KUBO AND THE TWO STRINGS

2016年アメリカ映画/トラヴィス・ナイト監督

遅ればせながらようやく観られた。もっとも、ウェブサイトの予告編映像を観る限り「あんまりわたし好みではないな」と感じていたこともあり、なのでさほど期待せずに出かけたのだが。

キャラクター造形、およびいかにもアメリカンな表情の作り方にはやはり最後まで違和感を拭えなかったし、物語そのものも特に好きなタイプというワケではない。けれども、細部の作り込みや画角・ライティングなど映像としてはとてもすばらしく、映画冒頭で「ここから先は一瞬たりとも目を離すな」という意味の台詞があるけれども、その言葉通りに画面に釘付けになってしまった。運良く入手できたパンフレットによれば監督は黒澤映画をかなり研究したそうで、なるほど。山間を旅する主人公たち三人組のやや引いたショットなんかはたいへん美しく、印象に残るものだった。

おそらく販売されるだろうブルーレイ盤には、きっとメイキングなどの舞台裏もたっぷり見せてくれることだろうし、監督のオーディオコメンタリーなんかにも期待したい。絵になるカットが多いので、自宅で気に入ったシーンを何度もリプレイできるのが今からとても楽しみであります。

【追記】
ネットをちょと検索するだけで絶賛の嵐がいくらでも出てくるこの作品、なぜわたし好みではないのかというと、つまりは作品のテーマでもある「人間にはなぜ物語が必要なのか」という議論にあまり乗れなかったりするからでもあるかもしれない。
わたしだってこれまで多くの「物語」を楽しみつつ消費してきたのは間違いのない事実ではあるんだけれども、「物語」をするからこそ人間であるのだ、という(おそらくは大多数のひとが首肯するだろう)大前提には、いまいち共感できない自分がいたりする。まあ、このへんのことについては、この日記で過去に何度か触れてきたと思うのでここでは繰り返さない。引き続き自問しつづけたい問題ではあるが。


【さらに追記】
ふと思い出して『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』を見返した。両作品、かなり共通点があってびっくりした。冒頭で主人公が住む家が断崖絶壁の上にあるというのもそうだけど、主人公に対峙するラスボスが同じなのだ。月の帝・フクロウの魔女ともに、人間世界の病・老・死や痛みや苦しみ、怒りや悩みと言った負の感情を嫌悪し、それらのない世界に主人公を導こうとする。しかし主人公はそれを拒否。『KUBO』では三味線の力(とお墓に眠る幾多の霊たち)によって、『海』ではついに口を開いた妹のうた声によって、ラスボスを浄化させ、倒す。欠損していた主人公の家族がラストで再会し、しかしすぐに(今度こそ納得の上で)別離する、という展開も同じだ。
別にどちらかがどちらかを真似た、パクったという話ではない。ともに物語類型として「よくあるお話」の範疇におさまるものだろうし、だからこそ舞台装置が特殊(片や現代アイルランドハロウィン・ナイト、片や中世日本のお盆。キリスト教を信仰する欧米中心価値観からすればともに辺境と言える土地であり、かつ、一年のうちでこの世とあの世が再会できる絶妙のタイミングでもある)であっても世界中の多くのひとが観ても共感できる普遍性を獲得しているのだろう。

個人的な問題として、なぜわたしは『海』は大絶賛できるにもかかわらず『KUBO』をやや冷静になって見てしまうのか、ということがある。ラスボスを倒す「人間側の存在理由」がともに古い言い伝えや祖先からの伝承、と共通しているにもかかわらず。
考えられることとして、ひとつは、『海』での「武器」が「うたそのもの」だった、というのは大きいだろう。『KUBO』では三種の武具を手に主人公が戦うものの、最終的にはそれらを捨てて三味線を手にする。しかし、主人公は決してうたうことはない。かれはうたうのではなく、「語る」のである。
詩と散文の違い? そうなのかもしれない。たぶん、個人的には「語り」よりも「謡う/唱う/詠う/歌う」ことの方により神秘性を認めているのだろう。だから、三味線を持ったクボ少年がもしも歌い手であったら、もっと作品にのめり込んでいた可能性はある。

けれども、よくよく考えてみるに、本当はもっと表層的でたわいもない理由かもしれないなとも思う。たぶんわたしは、クレイアニメ/モーションアニメよりも、描いた絵が動くことそれそのものに興奮するタチなのだろう。その証拠に、『KUBO』のエンドロールに出てきた登場人物のイラストの方にときめいたし、なんならこっちの絵でアニメ化されないかなあ、などとちらっと思ったからだ。
だとするとわたしの「好み」って、なんだかんだ偉そうに分析する以前の問題として、なんて浅はかで軽いものなんだろうということになるけれども、「何を語るか」以上に「どう語るか」「どう見せるか」を重視していることだけはどうやら間違いないのかもしれない。うーむ。