ジャンルがわからねえ、あるいはローカよこんにちは

年々、買い物が下手になっていってる気がする。
先日、スーパーに餅を買いに行った。ひとつずつパックになってる切り餅だ。そんなもんすぐに見つかるだろうとたかを括っていたのだが、売り場のどこを探しても見つからない。米のコーナー、なし。パックご飯のコーナー、なし。レトルトおかゆなんかの隣にあるんじゃないかと見回しても、なし。あれれー。
もしかして正月しか売ってないんだろうか、いや、まさか。
で、埒があかないので店員さんに尋ねた。すると、なんとなんと。
案内されたのはあられやおかきを置いているお菓子のコーナー。いや、確かに餅米加工品なんだろうけど、いやそんな、だってまさか。
お餅って、菓子か主食かと言われると、どっちかというと主食に近い方だと思うんだけど。そうでないにせよ、お米やご飯と近い所に置いててもいいんじゃないのか。
そのスーパーだけがそうなのか、他の店ではどうなのかまでは知らない。しかし、わたしにとってはちょっとしたカルチャーショックではあった。


話はうんとかわって、本の話。先日、守村大さんの『新白河原人』が書籍化された。週刊モーニング誌に連載されているコラムで、わたしは同誌を毎週買っているわけではないけど、手にしたときはそのコラムもだいたい読んでいた。とうとう一冊の本になるというのを本誌で知って、いそいそと本屋に向かったのだけど、さてどこのコーナーにいけば置いているのか。
近ごろもの覚えがうんと悪くなっていて、まず書名を覚えていない。申し訳ないが作者名もあやふやだ(お名前の「大」を「しん」と読むなんてわからないよねえ)。モーニング誌の広告では「コミックコーナーにはありません」と書いてあったので、文芸書の新刊コーナーやエッセイ、サブカル関係の棚を見て回る。が、それらしい書影はみあたらない。
本のタイトルや著者名があやふやなので、店員さんに聞くわけにもいかない(それでいて、実物を見ればああこれだ、と一発でわかる自信はある)。いちばんやっかいな事態だ。
何軒か本屋をまわって、コンピュータ検索機のある大型書店に行った。自力で検索してみるか。とりあえず出版社は講談社で間違いない。書名は空欄でいいや。で、著者名、えーと、むらもり…?いやもりなんとか…?
トライ&エラーで試行錯誤。「もりむら」「こうだんしゃ」と入力して、ようやく「新白河原人」という書名が出てきたときは嬉しかった。おお、これだこれだ。で、どの売り場に行けばいいの。と→ボタンをプッシュ、すると「理工学書」と出てきた。


ええー。


よくよく見ると「理工学→建築」とある。ああ、なるほど。本書は作者が自力で丸太小屋を造ってしまった話でもある。じゃあまんざら間違いでもないのか。
アウトドアコーナーまでは見ていたけど、まさか建築書とは思いもよらなかった。内容を考えたら確かに合ってはいる、のだろう。ただわたしがこの本をDIYの本だと認識していなかっただけなのだ。
建築コーナーに行くと、確かに本書が数冊、積まれていた。手にとって目次を見る。現在連載中の<できるかぎり電気を使わない生活>の章は、やはりまだ収録されていない。いちばん読みたかった部分ではあるけれど、まあこれはしょうがないでしょう。この本がちゃんと売れたら、きっと続刊も出ることだろう。それに期待することにして、いそいそとレジに持って行った。


いやしかし、建築コーナーですか。
実をいうと、わたしは本でも音楽でも、ジャンル分けに困るような微妙なタイトルがわりと好きな方だ。ていうか、わざわざ変なジャンルを好んでいるのではなく、たまたま自分の興味のある範疇が一般のジャンル分けからすると分類に困るようなだけなんだとは思うのだけど。
なので、自分が欲しいものを探し出す嗅覚については、昔からわりと自信がある方だった。「そんな本(あるいはCD)、いったいどこでみつけるんだよ」と知人によく言われていて、それがひそかな自慢でもあった。その嗅覚が、ここ数年あまり役に立たなくなってきた。うーん、カンが鈍ってきたのか、それとも?

とりあえず目当ての本それ一冊だけなら、ネットで調べて注文するのがいちばん確実で、早い。今回の件なら、とりあえずモーニングのサイトへ行けば書名がわかるんだし、それをコピペしてあとはアマゾンでもジュンク堂でも、すきな通販サイトでオーダーすればよい。
しかし、そんな買い物に慣れてしまうと、リアル店舗での買い物が下手になってしまう、いや、これってたんに自分が老化しているだけなのかもしれないけど。目指す商品がどのジャンルに属しているのか、世間一般の(あるいはその店舗の)ものさしを考えに入れ、当てはまりそうなコーナーを片っ端から当たってゆく。かつては得意としていたそういう買い物が、今や苦痛になっている自分に気づく。たんに短気になってきただけなのか? そういえば、気が短くなるのは老化の始まりか。
こうやって、徐々にではあるけれど、社会全般と自分自身との折り合いが、すこしずつ、つけにくくなっていくんだろうなあ。そんでもって、思い通りにスムーズな買い物ができなくなって「なんでこの店にはオレの欲しいモノがねえんだ」などといきなり理不尽に怒り出すんだろうなあ。そりゃただの迷惑老人だ。

老化のはじまりをもうひとつ。『新白河原人』を発見するひとつまえの書店で、『野口久光シネマ・グラフィックス』を見つけた。同題の展覧会をこの夏やっていたのだけど、時間がなくて行きそびれていたのだ。その図録が書籍として発売されていたのか! おお、これは嬉しい。こういう、思いもかけぬみっけものをするのが、リアル書店をうろうろしているときの楽しみであり、よろこびだ。
一冊しか在庫がないその本を手に、『新白河』を求めて店内あちこちをうろうろしていた。しかし、どうもここにはなさそうだ、あきらめて他の本屋に行くか…と、まったく別の新刊書をパラパラと立ち読み。ちょっと気になっていた本だけど、中身を見たらたいしたことないや、とその場を立ち去る。
数歩歩いて、さっきまで手にしていた野口久光がないことに気づく。あ、さっきの新刊書コーナーに置き忘れていたのだった。
老眼が激しくなって、本を読むのにいちいちメガネを外さないと読めないのだ。面倒だけど片手でメガネをはずし、もう片方の手で本を持ってページをめくる。とうぜん、両手がふさがるので、それまで抱えていた野口久光をいったん手放すことになる。でもって、手から離した瞬間、もうその本のことはすっかり頭からも離れてしまう、という寸法だ。いやはや、老化現象にもほどがある。このままエスカレートするなら、来年のいまごろにはきっとアルジャーノンに花束だろう。…と、今はまだ冗談めかして書いていられるのだけれど…