか興味深かった。
わたしは宮崎駿監督の『ポニョ』は未見なんだけど、東日本大震災以後、津波が出てくるというので封印された、という噂を聞いたことがある(事実かどうかは知らない)。しかしこの『ルー』は、街がまるごと水没してしまうという大災害を描いている。ああ、この作品も「あの震災以後」の物語なんだと感じ入った。昨年大ヒットした『君の名は。』よりもはるかにストレートに、津波に呑み込まれる街や逃げ惑い流される人々をたっぷり描写しているのだ。そんな彼らを助けて安全な高台にまで運ぶのがルー親子をはじめとする人魚たち。古くから<人魚は人に災難をもたらす>という伝説が伝わる田舎町での、この鮮やかな大逆転こそがこの映画の最大のカタルシスなんだろうと思った。
湯浅作品ならではのポップな色彩とダイナミックに上下する構図、いきなりみんなが踊り出すシュールなおかしさなどなど、「笑いながら泣ける」映画の楽しさが充満していたと思う。うん、実にいい映画でした。

【同日追記】
そうそう、思い出した。和尚さんの造形がなんとなく樋口師匠だったことと、町民みんなのダンスシーンでひとコマだけ、のはらしんのすけっぽい男の子がいたような気がしたのがおかしかった。カイのポーズもところどころ過去の湯浅作品を思い出させるところがあって、劇場で観ている最中ずっと心がざわざわしっぱなしだった。音楽もみな素敵だったし(サントラCD出ないのかなあ…)いずれ出るだろうブルーレイディスクも今から心待ちだけど、せめてもう一回は映画館で観ておくべきなんだろうなあ。

【さらに追記】
ネタバレというか映画の核心に触れる部分のことをひとつ。上で、大洪水時に人魚たちが街の人々を救ったと書いた。
映画では人魚を明確に仇として描かれている老人がふたりいて、いずれも若い頃に大切な人を人魚に食われている(母親であったり、恋人であったり)。大洪水が発生し、あたりに人魚が飛びはね回るようになって、ふたりの老人は意を決したように海へ出る。仇を今こそ取ろう、という決意だ。
結論から言うと、ふたりの老人は“帰らぬ人”となってしまう。しかし、その過程で両者共にきちんと、長年の恨み辛みへの解決/救済が与えられていて、とても印象に残った。現世での再会は二度と叶わなくとも、常世に行ってしまえば永遠に生き続けられる。この寓話的な死生観が物語ぜんたいに深みを与えているのだと思う。

【もひとつ追記】
ブルーレイのオーディオコメンタリーで、あの印象的なダンスシーンについて、ほら例えばリバーダンスとかタップとか…と監督が語っていてびっくり。そっかぁRiverdanceかあ。(2017/10/19)