ある蕎麦屋の思い出

唐突だが。
もう十数年前になるが、以前の職場の近くにおいしい手打ち蕎麦屋があって、よく昼飯を食いに通った。
主はいかにも頑固そうな、というよりやんちゃそうな若い人で、昼時の混む時間帯はみるからに不機嫌そうな態度だった。
彼の奥さん(と思う)は対照的にひどくおっとりしていて、なんだか生まれてこのかた一度も他人にだまされたことなどありません、てな雰囲気で、しかし動作ものろいのでしょっちゅう彼から怒鳴られていた。


まあ、客としてはそういうのを見てるだけで不愉快になるんだが。


昼時にはふたりをサポートするのにもうひとり入っていて、彼女の友人かなにかだろう(人間関係までは知らないのであくまで推測の域を出ないのだが)、こちらは明るく陽気な人で、ちゃきちゃきと手際よく客をさばいていた。



一年もたったころだろうか、ある日店に行くと、主がいない。今日は彼は休みなのかと思ってると、その後いつ行っても奥さんとその友人女性のふたりだけで店を切り盛りするようになっていた。


逃げたな、と思った。


主は、なんというか、いかにも学生のときから全国を放浪してたぜ、みたいなオーラが出まくっていて、ここで一軒の蕎麦屋を構えて定住すること自体が不本意だったような感じがしていた。そう思ってみると、彼が不機嫌だったのはなにも店が忙しかったからだけではないような気もする。


店の人としゃべったことなどないし、本当のところはどうだったのかはまったくわからない。あくまでこちらの勝手な思いこみである。でも、そういうストーリーが成立しそうな空気ではあった。


その後あの店がどうなったかは知らない。ほどなく休業したんだったかどうだったか、わたしも職場が変わってその店には通うことがなくなったし、今では場所すら覚えていないので確認しようもない。近所を歩けば思い出すかもしれないが、ま、そこまでするほどのことでもない気がする。
ただ、彼の、いかにも喧嘩の強そうな、瞳の大きい顔だけは今でもなんとなく覚えているのである。
それと気の弱そうな奥さんの顔も。