FOUJITA

KADOKAWA/日仏合作/小栗康平監督作品/2015年

本日封切。京都では朝10時が第一回上映で、それに間に合わせるべく朝のニュースもろくに見ないままそそくさと家を出た。なのでパリの大規模テロ事件のことはあとから知って、大変驚いた。
…それはともかくとして。



もともと特定の役者とか特定の監督を目当てに映画館に足を運ぶ習慣がほとんどないので、この監督の作品も今作が初めてである。観にいった理由はひとえに藤田嗣治を題材にしているからで、公式ウェブサイトも観ていないし、予告編も知らない。映画を見終わって「不思議な映画だった」とツイッターでつぶやいたけど、パンフを読むとこの監督の作風でもあるようだ。ふーん。

なにしろ人物関係とか時代だとかをほとんど説明しない映画である。説明的な会話が全くないわけではないものの(予備知識として藤田嗣治の大まかなバイオグラフィがかろうじて頭にあったのでストーリィはなんとなく理解できたけど)、フジタをまるで知らない人が観たら、おそらくちんぷんかんぷんだったかも知れない。
映画は大きくふたつに分けられていて、前半がアール・デコのパリ時代、後半が戦時中の日本時代。前半、会話の中で「ここに来て10年」というセリフがあった。フジタが初めてパリの地を踏んだのは1913年だから、ということは作中は1922〜23年頃か。後半の日本は太平洋戦争中の数年間を圧縮して描いているようだ。
まず気に入ったのは、余計なBGMの類をほとんど使っていないこと。それだけでなく生活音の入り方なども相当気を使っているように感じた。なので「音」が入るシーンがより印象に残る。会話の「間」も重要で、登場人物が饒舌に動きまくり喋りまくるのではないから、そのぶんひとつひとつのシーンに魅入ってしまう。うん、これは実に贅沢な映画だなあ。でもこういう贅沢さってのは劇場の閉ざされた空間だからこそ生きるんだろうなあ。家でDVDで観てるとたぶん全然違う印象になるんだろうなあ…ま、ディスクが発売されたら買うつもりだけど。
音響だけでなく、もちろん映像もかなり美しい。どのショットも構図が決まっていて、画面の隅々にまで緊張感が張り詰められている。ハイビジョンだか4Kだか知らないけど、暗所もきちんと映っていて、ストーリーとか関係なしに画面を眺めているだけで名画を鑑賞している気分になる。

絵画もしくは画家を主題にした映画というのは過去にいくつも作られてきた。といってもわたしが観たのはそのうちごくわずかでしかないのであまり多くを語れるわけではないのだけれども、ごくわずかな経験でいうと、絵画がテーマの映画ってのは観客に「観ること」を強制する映画である、と定義していいんじゃなかろうか。のほほんとポップコーンをつまみながらゲラゲラ笑うとか、俳優の美しさかっこよさにうっとりするとか、物語のダイナミズムに身を任せるとか、そういうのではなしに、ただひたすら「スクリーンを観る」ことを観客に強いる映画。そして、この作品も間違いなくそういう映画だった。そこが鼻につくという意見もありだろう。特に、終盤のファンタジー部分などはちょっとクドいかな、とも感じた。
しかし「ファンタジー」ということで言えば、この映画は冒頭からファンタジー映画だったのかもしれない。フジタを巡る細かなエピソードを重ねるパリ時代も、帰国してからの重厚長大な雰囲気も、どこか“この世にあらず”といった雰囲気を漂わせている。圧倒的な映像美にもかかわらず、リアリティがあるようでないような。そんなところが第一印象として「不思議な映画」と感じた所以かもしれない。
たとえば日本編の夜行列車のシーン。音響は盛大にガッタンゴットン揺れる汽車の音を描写しているにもかかわらず、画面は一切揺れていない。映画を観ている最中はこの不自然さにかなり違和感を覚えたんだけれども、今振り返ってみるとこういうのも「ファンタジー描写」のひとつだったのかもしれない。そう思ってみると、日本編のフジタは特に、全編を通してどこかこの世の人ではない感じがする。
かといってパリの藤田が実感を伴った等身大の人物像を描写してるかというと、「生き延びるための戦略」として派手な社交性を身に付けているというシーンがたっぷり描かれていたりする。モンパルナスの画家仲間が知っている「フジタ」は、実は意識して演出されていた虚像、つまりはファンタジーなのだ。


要するに、この映画は、主人公の二面性に真摯に向き合った作品なのだろう。
バブリーな陽と戦時中の陰、あるいは洋の西と東。この映画はそういった対立を一見「わかりやすく」描く一方で、その渦中に巻き込まれた<フジタ嗣治>という人物を「わかりにくく」描こうとしている。時代に流された人間の悲喜劇という単純なものではない。目の前の状況をいかに生き延びるかという切羽詰まったサバイバルを、これでもかというほどハードボイルドに描いた映画。それが《FOUJITA》なのだ。
 
