本家ブログが休止中ですが

といっても特に理由はない。年明けからずっと忙しく、展覧会やコンサートにも出かけられないので感想文も書きようがない、というだけのことだ。
ではあるのだけど、何か書きたい欲があれば、なんなりとネタをみつけて書いているはずではある。それをしていないということは、要するに何も書きたくないということでもある。
世間の話題に全く疎い、ということもある。昨日あたりから話題になってる某作曲家のことも、ニュースになるまで名前を全く存じ上げてなかった。テレビの特集番組や雑誌などで以前から注目されていたらしいのだが、こちらのアンテナにはこれまでいちどもひっかかってこなかったようだ。
ま、あの件は自分的にはどうでもいい。ネットのニュースを眺めながら、わたしは全く別のことを考えていた。



昨年あたりからだろうか、いや一昨年頃からだろうか、ブログで展覧会の感想文をアップしようとしているとき、どうにも苦しくなってきていた。要するに「特に書くことねーなー」状態。ある程度の文章量がないと見栄えが悪いので、図録からなにかしらのネタを探してそれなりの体裁を整えてはいるのだけど、所詮は付け焼き刃。浅いというかやっつけというか。作品そのものよりも作者とその周辺のエピソードをネタとして拾うようになってからは、かなりヤバイと感じていた。


もともと、展覧会にしろライブにしろ、できるだけ先入観は持たないようにと、自分なりに気をつけていたつもりではあった。
しかし、いざパソコンを前にして感想文を書こうとするとき、ろくに「感想」が思いつかない。そこで、会場で買ってきた図録や関連書籍を大急ぎで斜め読みし、おいしそうな箇所を引っぱりだし、無理矢理まとめようとする。作品を巡るエピソードや作者のバックグラウンドなどはネタとしては格好の材料で、それらを適当にピックアップするだけで、なんとなく「作品そのもの」を語ったような気になるものだ。
しかしあくまで「語ったような気になる」だけで、自分自身がその作品についてどう感じたかは何も語ってないのである。極端なはなし、何も感想をもたなくても「知られざるエピソード」を紹介するだけで、ブログ記事としてはなんとなく成立するものだ。
文章書きを業務として請け負っているなら、こういうテクニックも「逃げ」としては有りだろう。一般にはあまり知られていない(かもしれない)情報をまとめるのも、それなりに価値のあることかもしれない。しかし、わたしのブログはあくまでも自分の趣味でやっていることであって、そこには対価もクソもない。わたしの場合、数年後の自分のために書いているウェブ-ログなのであって、会ったこともない赤の他人のための“お役立ち情報サイト”ではないのである。
自分の感受性が鈍ってきていることは認める。そのうえで、さて、自分は何が書きたいのか。ただひたすら自分のためといいつつ、誰でも閲覧できる公の場で、何を発言し、主張したいのか。その「核」が見つからないのに、体裁だけを適当に見つくろった文章をアップすることに何の意味があるのか。

そこんところがよくわからなくなってきているので、とくに昨年あたりから、意識して掲載ペースを落とすようにしていた。実際、展覧会とかに行ってもブログに書かなくなったものが増えた。「何を書いたらいいかわからなくなった」からだ。
作品そのものではなくその周辺の情報を「消費」するようになるのだけは避けたいという、これはわたしの矜恃でもある。作者の人となりや、作品が生みだされた時代背景や状況――なるほど、そういう情報も作品の理解を深める上でかなり重要なファクターではあるのだろう。しかし、そこだけに注意が向けられるようになってしまうと、肝心の「わたしの感想」がどこかへ行ってしまう恐れがある。要はふたつのバランスではあるんだけど、やはりわたしは「自分がどう感じたか」をまず考えたい。自分の感覚と、世間的な評価を並列し、その差異を(あるいは共通点を)探りたい。本来、そのためのブログであるべきではなかったか。
作者はこのときこんなに困難な状況でした、この作品は発表当時こんなに無理解の嵐に巻き込まれていました…そういう背景を知ると、なんとなくその作品について深く理解した気になってしまう。そういうトリビアだって確かに面白いんだけれども、それが作品理解のゴールではないはずだ。まず自分がどう感じたか、好きなのか嫌いなのか。そこんとこをはっきりさせてから、そのあとに作品の背景や作者の事情を学習しても遅くはない。展覧会場の解説パネルや図録の論文を読む前に、まず目の前の作品そのものと直接対峙すること。ここをおろそかにして「感想文」はあり得ないはずだ。
わたしのブログは批評サイトでもなければ論攷ブログでもない。わたしが書いているのはあくまでその時々の「感想」なのだ。なにをカッコつける必要があるだろうか。評論するな、感想を述べよ。