「トラックバックのお作法」について

のっけからナニだが、私はメタブログ的な議論にはあまり関心がない。なにしろ「ウェブログ」自体どーでもいいと思ってるんだもん。あんなの、ただの「更新がラクにできるツール」でいいじゃん。仮にブログが新しいなにかを生み出すとすれば、更新が簡単にできる→更新スピードが速くなる→大量の新規記事が短時間に生成される、という点に尽きると思う。「量が質に転化する」ことこそが、ブログを採用しているサイトのおもしろさではないのか。毎日ひとことふたこと、誰も見向きもしないようなつぶやきでも、それが1年分2年分集まると、独自の輝きを放つようになる。そもそも、ウェブ上の「ログ(時間の経過とともに変化するものを、あとからわかるように残した記録。出典: @nifty:デジタル用語辞典)」なんでしょ。他人の思考経路の痕跡が読めるのがウェブログの面白さであって、それ以上でも以下でもないように思うのだが。
 
(追記:ならこんなエントリ書かなきゃいいじゃん。確かにそうだな。なので、この一文を最後に以後はこの種の話題についてはスルーすることにしよう。)
 
 
トラックバックについて、Unforgettable Days...:トラックバックから考えるインターネット文化の変化を読んでいて、非常によくまとまってるなあと思ったのだが、どうもいまいち得心しかねる部分がある。実は当該エントリにはすでにコメントさせてもらったけれども、自分の中でもう少し整理したくなったので、あらためてここに書いてみる。
 
以下、囲み内は同記事からの引用である。

Aと言うブログの管理者が「Aの読者にとってBは参考にならないけど、Bの読者にはAの自分の記事は参考になるだろう。」と思えば、Bへのリンクは提供せず、Bにトラックバックを打ち込む。Bの管理者も同感であれば、そのままでしょうし、Aの記事の読者にもBの記事は役立つと思えば、トラックバックを打ち返す。多くのブログが、そんな風になっていくのではないでしょうか。

そうだろうか?
ちょっと順番に考えてみよう。まず状況を図示してみる。

まず、AブログからBにトラックバックpingを送信したことは、Aさん本人はもちろん知っている。pingを受信したB氏は、ここではじめてAブログの存在を知ることになる。Bブログの読者も、B氏と同じくpingを辿ってAブログに行くことが可能になる。ここまではいい。
ところで、じゃあAさんの読者は? Aさんが「Bブログにトラックバックしました」と公表しない限り、Aブログの読者はBブログの存在を知る術はないのである。(図-1)
 
これって、「読者の視点に立っ」た考え方なのだろうか。確かに、B氏およびBブログの読者には、あるいは親切なことかもしれない。しかし、Aさんは、まず自分の読者を第一に考える方が自然なのではないか。なんでBブログの読者のことを、Aさんがわざわざ考えてあげなければならないのだろう。よそのブログの読者層を把握できるほど、AさんはB氏のブログに精通しているのだろうか?
 
Bブログに打たれたトラックバックpingは、うざいと思えばB氏は削除してもよいし、そのまま放置してもいいし、あるいはトラックバックを返してもいい。ここの判断基準は、各人各様なのが現状だろう。削除してしまえばその時点でAさんとB氏の関係は(少なくとも読者レベルでは)切れてしまうが、B氏がトラックバックを返せば、ここでようやくAブログの読者も同じ土俵に入ることができる(図-2)。

Aの記事の読者にもBの記事は役立つと思えば、トラックバックを打ち返す。

のだが、B氏はそこまでやるだろうか。B氏にしてみれば、突然見知らぬAさんからトラックバックを受けて、わざわざ「Aブログの読者のことを考えて」トラックバックを返すかどうかを、決めなくてはならないのだ。
 
めんどくさくね?
 
