アデルの孤独について思うこと

映画『アデル、ブルーは熱い色』(2013年、監督/アブデラティフ・ケンシュ、フランス)を観てきた。R-18指定だもんで濃厚なセックスシーンが話題らしいが、そのシーンは無駄に長かったような気がしないでもない。
主人公アデルは高校2年生のときに、エマという美術大学に通う女性に交差点ですれ違いざま「ひとめぼれ」。当時つきあいはじめた男とはすぐに別れちゃって、沈んでいたら同級生から遊びに行こうぜ、と誘われたのがゲイバー。男同士でイチャイチャしてるクラブをひとり抜け出して同じストリートの別の店、女同士向けのバーへ入る。そこで偶然にもエマと再会。ふたりがデキちゃうのに時間はかからず、しばらく濃密な蜜月の日々が続く。しかしやがて破局が訪れ…。


テロップも何もなしに時間がどんどん経っていくので、劇中でどれぐらいの年月を描いているのか正確にはわからない。ただ、アデルの18歳のバースディ・パーティのすぐあと、今度はエマが主催するパーティに出てきた臨月の女性が、最後の方でもう3歳になっている、というセリフがあるので、どんなに少なく見積もっても3〜4年くらいは経っているかと思う。
教師になるという夢を高校生の時に語っていたアデルが「先生になるには大学院に行って云々」とも言っていて、映画の最後には小学校の教師になってるので、そう考えると全部で6〜7年くらい?いずれにせよラストシーンのアデルは20代中頃から後半くらいって設定なのかな。このへんの時系列が、初見だとよくつかめなかった。
 
 
で、そのアデルなんですが、なんというか非常にこの、めんどくさい人なんですね。世間に対してたいへんガードが堅いというか。そういう性格が災いしているのか、最初から最後までついにどこにも自分の居場所がみつけられない。恋人であるエマの方は、自分が同性愛者であることを自分の親にもオープンにしていたし画家仲間にも隠してはいなかった。レズビアンであることを理由に画壇から排斥されそうになったときにも断固として闘っていた。一方のアデルといえば、ハイスクールのクラスメイトからレズなの?と聞かれたときにとんでもない!と猛烈に否定し、自分の両親にエマを紹介したときにも隠し通していたし、幼稚園で教師として働き始めた後も同僚には秘密にしていた。堅実で保守的な両親のもとで育ったから、というニュアンスがほのめかされてはいたけれども、もちろん育った環境だけではなく、これは彼女自身の持って生まれた性格によるものなんだろう。
それだけに、アデルの性欲はかなり激しい。というか、自分の孤独を紛らわす術を、彼女は性行為より他に見いだせなかったのだろう。寂しかったので同僚男性とも2、3度寝たとか告白しちゃってるし(そのせいでエマの怒りを買う)。ま、若いうちはそれでもいいのだろうけど、中年過ぎるとこういう人ってますます大変になるんだよな…と、これは余計なお世話か。しかしまあ、やっかいとかめんどくさいとか評していますが、身につまされる人はけっこう多いんじゃないかしらん。わたしを含めて。

アデルが泣くシーンがたくさん出てくる。この映画の中での、主演女優の泣きの演技はたいへんすばらしく、情緒不安定でやっかいな性格(そして誰よりもまず当の本人がその性格をもてあましていることまでも)がその泣き顔だけで見事に表現されている。キャメラは劇中のかなりの場面で主人公の顔のアップを映し続けているのだけれども、まだ高校生の頃の未熟な感じから少しトウがたち始めたラストまで、微妙な年頃の女性の変化をたいへん上手く掬い取っていた。そうして、このアップの連続は、この作品をよくできたフィクションではなく、まるでドキュメンタリーかなにかを観ているような気にさせる手助けをしている。そうした段取りを経た上でのふたりのベッドシーンでもあるので、だからこそポルノ映画ではないのだけれども、しかし個人的にいちばんどきどきしたのは、巻頭まもない頃、アデルがひとりで身もだえているシーンでありました。あれはエロいぞ。
 
教師としてのアデルはたいへん厳格で、きちんと子供たちに向き合い真面目に仕事をこなすのだけれど(でも服装はことごとく無駄にセクシーで、いかにも性に対してゆるいんだろうなって雰囲気が出てる)、子供たちが帰った教室でひとり、彼女は泣き始める。
高校のクラスでも、恋人エマと暮らしていても、念願の教師となってからも、いつも彼女は孤独だった。
映画の最後は、エマが画家として成功した展覧会のオープニング・パーティ。かつて出会った人たちとも言葉をかわすのだけれど、しかし彼女の居場所はそこにもない。ぞくぞくと観客が詰めかけるギャラリーを早々に抜け出し、彼女はひとり街を歩く。その後ろ姿がりりしくもあり、かつ悲しい。

映画の原題は『LA VIE D'ADELE CHAPITRES 1 ET 2』。アデルの人生、第1章&2章、とでも訳すのだろうか。叶うことならアデルの中年以降、つまり3章以降の物語も観てみたいものだ。あくまで孤独を貫き通すのか、それともどこかの時点で世界と折り合いをつけ、それなりの居場所を見つけることになるのか。そういう視点で見てしまうのは、わたしがすでに人生の終盤に向かいつつあるからでもあるかもしれない。