マルメロの陽光

本家ブログのこの記事→http://www.tongariyama.jp/weblog/2013/05/post-2dc9.html のコメント欄で教わって、映画を観てきた(1992年、ビクトル・エリセ監督作品)。
地中海映画祭とかいう企画の中での上映なので、たった一回きり。会場の京都シネマは100席ほどの小さなスクリーンだが、満席御礼。職場に近かったので昼休みにチケットを買っておいて正解だった。
1992年公開の作品(撮影は1990年頃)で、淡々と、ひたすら淡々と進む映画だ。BGMはほとんどなく、大通りのクルマやバイクの音や生活音が心地よく響く。主人公のアントニオ・ロペスが制作中にラジオを聴く(Panasonicのラジカセだった)中で、湾岸戦争のニュースが入るのが時代を感じさせる。


封切り上映ではないのでパンフレットが販売されてることもなく、上映にあたって予告編その他が映されることもなく、場内が暗くなるといきなり本編が始まる。
ロペスの展覧会を先に見ていたので、唯一そこだけは予備知識があったと言えるが、もしそれすら知らなかったら頭の上に特大のハテナマークをいっぱいつけていただろう。なにしろ、映画はいきなり大工仕事から始まるのだ。
大きな木材を切り、金槌でトントンやり、いったいこの人はなにをやっているのかと思ってたらそれがキャンバスを自作しているのだった。木枠をつくり、パネルを打ち付け、そこに画布を張る。次に、庭に脚立を運び、杭を2本うち、間に糸をくくりつける。中間点に鉛の芯のついた糸を垂らし、垂直を取る。イーゼルとキャンバスを運び込み、場所を試行錯誤し、立ち位置を決める。足場をスコップで均し、両足のつま先部分に釘を打つ。そうしてやっとキャンバスに向かったと思ったら、おもむろに木の後ろの煉瓦壁に白い絵の具で印をつけていく。なにかの目印なんだろうか。そうしてようやく、定規をとりだして画面に水平線と垂直線を鉛筆で描き、画面の中心を決める。
映画がはじまってここまでで2〜30分くらいたってるだろうか。いやはや、実にゆったりとした時間が流れるのだ。初日の仕事はほぼ準備だけで終わっている。
翌日。月曜日となり、自宅(?)のアトリエの改装工事が始まる。妻らしき女性、息子らしき男性、移民労働者らしき工事業者などが登場し、それぞれ活発に動き出す。街の喧騒が昨日よりも大きい。画家はそんな中、鼻歌を歌いながら黙々とキャンバスに向かう…そんな日常が繰り返される。
画家は庭に植えたマルメロの木を描いているのだが、朝の一瞬、木の上の方にかかる光が美しいので、それを描きたいのだという。映画は10月から始まる。太陽の位置なんて毎日動くし、マルメロの葉や果実だって日々成長していく。そんなのんびりとやってたら絶対間に合わないだろ、と思うのだが主人公はあくまでもマイペースだ。
案の定、数日もたたないうちに天候がわるくなる。工事業者の手もかりて木の回りにテントをたて、荒天の中それでも彼は画布に向かう。台風のような大雨が数日続き、足元はぬかるんですでにぐしゃぐしゃだ。これはたまらん、とキャンバスを持って彼はようやく家の中に避難する。
同じ画家仲間が遊びにきたり(ミケランジェロを巡る芸術論もよかったが、後半、いきなりふたりで歌い出すところが実によかった。見事なハーモニー!)中国人バイヤー?に自分の絵のスタイルを説明したり(そのシーンはいい天気だったのが泣ける。おしゃべりしてるヒマがあったら少しでも筆を進めたいだろうに、けれども、そういう時間も含めて「制作時間」なんだと最後には納得してしまうのだが)、日常のあれこれがたくさん挿入されるのだが、絵の方は一向に進まない。ざっと描き進めてから、全体をもう5〜6センチ下げるべきだった、とかいって描き直してしまったりするのだ。その間にもマルメロの実はどんどん大きくなる。描きはじめのころから果実にもつけていた白絵の具の印の数は増えていく一方で、もはや画家本人以外にはなにがどういう目印なのかさっぱりわからない。
11月も後半になって、とうとう彼は陽光を絵にすることをあきらめ、鉛筆での素描に切り替える。こちらも遅々としたスピードで、いったいこのひとは最後まで描ききるつもりはないのだろうか、と思ってしまう。
しかし、どうやら、それが正解だった。この画家にとっては作品を完成させることよりも、対象に延々と向き合うことの方が、結果よりもそのプロセスの方が、なによりも重要なのだった。
ガウディじゃないが、しかしこれもいかにもスペイン人、なのかもしれない。なるほど、このやりかたじゃ町並みを描くにも何十年と費やすわけだ。下世話な話だが、これで毎日食べていけるのが不思議でもある。ふたりの娘(?)もお金に困っている風には感じられなかったし。