んなことしなくても、最初から、Aさんが「Bブログにトラックバック打ったよ」とひとこと書いてリンクすればしまいではないか(図-3)。自分の記事にBブログへのリンクを示すだけで、最初から関係者全てをひとつの土俵に乗せることができる。これがトラックバックの便利さだと、私は思う。そして、簡単さがブログの利点のひとつではなかったか。
 
 
たとえば、Aさんが1年前に書いた記事が、たまたまB氏の昨日書いた記事と話題がかぶっていたとする。しかもB氏がブログの中で悩んでいるらしいことの解決方法は、すでに1年前にAブログ内で示されていた、とする。そこでAさんは考える。おお、これはB氏に教えてあげなくては。しかし、Aブログの読者にとっては今さらの話題だしなあ。新しく記事を起こすまでもないし、過去記事に追記するほどのものでもないし。…じゃ、pingだけ打っちゃえ。
 
という風なケースには、確かに図1が有効だろう。ただしその場合でも、別にトラックバックでなければならないという必然性はない。Bブログにコメント欄が用意されているならば、コメントを残しておくだけでOKだろう。Bブログがコメントを受け付けておらず、コンタクトの方法がトラックバックしかないならば、なるほどこの方法しかとれないだろうけれど。
 
これ以外にはちょっと適切な具体例が思い浮かばない。あとは、ゴーログのように、庶民(笑)からのトラックバックを募集することによって成り立っているサイトか。ま、有名人ブログにトラックバックを送るなら、Aさんは自分の記事のどこかに喜々としてその旨を書くだろうから、これも適切な例ではないように思う。
 
 
いずれにせよ「片道トラックバック」の場合では、AさんとB氏のあいだに平等性は低く、上下関係が成立しやすい構造になっていることに注意していただきたい。
つまり、片道通行のトラックバックが許されるのは、ヒエラルキカルな構造が誰の目にも明らかな場合にのみに限られるのではないだろうか。
要するに、Aさんから一方的なトラックバックが送られてきてB氏が不愉快になるとすれば、それが「Aさんが対等な関係を結ぼうとしていない」とB氏が感じるからではないのか。だから「なんだ、この高圧的なトラックバックは」と感じてしまうのではないか。

結果、流れ込んでくる入口(リンク)を提供しないでトラフィックが流れ出ていく口(トラックバック)だけを作るような行為は、ソロバンを弾く様な損得勘定からくる被害意識ではなく、なんとなく自分のサイトやブログの価値が、そこから流れ出ていってしまうような皮膚感覚に基づいた嫌悪感のようなものを感じるようになってきたのではないでしょうか。

なるほど。見知らぬAさんに、自分及び自分のブログの読者を掌握されたような気分…とまでは言い過ぎかもしれないが、B氏にはそんな感覚が生じるのだろう。それは、AさんがB氏だけでなくBブログの読者のことまで「考えて」いるからだと思う。
本来、Aさんが考えるべきはAブログの読者のことだけでいいはずである。B氏のことを考えてあげるのはまだいいとしても、Bブログの読者のことまで視野に入れるのは、B氏およびBブログ読者を馬鹿にしているだけと捉えられないか。
 
もちろんAさんの記事が真に有用で、目下の悩みの解決に結びつくものだったら、B氏は感謝もし、新たにそのことを記事にするだろう。そんなイノセントで幸福な例は、滅多にお目にかかれないかもしれないが、もちろんないとは言い切れない。
 
…とここまで考えたけれども、AB各ブログの属性や作者の性格、あるいは固定読者の傾向などたくさんの要素が絡み合う問題でもあるから、結局は公式化はできない問題でもあるんだろうな。で、結局のところ、世間にはいろんな考え方を持った人がいるんだし、みんなケースバイケースで対処しよーね、ってことしか言えないようになるんだろうな。
 

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「リンクしないトラックバック」がアリなら、「トラックバックしないリンク」はもちろんアリでしょう、と思うので、この記事は上のリンク記事にはトラックバックpingを打たないことにする。ていうかそもそも、トラックバックが送受信できるシステムを備えたネット上のリソースなんて、割合からすればほんとにごく少数だろうし、またこのしくみが今後のウェブ界の絶対必要条件になるとは私にはどうしても思えないのである。ネット全体でなら「トラックバックなしの勝手リンク」が今後もデフォルトでしょう。
つまり、トラックバックを「文化」として考える視点が、私には決定的に欠けている。だから、私のこの一文は、あるいは Unforgettable Days... さんにとっては見当はずれもはなはだしい、ただの言いがかりなのかもしれない。だとすれば、申し訳ありませんでした、と平謝りするしかないのだが。