テキストは読まれない

にしても基本的な部分でテキストが読まれてないっていうか、昨今の人は言葉の持つ歴史の感覚っていうのはなくなっているのかなと思うことはあった。

ブログは読むモノではなく、眺めるモノである。
ブログが、というよりも、パソコン読書ってどうしてもそうなりがちじゃないかな。
再読三読、ことばの微妙なニュアンスまでじっくり味わい尽くすような「読み方」の文化は、まだ紙の本の方にあって、電子本にはないと思う。これは単に「テキスト読み」のキャリアの差だと思う。別にパソコン読書を全否定するつもりはない。
「言葉の歴史感覚」は案外メディアに左右されるんじゃないかなとも思う。たとえ同じ言葉でも、古い岩波文庫で見かけるのと出たばかりの新刊マンガ本で見るのとではその意味あいが微妙に違ってくるような気もする(具体例を出さずにこんなこと書いても全然説得力がないんだけど)


話をブログの読み方に戻すと、ダラダラと(小見出しのない)長文ブログの場合、出だしと結末をまず読んで、面白そうと思えば途中をざっと。なんかひっかかるな、と思ったら少し時間をおいて今度は頭から順に読む、という感じだろうか。少なくとも私の読み方はそう。
で、骨髄反射系の感想とかは、出だしと結末しか読んでない段階ですでに出ている。たいていの場合、その感想とか第一印象はそんなにはずれない。こういうの「だいたい合ってるよね」的理解でOKなのがブログである。誤読をおそれないというか、そもそも誤読なんてないものと思っている。
第一、細部を読み込まなければ理解できない文章なんて、最初から読まれない。
細かな伏線だの仕掛けだのがある文章は、あらかじめ明示的に宣言しておかないとフェアじゃないとか言われる。
明朗快活、くっきりと要点だけ描き出された誤解されない文章。これが「高度情報化社会」の求める文体だろう。要するに、みんな忙しいのだ。まとめサイトが流行るにはそれだけの理由がある。テキストの味わいとか言葉の深い意味など、誰も求めてはいないのだ。事情を飲み込めない、遅れてやってきた者にも瞬時にわかるように要約せよ。今すぐせよ。


ということで、最強の合い言葉は「今北産業」――コレである。