リトルプレスの愉しみ

時代に逆行するようだが、ネットワークで繋がっていなければ成立しないような世界より、クローズドな、まったく個人的な謎の詰まった世界のほうに魅力を感じる。その世界に近いのはWebではなくてDTPである。

全文引用したいくらい共感できる文章。読みながら、自分がはじめてパソコンを買ったときのことを思い出した。
 
 
自分の場合、どうしてもパソコンを買わねばならぬという思いに衝き動かされたのは、津野海太郎本とコンピューター』(晶文社、1993)を読んでからだった(季刊誌『本とコンピュータ』とは別物)。この本はまさしくデスクトップパブリッシングの黎明期の熱気を伝えていて、読んでいるうち身体が熱くなってきたのを今でも鮮明に覚えている(読書でああいう体験は後にも先にもこの一冊だけだ)。津野さんには他にも『小さなメディアの必要』(晶文社、1981/現在は青空文庫[aozora.gr.jp]で読める)や『小さなメディアの作り方』(確か別冊宝島だったはず)など、今風に言うならリトルプレスに目配りの効いた著書が多く、若い頃の私はずいぶん影響を受けたものである。
なので、購入するパソコンはマッキントッシュ以外にあり得なかった。そして、自分のパソコンを買って一番最初にやったことは、とうぜんDTPなのだった。
「フォントマニア」と題した、B5判8ページのパンフレット。タイトルからして相当おこがましく、その内容は今見ると赤面の極みのようなしょぼいモノではある。第一、フォントといってもMacにデフォルトで入っていたChicagoやNew YorkやOsakaフォントしか使ってないし(システムは漢字Talk6だったか、もう7になっていたか)、Illustratorでちょこちょこっと変形させるだけで「おお、タイポグラフィだ」などと満足していたんだから、なんともレベルの低い話なのだ。
あれ、どこ行っちゃったかなあ。捨てた記憶はないので、部屋のどこかに転がってるとは思うんだけど。
その<自称個人誌>に、確かこういう趣旨のことを書いた気がする。曰く「パーソナルコンピューターはパーソナルなメディアなのだ」「ネットワークをオフにせよ」
まだ個人がインターネットに接続するにはまだまだコストがかかりすぎて、パソコン通信が主流だった頃の話である。しかし、世界中のパソコンをつなぐネットワーク社会の到来はもう目前だ、との言説で世は満ちていて、そういう風潮に対するささやかな反抗をしたかったものと思われる(笑)。まあなんですな、思春期ポエムみたいなものですかな(大笑)。
 
話を戻して、リトルプレスじたいは、しかしコンピューターをさほど介在させずとも作れるようにも思う。もちろんあった方が、なにかと便利ではあるんだけど、結果がある程度予想できるのはちょっとアレかもしれないな、とも思う。
いま、もしも私が自分のために何か作るとしたら、昔ふうに版下台紙を使い、紙焼き写真やイラストレーションやテキストをペーパーセメントで貼り付け、それをそのまま製版してもらうやりかたを選ぶかもしれない。デスクトップで全てをコントロールし完結させるのではなく、予測しがたい要素をひとつかふたつ、プラスさせることによって、完全性を放棄するような方法論。版下原稿にトレーシングペーパーをあててものすごぉぉぉぉく複雑なアミ指定をして、校正があがった段階で「あちゃあ、失敗しちゃった」とか「お、計算通りうまく行ったぞ」とかいう興奮を楽しんでみたいのだ。
効率第一の仕事だったらまず許されない、こんなバクチみたいなドキドキ感は、良くも悪くも「自分」の範囲の中に収まってしまうデスクトップパブリッシングでは、あまり味わえないという気もするのだ。
 
リトルプレスといえば、そういえば『本の雑誌』2006年4月号に永江朗さんが「リトルプレスの増加と出版理念の変容」というコラムを書いていた。こちらもなかなか考えさせられる文章だった。