テレビアニメ『有頂天家族』

全13話、放送期間中こんなに何度も録画をリピートしたテレビ番組は、過去にちょっと記憶にない。物語序盤こそ様子見を決め込んでいたのだけど、物語が半分ほど進んだ頃にはもうすっかり夢中になっていた。録画を何度も見直すだけでなく、ネット上のいろんな感想サイトをこまめに巡回し、回を追う毎に深まる(あるいは混迷する)さまざまな考察にほうほうとうなずいたりもした。この三ヵ月間は、この愉快な物語にどっぷりと首まで浸かりっぱなしだったのだ。
原作は全話終了するまで読まないつもりだったんだけど、第12話を見た直後にたまらず購入。すぐさま読み終えた。それで最終回(第13話)をどうまとめるのかたいへん楽しみだったのだけれども、それまでのクオリティがとんでもなく高いものだったからさらに期待のハードルを上げすぎてしまったのだろうか、最終話はいささか物足りなくもあった。

題名にもあるとおり<家族の物語>であることは公式読本をはじめとする各種インタビューで、制作側が繰り返し強調している。いまどき照れくさいほどの<王道>を、しかし狸に演じさせることでそのテレがいくぶんかマシになるかもしれない…という意味のことを、原作者も語っていたように記憶している。
原作最終話には、亡き父・下鴨総一郎の思い出とともに、かれが残した「兄弟仲良くせよ、けしてバラバラになるな」という内容のセリフが強調される。しかしアニメ版ではこのシーケンスがごっそり削られてしまっていた。
同様の主旨のセリフは物語の途中にも出てくるので、その1回で済ませてしまったのだろうか、しかし、この物語の肝というか大きなテーマだと思うので、最終話にもふたたび登場させた方がより締まるというか、物語の輪郭がよりくっきりするように思ったのだが。ま、いまどき説教臭いセリフかもしれないけれども、だからこそ照れずに、かつクサくならずにちゃんと言わせて欲しかった。
そう、まったりというか淡々とというか、意外にあっさり終わっちゃったな、という印象だったのだ。クライマックスの大暴れはもっともっとしっちゃかめっちゃかでもよかったし、それでエンディングのしっとりとした年始参りとの対比もできただろう。第12話がとてもアニメらしく楽しい出来だったから、続く13話はさらに上を行く大騒ぎになるかと(いや、じっさい大騒ぎだったんだけど)。
あらゆる問題を引っ張るだけ引っ張って、最終話で全部カタをつけるには通常の放送時間では短かったのだろうか。11話はOP、12話・13話では通常のEDを削っていたが、最終回はスペシャル版で45分枠とかが必要だったかもしれない。せめてもうあと5分でもあれば、先の大きな〆のセリフも入った堂々たる大団円、となったろう。ま、原作を知らなければ、これはこれでアー楽しかった、と言ってただろうし、やはり最終話を見終えるまで原作は我慢すべきだったかなあ…。

それにしても毎週放送のテレビアニメとは思えないほど美しく丁寧に仕上げられていた。芝居も細かく、原作が豊穣な言葉のマシンガンであるのに対してアニメ版はセリフをできるだけ刈り込み、その分丁寧な演技と間で物語を動かしていた。だからこそ、何度でも録画をリピートしたくなるのだ。

背景美術もやたら美しい。けしてリアルな京都を描いているのではない、という話だが固有名詞はばんばん出てくるし描写自体はじつに写実的だしで、現実以上に現実らしい「京都」がそこにある。京都に行きたくなる人、いわゆる「聖地巡礼」したくなる人がどっと増えるのもむべなるかな、だ。
とはいえ、ここまで具体的に描かなくても、という気もする。たとえば『たまこまーけっと』の主要舞台ともなった出町の商店街は、本作では実在の名称(桝形)がそのまま使われていているが、そこまで背景に具体性をもたさなくても成立するお話ではあると思う(じっさい、第1話に出てきただけだったし)。『たまこまーけっと』みたく「うさぎ山商店街」でもなんでもいい、適当な名前をつけて<架空の京都><パラレルワールドとしての京都>が舞台である、という風にしていても問題はなかっただろう。五山の送り火の夜空に花火の撃ち合いという無茶をするなら、<偽京都>が舞台の方がなにかと具合がいいはずだ(送り火はそんな派手な行事じゃない。にぎやかに騒ぎたいならまだ祇園祭の方が似合うだろう)。その送り火の告知ポスター、たしか2話か3話あたりに出てきたが、あれも実物を京都駅で見つけたことがあって、なにもここまでリアルに忠実に再現しなくても、と驚いた。こういうのってロケハンに協力した京都市側からの要請もあったのかもしれないが、たとえば同じ原作者のテレビアニメ『四畳半神話大系』は人物も背景も極端にデフォルメされ、抽象化されている。同じ京都が舞台とはいえ(そして京大や吉田山や木屋町など多くの場面で具体的な場所がじゅうぶん推察可能とはいえ)、画面上の京都はあくまで<ファンタジーとしての京都である>ということが感覚的にわかるようになっている(そういえば、四畳半は画面をシンプルにした分、ナレーションをこれでもかというほど消費した。対して有頂天は言葉を節約しているかわりに絵をめいっぱい作り込んでいる。これに限らず、両作品の比較はいろいろと興味深い)。

…などなど、ちょっとばかし文句めいたことも書いたけど、全体としてはこの三ヶ月、とても楽しませてもらった。オフィシャルブックやサントラ盤はもちろんのこと、全7巻のブルーレイディスクもどうやら買いそろえることになりそうだ(いつの日かコンパクトなBOX盤が出るのなら、置き場所のことを考えたら絶対そっちの方が良いのだが…)。