ロック、あるいはロック的な

3月29日のコメント欄の件につき、引き続き。って、以下は、たぶん自分にしかわからないメモ書きでしかないけれど。
 
つまるところ、アンディもドーナルも「ロックの人」だ。それはライブを観ているとよくわかる。私が本編サイトのライブ感想記事のトップに「ロック」云々の引用を置いたのは、そういうことでもある。「これはロックですよ」とわかりやすく宣言しておいた方がいいだろう、ということだ。モザイクの音楽は、その根っこのところで、激しくロックなのである。ま、細部をよく眺めると、たとえばニコラなどは、その立ち位置が少し違うような気もするのだけれど。
 
で、その音楽を受けとる側である私たちも、もはや「ロックの人」ではないように思う。「プランクシティ史観」と、先のエントリで私がとりあえず名付けたものは、とりあえず「ロック史観」でもある…として、たぶん、私は、そこのところに軽い引っかかりを感じたのではなかろうか。もちろんそれは重要な歴史ではあるけれども、アクチュアルな「いま・ここ」に、果たして通用するものなのかどうなのかを問題にした方が、よりいいのではないか。
 
要するに、「ロック」というフィルターを通さずして、ダイレクトにアイルランドの音楽を受けとり、あるいは楽しみ、あるいは自ら発信するひとが、そうとう増えている、ように思える。そういう人たちにとって、たとえばプランクシティの音楽が、いま、いったいどこまで有効なのだろうか、ということだ。現代アイルランド音楽の隆盛が「ロック」抜きに語れないことは疑いようのない事実だろうけれども、違う回路からのそれもまた、同じように重視しなければ、どうも落ち着きが悪いような、そんな気がしている。