冥土の旅の一里塚

新しい年を迎えたからといって、とくに抱負などはない。またひとつ年齢を加えてゆくのかという感慨ならあるが。
できることなら自分はひっそりと静かに消えていきたいと考えているのだが、浮き世に身を置いているとそうもいかない。嫌が応にでも他人と関わらざるを得なくなる。それはまぁ構わないのだが、時折、向上心のカタマリというかやたら右肩上がりな人に会ってしまうことがあり、たまらなくなる。
そういう人によれば、常に自己改革を目指し、より素晴らしいニンゲンになるべくいつも前を向いて歩んでいかなければならないそうだ。
 
うるせえ。
 
常に新しい自分にバージョンを更新するということは、それまでの古い自分の殻を脱ぎ捨てるということでもある。いままでの自分のどこかの部分を切り捨ててゆくという作業でもある。ということは、いままでの自分に関わってきた他人の一部分を切り捨ててゆく作業でもある。
もちろん、生まれ落ちて以来、自分に関わる他人がまるごと減らず、ただ増えてゆく一方なんて人がいるわけがない。小中学校の同級生など、完全に疎遠になって顔も名前もすっかり忘れてしまった人の数の方が多いに決まっている。高校大学、あるいは同期の新入社員でさえ、何年かたつと一人抜け二人抜け、時間がたてばその存在も忘れ去られてゆく。人間は忘却する生き物でもある。忘却を自然の時の流れに任せるならば、その減衰の度合いもまたごく自然なカーブを描く。ヒトの記憶のメカニズムはまだ解明されていない部分が多いはずだが、何十年経ってふいに幼い頃の友達の顔が脳裏に甦ることもあるから、記憶が完全に抹消されることはないのだろうけど。
 
…なにを書こうとしていたのか、キーボードを叩いているうちにだんだんわからなくなってきたが(笑)、ええと、つまり「新しい自分=よりよい明日」なんて幻想つーかうさんくさい新興宗教を、しかしマジメに信じている人、自分で信仰している分には害がないがあろうことか他人に向かってその「ありがたい教え」を吹いて回る人に会うと、とても疲れる、のだった。そういう人々はまた、自身を善人と信じて疑わないから始末が悪いことこの上ない。なぁにが善人であるものか。
 
 * * *
 
自分がこの世から消えてなくなるその時に備えて、徐々にでも身の回りを整理していかねばと思う。人間関係の整理もその中に含まれるだろう。もとより人好きのするような、いわゆる「いい人」ではない私なので、ややこしい政治的な関係や、ましてや痴情にまみれた三角関係の渦中にいるわけではない(はず)だが、自分の関知していないところで恨まれていることは多いと思う。ある場所では思い切り嫌われているだろうことはおぼろげながら知ってもいるが、それが普通なのだろうとも思う。少なくとも「万人に好かれる人間」よりもよほど常識的普遍的であるはずだ。
 
他者との関わり、という点でいえば、しかし、自分には最後の大仕事がこれから待っている。自分の親を看取ること、だ。幸いにしてまだ元気に動き回っているし、少なくとも日常生活は今のところ不自由なくこなせてもいる(ように見える)。しかし、それも時間の問題だろう。それほど遠くない将来、毎日の買い物ができなくなったり、痴呆が進行したり、身体の自由がまったくきかなくなる日が来る。その日々をどうやって過ごせばいいのか、こう書きながらまだ何の準備もしてはいないのだけれども。
ともあれ、自分の始末のことを考えるのは、その後だ。