とにかく映画の中の時間がひたすらゆるやかに流れるので、家でビデオで観ていたら途中で寝てしまうかもしれないな、とも思った。映画館という箱のなかでこそ観るべき映画とはいえるかもしれない(絵描きを主題にした映画では他に『美しき諍い女』も観たことがあるけれど、そういえばあれもやたら長い映画だった)。対象にじっくり向き合う画家の制作スタイルを、観客であるこちらも追体験できるような、そういう意図をもってつくられた映画なのだろう。どこまでがドキュメンタリーで、どこから演出が施されているのか判然としないけれども、少なくとも結末は撮影中の監督にもわからなかったに違いない。
 
 12月、マルメロの葉や実はもう落ちはじめていく。画家はここで全ての制作を止める。テントを片付け、糸を切り、杭をはずし、イーゼルをたたむ。あとに残されたマルメロの木はこんなだったっけ、とおもうほど小さくなっており、成熟した実が腐り落ちる前に娘たちが収穫する。その隙に工事業者が実をひとつもぎとり、皮につけられた絵の具の印を丁寧に洗い落とし、ナイフで削いで食べてみる。「味のない梨のようだ」「なんだかパサパサしてるな」「そのまま食べるような果物ではないな」
ある夜、画家は立派なスーツを着てベッドによこたわる。妻(もまた画家である)の絵のモデルだ。ずいぶん前から中断されていた絵の続きらしく、「最初からやり直した方がいいと思うけど」「そうかもしれない…けど今は私のやりたいようにやらせて」「もちろんだとも…なあ、この水晶はきれいだな…年末にどこか旅行に行こう…」などと言ってるうちに眠り込んでしまう。手に水晶の玉をもったポーズが解け、床に玉が落ちたところで妻は制作をやめ、部屋の灯りを消してそっと立ち去る。死んだように眠る彼の横顔に、彼の彫刻作品(デスマスクのような、リアルな肖像作品)がオーバーラップする。ひょっとしたら本当にこのまま死んでしまったのではないか、というところで場面はいきなり春になる。庭のマルメロの木の下には、昨冬落ちた実がすっかり腐りきっているけれども、木の方には新芽が、そうしてごく小さいながらも幼い実がなりはじめ、新しい一年が、新しい生命が始まることを予感させて映画は終わる。


とかく結果ばかり求められる日常を送っている身には、「結果よりもプロセスだよ」ということを淡々と見せていく映画はそれだけでファンタジーでもある(改装工事の方は年内に終わっていたので、「仕事をきちんと終える」ことと「仕事を終えない」ことの対比は作品中でもなされている)。観終わった直後はなんだかよくわからない映画だったなあ、と思ったが、一晩たって内容を思い返していると、あれはあれでとても貴重な映画だったように思えてきた。ビデオソフトは中古のバカ高いものしかなさそうだし、仮に持っていても家で観ることはほとんどなさそうだけど、しかし、もういちど最初から見直したい映画でもあったし、展覧会の方ももういちど観たい。またどこかでやらないかな。