ある衝動買い

どうやら自分には「フィクション」が合わないかもしれない、と気づいたのはいつごろだったろう。遅くとも小学生の頃にはうすうす感づいていたような気がする。わたしの姉はその昔ミステリ小説が好きで、クリスティやカーをはじめ、ハヤカワのポケミスやら創元推理文庫やらを大量に所有していた。面白いから読め、とさんざん勧められたし誕生日には子供向けのホームズものも貰ったりしたのだけれども、わたしは一向に読もうとしなかった。そのうち姉はわたしをミステリ好きにすることをあきらめた。
本が嫌いなわけではない、「フィクション」に食指が動かなかっただけだ、とは、その当時から漠然と思っていたのだが、それがなんとなく悪いことのような、なんだか後ろめたいことのような気がしていて、だからいまだに自分のことを「本好き」「読書家」であるとは思えない。
本だけではない。映画も滅多に観ない(そういえば姉は無類の映画好きでもあった)。お芝居にも行かない(ちゃんと演劇を観たのは2、3度くらいだ)。かろうじて楽しんでいるのは漫画くらいで、アニメにもほとんど関心がない。ガンダムエヴァンゲリオンも知らなければ、けいおんハルヒも観たことがない。かろうじて、エヴァだけはごく最近になってYou Tubeで数話眺めたが、それだけである。
漫画にしてからが、長いハナシはもとから苦手だったが、ここにきて億劫さに磨きがかかってきて、巻数の多い漫画はもうそれだけで敬遠する。一話完結モノの作品のいくつかだけ、かろうじてコミックスを買っている程度である。一昨年に引っ越しをした際に持っていた漫画を大量に処分したことで、なんだかツキが落ちたように、その後はあまり買わなくなった(ついでに言うと、音楽CDもきれいさっぱり買わなくなった)。


そもそも小説のたぐいをほとんどパスしていた自分が過去に何を読んでいたかというと、中学生のころいちばん面白かったのは、本屋でタダで貰える新潮や角川の文庫目録だった。いま手元には一冊も残っていないが、書名と著者名の下に、数行ほどのあらすじというか解説めいた文章が載っていて、それを眺めてわたしはその本をすっかり読んだ気になっていたのだ。数行ほど、と書いたが、今で言うツイッターの文章量程度である。ツイッターで同じようなことをしてくれる猛者がいるのなら、当時のわたしならよろこんでフォローしていただろう。
なぜ「フィクション」が苦手なんだろう、と時々考えるのだが、どうもよくわからない。オハナシが嫌いなわけではないのだが、どうにも面倒臭いのだろう。物語そのものを読むよりも、文庫の後ろに載っている解説だとか、今なら個人ブログの感想文だとか、ウェブサイトに掲載される作者のインタビューやエッセイなどの方を先に読んでしまう。読んでしまって、肝心の本文は読まないのである。周辺情報だけを仕入れて、それですっかりその小説を知った気になってしまうのである。なんとも商売にならない客である。
小説とはひとつの世界だから、いちどその世界にハマるととことんのめり込んでしまいそうになる自分がいて、だから事前に自分でブレーキをかけているのかもしれない。ひとり気になる作家がいればすみずみまでその世界を知り尽くしてしまいたくなる性質ではある。だから、「小説は読まない」と言ってもたとえば小林信彦の本はたいてい揃ってたりする(もっとも、ここ数年はエッセイ集でさえ買っているだけで全く読んでいないが)。かつては椎名誠もそうだったが引っ越しの際に全部売り払ってしまった。筒井康隆司馬遼太郎もいくつかの文庫本だけ残して全部処分した。片岡義男もそうだ。


先日も本屋に行って、久しぶりになにか読んでみるか、とあれこれ物色してみるものの、どうも「面倒だ」という気分が先に立ってしまい、「面倒である」と自分が思っていることそれ自体にちょっとしたショックを味わった。こういうのを老化というのであろう。それでも何か読みたいな、と思い、結局『四畳半神話大系』を手に取った。小説の方ではない。フィルムコミックだ。というかこれが小説を原作にしているとは知らなかったし、テレビアニメも評判だけはなんとなく聞いていたものの深夜アニメを観る習慣もないので、結局全く観ないままだった。手に取った本は、そのアニメをもとにしたコミック版だという。あ、これでいいや。と思った。これでアニメを観た気になろう、と。
帰りの電車の中でビニールパックを破り、読み始めるとすっかりハマってしまった。その夜のうちに読み終えて、気がつけばパソコンを立ち上げて動画サイトを検索し、テレビアニメのOPやED、MAD動画なんぞを大量に観まくった。次の日には再び本屋へ行って「公式読本」などというのも買ってきた。原作者のことすらなにも知らなかったのだがブログを見つけて読みふけり、その人となりを学習した。
そうして、気がつけば、通販サイトでブルーレイ全4巻とサントラCDと「公式読本」とは別のガイド本を注文していた。まもなく届くであろうその品々を前に、わたしはたぶんしばし立ちすくむかもしれない。買ったことそれ自体に満足してしまって、ディスクはいちども再生しないまま、物置のすみっこに片付けられてしまうかもしれない。これらの商品の購入には少なからぬ金額がかかっていて、今のわたしにはそんな散財をする余裕などどこにもないのだが。さらにいえば、ディスクをゆったり鑑賞している時間もほとんどないのだが。
それにしても、この一連の衝動買いというか大人買いのなかで、結局原作の小説はまったく素通りしてしまっているのがわれながらおかしい。いや、正確には、本屋で文庫本をすこしだけ立ち読みしたのだが、結局レジには持っていかなかった。なんだか「面倒臭そう」と感じたからである。こういう自分の精神構造が、いまだによくわからない。