今日のことば

理想をいえば、飯喰う為にデザインはしないほうがいい。これで飯を喰わなければればと思うから、必要性の無いものまでデザインすることになる。最近では、幼稚園の園舎の設計にまでデザイナーが、それも広告畑のデザイナーが口を挟むようになった。そのデザイナーはデザインする領域をどんどん広げたいらしい。教育現場にデザインを持ち込むことで、より豊かな教育ができると思うと語っていた。遊具のような園舎を作ったらしい。いかにも広告畑のデザイナーが考えそうなことだ。園長も喜んでいるという。しかし幼稚園にとっても最も大事なことは、すべての子どもたちに保育士の目がちゃんと届いているかどうかということだ。広告のような園舎とデザイナーが関わった制服は、園長の為には素晴らしい広告となるだろうが、それは子どもの教育とは何の関係もない。もしデザイナーがすべてのものに関わりたいと思うなら、まずは自分のそういった欲望を検証することから始めて欲しい。


ごくたまにだけど、デザインの役割とは何だろう、良いデザインって何だろう、と考えこんでしまう時がある。わたしはいかにも「デザインしました」的な製品はあまり好きではないのだけれども、とはいえわたしにも身の回り品でいわゆる「デザイナー品」がいくつか転がっていたりするから、なんともバツが悪い。

文中で組版のことにも触れておられるが、デザインにしろ本文組にしろ、読者とか消費者に、あれ、と気づかせないのが良いデザインなんじゃないのだろうか。デザイナーはあくまで黒子役なのであり、黒子が前に出て芝居をするのはパロディとしてはあり得ても、それが通常なのではない。

西武百貨店の広告でぶいぶい言わせていた頃の、糸井重里の対談集で、そういう話題が出ていた。対談相手は先輩のコピーライターで、なにしろずいぶん昔に読んだきりなのでその方の名前も失念してしまったが、コピーライターが「時代の旗手」ヅラして世の中の真ん前に躍り出てくることの是非をやりあっていて、そこだけ妙に鮮明に覚えている(もちろん糸井氏は「どんどん前に出ろ」派だった)。


カタカナ職業などと(半ば揶揄気味であれ)もてはやされたのももうずいぶん過去の話だが、しかしカタカナ職業の「カッコよさ」に今なおいちばん憧れを抱いているのは、他ならぬカタカナ職業に従事している本人たちなのかもしれない。
本来、この種の仕事は「名もなき職人」の世界だったはずだ。いや、「名もなき」という日本語もわたしは嫌いなんだけど、少なくとも、今も昔も職人仕事ではあるはずだ。その本分を自覚しているかどうか、そしてそれを肯定的に受け止めているのかどうか。そのへんが分かれ道なのかもしれない。


上の引用文に即して言えば、広告デザイナーはエンドユーザーに目を向けたことなどこれまでいちどもなかった、と、やや暴言気味に言いたい。幼稚園をデザインしたデザイナー氏は、「園児のため」のデザインをしているフリをしているだけで、実際は「経営者」に向けてデザインしているのだろうと思われる。
広告が、一般消費者に向けて語っているようで、その実クライアントに向けて作られているのと同じ構図である。そうして、「お金をくれる側」に向けたデザインにもっとも手慣れているのは、いまの世の中広告デザイナー以外にいないのかもしれない。


たかが広告屋に領域を侵される建築屋こそが猛省すべきなんじゃないの、とも言えるかもしれないが。