“今の自分”の選択基準

こういう観点から曲を選ぶとなると、非常にクリアに選曲できる。大体、一枚のアルバムで最高で 4 割くらいしか、そういう部分はない。あとは、今の自分にとっては必要のない音に聞こえる。そうなると、これまで CD というアルバム単位で買わされてきたのは、不要品抱合せのバルク商売にも思えてくる。音楽配信で必要な曲だけを買えるのは、健康な事態かもしれない。高田さんの本のもう一つのテーマは<掃除>である(「禅僧は掃除ばかりしている」20頁)。掃除は精神の集中によい。不要品、極論すればゴミは、できるだけ置きたくない。だから、音楽配信はそういう指向にも合っている。

すごく素直な反応なんだが、こういうことが思えるのは、単純に、凄いなあ、と思う。
「今の自分」に不必要だな、と思えるモノは確かにあるだろう。あるとして、しかし、いつの日かそれ必要になる日が来るかもしれない、とワタシなんかは思ってしまうわけで。そして、一度捨て去ってしまえば、もう二度と再会できないんじゃないか、という恐怖心も強くあるわけで。だからモノが捨てられないんだけども。


もうひとつ。「音楽配信で必要な曲だけ」を買うというのはいいとして、その「要・不要」の判断は、最低でも一度は聴いてみなければならないわけだけど、その時点の「自分」がどこまで信用できるのか、ていうか「信用」していなければこういう行為はできないんだろうなあ。ワタシの場合だと、昨日思っていたことと今日言うことが真逆ってコトもままあるんで、とてもじゃないが一時の判断だけで「要・不要」を決断できないのである。困ったことではあるんだが、しかし、こういう日替わりメニューのような性格だって、ありっちゃあアリでしょとは思っている。


ま、少なくとも、ワタシは禅僧にはなれないんでしょうけど。


宗教家のような態度というか、ぎりぎりの選択に神経を研ぎ澄ますことはワタシには無理だけれども、捨てるとなったら一切合切、全てを捨て去る、そういう覚悟なら持ってると思ってる。オール・オア・ナッシング。全てか無か。うん、少数精鋭よかそっちの方が自分向きかもな。


だもんで、「CDというアルバム単位」については、どっちかというと擁護派であるワタシであります。少なくとも、そのときの自分が気に入ってないからと言って「不要品抱き合わせ」などと非難する態度は、ワタシにはまったく理解しかねる。それに、自分にとって必要な曲しか聴かないというのも、それって果たして本当に「健康」といえるのかどうなのか。そりゃワタシだって、そもそも1枚のアルバムにお気に入りが1曲入ってたら合格点、それで充分でしょとしているが、かといってその他の曲を「不要品」とまでは言い切ることはできないなぁ。要は「選ぶ自分」はそこまでエラいのか?ってことなんだけれどもさ。ワタシはどっちかいうと音楽を「聴かせていただく」態度だなあと思うわけで。自分が音楽を選ぶんじゃなく、音楽の方が自分を選んでるんだ、みたいな。そんな感じ。




もっとも、こう書きながらも、最近はCDをあまり買わなくなったんで、こういう議論ももうどうでもよくなってきてはいるんだけどもね。