実況の神

tongariyama2006-03-22

なんで今頃ニュースのネタになってるんだ(笑)
Yahoo!ニュースは↓
http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=photo&d=20060322&a=20060322-04336501-jijp-spo.view-001

以下の引用は3月22日付の東京新聞、他に掲載された記事から。

観客、試合状況ネット配信
 青森市で開かれたカーリングの日本女子選手権は、トリノ五輪代表の「チーム青森」が実力通り優勝して閉幕した。この試合のもようは、地元テレビ局が予選の一部を中継しただけだったが、一方で試合の動きをインターネットで即時配信する観客が出現、会場に来られなかった全国のファンから「分かりやすかった」と大いに喜ばれた。
 試合内容を伝えたのは、札幌市に住む高松賢司さん(三一)ら4人。会場で初めて知り合い、意気投合したという。一人がカーリングの石に見立てた2色の磁石と、ハウス(的)を描いた手づくりボードを用意し、ショットが終わるたびに石の配置の変化を再現。そこにもう一人が「ガード」「テークアウト」などとショットの種類を書いた紙を付ける。これを高松さんが小型カメラで撮影、パソコンを使って1分ごとに画像を配信した。
 また、別の男性が試合の動きを携帯電話からネットの掲示板に書き込む。こうして刻々と情勢の変わるカーリングの醍醐味(だいごみ)を、静止画像と文字で伝えていった。
 高松さんは、反響の大きさに驚きながら「競技内容はちゃんと伝えた方がいい。(テレビが)すべてを中継すれば伝わるが、ニュースで触れる程度では分からないから」と話す。
 こうした観客の取り組みについて、チーム青森のスキップ小野寺歩さんは「選手には、カーリングというスポーツ自体を見てほしいをいう思いがある。一つ一つのショットをネット上で伝えてもらったことはとてもうれしい」と歓迎していた。

実はワタクシもこの時の実況板にはリアルタイムで参加しておりました。いやホントに凄かった。「歴史に残る実況」「すでに伝説」などとあちこちで評されてますが、さもありなん。ネットでのスポーツ観戦の新たな可能性を、ひしひしと感じたものでした。つーか、余計なしゃべりだのCMだのが入るテレビ中継が、いかに不必要かってことを思い知ったなぁ。WBCとか見てても、イライラするったらありゃしない。
観戦者の目が相当肥えてきてるってこともあるし、コマーシャリズムとスポーツ…というか、「経済行為」と「文化活動」の折り合いの付け方って、昔に比べてますます難しくなってきてるよねえ。
 
●実況スレの全過去ログはこちらで読めます→http://1st.geocities.jp/kari060313/log.html
●決勝戦のカメラ画像入り実況スレはこちらに→http://iroiro.alualu.jp/curling/index.html
●決勝戦で配信された画像のみなら→http://iroiro.alualu.jp/view25curling/view25.cgi

リトルプレスの愉しみ

時代に逆行するようだが、ネットワークで繋がっていなければ成立しないような世界より、クローズドな、まったく個人的な謎の詰まった世界のほうに魅力を感じる。その世界に近いのはWebではなくてDTPである。

全文引用したいくらい共感できる文章。読みながら、自分がはじめてパソコンを買ったときのことを思い出した。
 
 
自分の場合、どうしてもパソコンを買わねばならぬという思いに衝き動かされたのは、津野海太郎本とコンピューター』(晶文社、1993)を読んでからだった(季刊誌『本とコンピュータ』とは別物)。この本はまさしくデスクトップパブリッシングの黎明期の熱気を伝えていて、読んでいるうち身体が熱くなってきたのを今でも鮮明に覚えている(読書でああいう体験は後にも先にもこの一冊だけだ)。津野さんには他にも『小さなメディアの必要』(晶文社、1981/現在は青空文庫[aozora.gr.jp]で読める)や『小さなメディアの作り方』(確か別冊宝島だったはず)など、今風に言うならリトルプレスに目配りの効いた著書が多く、若い頃の私はずいぶん影響を受けたものである。
なので、購入するパソコンはマッキントッシュ以外にあり得なかった。そして、自分のパソコンを買って一番最初にやったことは、とうぜんDTPなのだった。
「フォントマニア」と題した、B5判8ページのパンフレット。タイトルからして相当おこがましく、その内容は今見ると赤面の極みのようなしょぼいモノではある。第一、フォントといってもMacにデフォルトで入っていたChicagoやNew YorkやOsakaフォントしか使ってないし(システムは漢字Talk6だったか、もう7になっていたか)、Illustratorでちょこちょこっと変形させるだけで「おお、タイポグラフィだ」などと満足していたんだから、なんともレベルの低い話なのだ。
あれ、どこ行っちゃったかなあ。捨てた記憶はないので、部屋のどこかに転がってるとは思うんだけど。
その<自称個人誌>に、確かこういう趣旨のことを書いた気がする。曰く「パーソナルコンピューターはパーソナルなメディアなのだ」「ネットワークをオフにせよ」
まだ個人がインターネットに接続するにはまだまだコストがかかりすぎて、パソコン通信が主流だった頃の話である。しかし、世界中のパソコンをつなぐネットワーク社会の到来はもう目前だ、との言説で世は満ちていて、そういう風潮に対するささやかな反抗をしたかったものと思われる(笑)。まあなんですな、思春期ポエムみたいなものですかな(大笑)。
 
話を戻して、リトルプレスじたいは、しかしコンピューターをさほど介在させずとも作れるようにも思う。もちろんあった方が、なにかと便利ではあるんだけど、結果がある程度予想できるのはちょっとアレかもしれないな、とも思う。
いま、もしも私が自分のために何か作るとしたら、昔ふうに版下台紙を使い、紙焼き写真やイラストレーションやテキストをペーパーセメントで貼り付け、それをそのまま製版してもらうやりかたを選ぶかもしれない。デスクトップで全てをコントロールし完結させるのではなく、予測しがたい要素をひとつかふたつ、プラスさせることによって、完全性を放棄するような方法論。版下原稿にトレーシングペーパーをあててものすごぉぉぉぉく複雑なアミ指定をして、校正があがった段階で「あちゃあ、失敗しちゃった」とか「お、計算通りうまく行ったぞ」とかいう興奮を楽しんでみたいのだ。
効率第一の仕事だったらまず許されない、こんなバクチみたいなドキドキ感は、良くも悪くも「自分」の範囲の中に収まってしまうデスクトップパブリッシングでは、あまり味わえないという気もするのだ。
 
リトルプレスといえば、そういえば『本の雑誌』2006年4月号に永江朗さんが「リトルプレスの増加と出版理念の変容」というコラムを書いていた。こちらもなかなか考えさせられる文章だった。