「バカじゃないの」

浦沢直樹20世紀少年』『21世紀少年』単行本全巻完結。きっちりとした感想文を本家ブログに書いておきたいのだけれど、まとまったエントリを書く時間がとれないので、こっちにメモ書き程度に。



全24冊の単行本中、もっとも印象に残った台詞がユキジの「バカじゃないの」という一言だった。作中、何度でたことだろう。主にケンヂに向かって発せられるこの台詞は、結局最終話までずっと使われ続けていた。
当のケンヂは、しかし、「バカ」と言われていっこうに気にしない。<反陽子ばくだん>の危機から地球を助けたあとになっても、新しくバンドをやるとか言って、ユキジに「バカじゃないの」と言われている。


ガキの妄想が現実になる、という悪夢からスタートしたこの作品は、結局、ガキの妄想のままで終局を迎えた。途中ケンヂが行方不明になるところも含めて、この作品は最初から最後までケンヂの妄想の中で進行しつづけた、と言っていいだろう。あれだけの猛威をふるったウイルスのなか、主要登場人物が誰一人ウイルスによって亡くなっていないとか、最終回でケンヂとキリコの母親が登場(生きてたのか!)とか、ご都合主義というのもばかばかしいほど大団円なのも、所詮この物語が「ガキの妄想」であることを最後まで放棄していないからだろう。


実はわたしは、この物語が「ガキの妄想」で終わるとは予想していなかった。少年はいつか大人になる。そういう成長物語としての結末を迎えるのだろうと、勝手に想像していたのだ。しかし作者は、ケンヂを大人にさせないまま、物語を終わらせた。やられた、と思った。
大人になれない、永遠のガキとしてのケンヂ。物語の中で彼が成長したとすれば、わずかにバーチャルリアリティのなかの過去の自分に罪を認めさせることぐらいで、メチャクチャになってしまった日本(や世界)を復興/再建させるつもりもなく(秩序回復や復興はオッチョやカンナたちにまかせちゃってる)、相変わらず風来坊のまま生きていこうとしている。天性の自由人といえば聞こえがいいが、要するにおもちゃ箱をひっくりかえして後かたづけもろくにできないガキってことだ。実は、最終話を読んではじめて、なぜタイトルが『21世紀少年』に変わったのかが納得できた。20世紀にガキだったケンヂは、21世紀になってもやっぱり<少年>のままだった、というわけか。


それにしても、<少年の心を持った>てなフレーズがポジティブな方向で捉えられだしたのって、いつごろからなんだろう。男は永遠にガキ、というのはたぶん大昔からの真理なんだろうけど、それを積極的に肯定的に使われ出したのは、そんなに古くからでもないような気もする。80年代のバブル期から? いや、もう少し前からかな?
ケンヂはあらゆる意味で<少年の心のまま>でトシだけ食った男だ。地球を救うヒーローのわりにむさ苦しい風体もふくめて、現代の中年男がもっとも感情移入しやすいキャラクターかもしれない。そういう男にとってのヒロイン(この長編作品じたいのヒロインはカンナだが)は、自分を「バカじゃないの」となじりつつもその行動を赦してしまう、ユキジのような女性なんだろう。ああ、男ってガキだ。


この物語は徹頭徹尾ガキの妄想であるから、多少の整合性のなさなんてどうでもよくなる。物語の前半は<ともだちの正体>という謎で話を引っ張っていたが、あれはフクベエでした、でいったんケリがついて、その後の<第二のともだちの謎>はもうどうでもよくなってたみたいだ。なにしろガキは飽きっぽいからね。
そういう整合性のなさというか当初の設定がだんだんずれていくところも、古き良き少年マンガっぽくていいのかもしれない。作中に何度も昭和40年代のマンガ単行本が描かれるが、手塚治虫にしろ横山光輝にしろ、むかしの少年マンガなんてどこまでも荒唐無稽だったし、むしろだからこそ面白かったはずなのだ。作者がそういう古典に敬意を表してこの作品を描いたのはいまさら言うまでもない。


かつての<古典>と違うのは、この物語では「科学」が一貫して悪の道具になっている点だろう。巨大ロボットにしろ新型ウイルスにしろ反陽子ばくだんにしろ、科学というか超科学だろうけど、すべて人類を脅かす存在となっている。かつて手塚治虫は『魔法屋敷』で、妖怪や怪物の魔法に対抗する何百人の博士(科学者)を登場させ、科学の勝利と希望を描いたが、それから半世紀たってみると、科学はもはや人類を滅亡させる存在となっている。<ともだち>の繰り出す「科学」に対抗するのはオッチョやユキジの驚異的な運動能力であり、カンナの超能力であり、ケンヂの馬鹿力であり、と、およそ<前近代的>ばかりなのが面白い。このあたりの<科学対非科学>の対立構図は、作者サイドは非常に意識して描いていると思う。

そういえば、かつての少年マンガの主要キャラであるはずの<博士>も、ここにはいない。唯一登場する敷島博士は悪の手先に落ちてしまっているし、その実の娘はあろうことか最後まで悪であり続けた。マジンガーZの昔から、<博士の娘>というポジションはヒロイン担当じゃなかったのかよ!
<博士>がいないということは、主人公の少年を正しく導く大人の不在ということでもある。ケンヂはだからこそ、最後まで大人になりきれなかった。これこそがケンヂにとっての不幸であり、同時に21世紀の日本を覆う不幸でもあろう。日本から大人がいなくなったのは、「永遠に少年の心を持つ」ことが「格好いい」とされる風潮の隆盛と、決して無関係ではないはずだ。


連載中の『PLUTO』もそうだが、浦沢直樹のマンガはどこまでも昏い。そして登場人物が誰もがみな不幸そうな目つきをしている。イノセントのかたまりのようなケンヂが正しく成長できなくなった現代日本の不幸を、それはあらわしているのかもしれない。

そういえば再登場のあとのケンヂは、たいていサングラス姿だった。ほとんどみることができなかった普段の彼の目つきもまた、とても不幸そうであったに違いない。