百合烏賊最新号買った

マンガ批評の最前線、という特集。ざっと読んだ。
おそらく2005年はマンガ批評業界(てなものがあるとして)にとって特筆すべき年だったんだろうな。ほんとにいろんな本が出たもんな。
といいつつ、実は私、この特集で取り上げられている最近のマンガ批評本、どれもまだまともに読み終わってない。買ってないのも少なくない。買ったまま1ページも開いてない本もある。途中まで読んでそのままというのも多い。
 
マンガをめぐる言説を読むのもいいが、その前にマンガ読めよ自分、ってことかもしれない。評論本文と、評論に引用されてる数コマだけ見て、そのマンガを読んだ気になってしまうこともあるかもしれない。
マンガ評論読んでも、そうだマンガだ、マンガ読みてぇ〜っ、と身もだえしつつ本屋に走りたい欲求が、いまあまり自分の中にわき起こって来ない。本屋に行ってもうつろな目で棚を眺めているだけだったりする。ま、それでいいのかもしれない。
 
マンガはつまらなくなったのか、という問いは、結局個々人が答えを出すべきことでもあるんだろう。音楽CDが売れなくなったことについて、聴きたいCDがないとか、パッケージメディアはもう終わったとか、そもそも音楽がつまらなくなったとか、それぞれ理由があるのと同じようなものかもしれない。
それでも敢えて言うと、マンガはやはりつまらなくなったんだろうと思う。この特集でも言及されていたが、メディアミックス等の戦略によって、マンガがマンガだけで成立するということが少なくなってきたこととも関係しているだろう。あるものはテレビドラマに、あるものは映画化され、サントラCDが出、そしてもちろん昔ながらのキャラクターグッズや同人誌での二次創作と、あっという間に消費され資産化されてしまう、そのスピードに相対して、マンガそのものはつまらなくなっているのだと思う。マンガをとりまく状況それ自体は決してつまらなくなっていないんだが、そのなかでマンガ自身の占める比重が軽くなっただけ、と言い換えてもいいかもしれない。
 
この特集に掲載されている、実作家や若手編集者へのインタビュー/座談を読んでいると、マンガそのものはもはやトリガーにすぎなくなっているのだなと思う。問題はプロデュースのシステムなりノウハウなり、そういうあたりに移行している。兎にも角にもメジャー化、社会的大ヒット、他メディアを巻き込む話題性、カネを生む仕組み。資本主義の激流のまっただ中で、マンガの送り手側は必死にボートを漕いでいる。それも時代の必然なんだろう。
「ぼくら語り」のマンガ批評がもはや通用しなくなったのも、またその世代の論者が現状についていけなくなったのも、そういうことなんだな、と思った。そりゃあ反体制を気取ってたかつてのマンガ青年たちが口を差し挟むスペースなど、もはやどこを探してもなくなってしまっただろう。自分たちが奉っていた「マンガ」という聖域は、気が付けば自分たちの手の届かない場所に行ってしまい、しかしそういう風に持ち上げてしまったのは他ならぬ自分たちなのだ。むなしくなるのも道理というものだ。
 
「マンガを取り巻く言説」が面白い状況というのは、実は肝心のマンガそれ自身が面白くないから、なのではないか。「マンガ」を骨の髄までしゃぶり尽くす、消費行為の極北まで来ているのではないか。むかし「SFの浸透と拡散」なんて流行語があったが、「マンガ」もすでに拡散し、ほとんど空気のように社会の中を漂うようになっている気がする。
集団で、システムで作られるビジネスモデルとしてのマンガの、全部が全部面白くないというわけでもなかろう。個人の手わざや体臭がぷんぷん感じられる作品が全て自分好みってわけでもないように。ただ、両者の違いはそれとして認識しておく必要はあると思う(って、そんな難しいこと考えなくとも、多くのマンガ読みはそのへんの匂いを瞬時に敏感に、しかも的確にかぎ分けているとは思うけど)。