ジャッジする、ということ

ジャッジに関しては、勝ったか負けたかのジャッジは亀田になんの落度やとがめだてされることはないのだから、連日の報道にはいささか首をかしげている。ボクシングのプロのジャッジにはプロならではの見方や、それこそ判定というものがあるわけだろうし、亀田が頑張ってつかんだ世界戦というものをもっと純粋に賞賛してやったらいいじゃないかと、わたしなんかは思っている。

フィギュアスケートなどの採点競技から野球やサッカーの誤審騒動まで、現代ほどプロのジャッジメントに対する一般シロートの眼が厳しくなっている時代もないだろう。ビデオで何度も見直せる立場と、その場の一瞬で判断を下さなければならない立場とでは、見方が変わっても当然なんだが、今は一般的に「その瞬間の判断」は軽視される傾向にあると感じる。
それよりも、「判断のプロフェッショナル」に対する信頼がかなり低下し、しかもそれがさも当たり前かのようになかば常識化しつつあることの方が怖い気もする。


プロの権威というか、絶対的な不可侵な存在、というのは、確かに現在ふつうにはあり得ない。神はとうの昔に死んでいるのだから。
ならば、せめて競技の間だけでも「審判は絶対」というフィクションを受け入れる土壌が用意されていなければならないのだが、今のところ私たちが容認できる存在は、スピード競技における時計だけである。あれだって、実はフィクションみたいなものだとは思うが。

「人間を人間が裁くことの不可能性」は、単にスポーツ界に限らず、実は21世紀の大きな問題であるかもしれない。少々突飛だが、ブログやネットジャーナリズムVS.従来の大手マスコミ、という「図式」も、問題の根は一緒なのではないかという気がする。気がするだけだが。