 
 半年ほど前だったか、東京国立近代美術館に行った時に館が所蔵するフジタの戦争画をまとめて展示していた。時間がなかったのでさらっと通り過ぎてしまったのが今になって悔やまれる。もっとじっくり観ておけば良かったな。しかし<フジタの戦争画>あるいは<戦時中のデザイン/美術>に関していえばここ数年で研究・発表が目覚ましいはずだ。この映画の公開を機に、ふたたび気合いの入った展覧会が開かれることを期待したい。もちろん東京だけの開催ではなく、地方巡回もね。


【2017年4月追記】
首を長くして待っていた円盤が、2017年4月末にようやく発売された。小栗監督の全集本の「別巻」という扱いなので、普通によくある映画のディスク化とはちと違う。むしろBDがオマケに付いた書籍扱いってことなのかな。資本参加しているKADOKAWA関連でいうとTVアニメ『けものフレンズ』のパッケージソフトも書籍扱いだから、まあ同じような戦略なのか…いや、この場合はあくまで小栗康平監督の「作品」としての書籍出版、ということなんだろうけど(『FOUJITA』の発売元はKADOKAWAではないから、少なくとも同社主導による営業戦略などではないはずだ)。
 
 
この映画、わたしは劇場では結局一度きりしか観られなかったので、およそ2年ぶりの再見ということになる。けれど…というか、だからこそというべきか。映画館で観たときと同じような新鮮な気持ちで、自室のテレビ画面をじっと見つめることができた。
で、感想としては、上の初見時に書いたことと、実は大きく外れることはない。同梱されている解説対談のブックレットも読んだけれども、映画終盤の「わけのわからなさ」も含めて、全て監督の意図通りの映像になっていることを再確認した形だ。
そもそも、この映画はけして藤田嗣治レオナール・フジタの忠実な伝記映画ではない。そうではなくて、小栗康平といういち映画作家による「フジタ論」である。このことは映画公開当初から喧伝されていたらしいが、その基本ラインを了解していなければ、きちんと本作に向き合うことはできないだろう。映画公開後に浅田彰が本作に批判的な評論を書いていたが、それのどこが的外れだったかが、本作を見直してみてよくわかった。浅田の視点と小栗の視点では最初の立ち位置がまったく異なっているので、そもそも噛み合うはずがないのだ。で、浅田論の狡いところは、その立場の違いを(自分ではよくわかっているくせに)あえて無視して自分のフィールドに持って行こうとしていたところにあったのではなかったか、と思う。
とまれ、映画というのは徹頭徹尾「映像作家のもの」なのであり、その題材がたまたま実在した人物であろうとも、それをどう表現するかというところは作家の領分だ。映画『FOUJITA』は、実在の藤田嗣治という歴史上の人物についての「伝記映画」なのではないし、美術史上における人物評価に忠実である必要もまるでない。あくまでいち映画作家が捉えた、とある画家についての映画(=フィクション)なのだ。で、出来上がった結果が好きか嫌いかは、観る人による。浅田は「気に入らなかった」からこそ、ああいう評論を書いただけにすぎない。
わたしはといえば…うーん、そうだな、大絶賛するほどではないかな。とは思う。自分好みではない理由を、浅田ほどの理論武装をもってここに書けるわけではないけれども。
ただまあ、この映画以降に公開された、いち庶民が太平洋戦争に巻き込まれる様子を描いたとあるアニメーション映画があって(公開以降半年たってもほとんど「不評」が聞こえてこないという、不思議なくらい不気味な作品でもある)。
史実の戦争がモチーフになった映画として、どちらが自分の好みかと問われたとしたら、わたしは迷うことなくこの『FOUJITA』を推します。<映画として「細部を説明しない」「セリフとして語らない」美学>のはまり具合が、この映画ではより徹底されているように感じた、というのがその理由。出演者の演技、監督の演出、BGMを含む音響効果、などなどを総合的に判断した上で、わたしはそう思った、というだけのこと。
…難解なのがいいの? それってただのスノビズムじゃないの? という声も聞こえて来そうなんだけど、この場合は「スノビズム」とはちょっと違うかな。うーん、そこいらへんの説明を効率よく言語化することが、今のところ充分にできないのが自分でももどかしい。
 
 
まあ、映画の好き勝手な感想をここに記しているかぎり、いつかはこのあたりもきちんと書けるようにならなければダメだよね。わたしの今後の宿題です。