米朝一門会

久しぶりに落語を聞きに行った(24日、宇治市市民文化センター)。
こういうのはメモしておかないとすぐに忘れるので、とりあえず演目を記録しおく。

『狸の賽』 團治郎
『大安売り』 米紫
『七段目』 米團治
『火焔太鼓』 南光
    〈中入〉
『厄払い』 米二
『藪入り』 ざこば
米團治さんのブログ(http://www.yonedanji.jp/yd/?p=9964)より引用

一門会はずっと以前にも聞いてるはずだけど、まったく思い出せない。その時も南光、ざこばのご両人は出ていたかと思うんだけど、もはや記憶に自信がない。なので、まあ<はじめて聴いた>としていいんじゃないかと思う。
いや、面白かった。わたし、落語を聞きに行くのはほんと10年に一度か二度、というくらいなので都んぼさんが米紫さんになっていたのはもちろん、小米朝さんが米團治さんになっていたことすら知らなかった。落語も落語界のことにもはなはだ疎い。上の演目の中で知っている噺といえばせいぜい『火焔太鼓』くらいだ。
子供のころは派手でにぎやかな噺が好きだったが、さすがに年老いてくるとしっとりとした噺にも面白みを感じるようになる。今回聞いた噺は、どれもどちらかというとにぎやかな系統になるんだろうけど、落ち着いた語り口の米二さん、短気でおっちょこちょいな中にも親の愛情を感じさせたざこばさんに少しうるっときた。歌舞伎は知らないからその面白さが自分にはわからないんだろうけど、それでも『七段目』はあたかも目の前に芝居が演じられているかのようだった。しぐさとかちょっとした表情とか、お父さんに似てきたなあ、と思う瞬間がいくつかあった。
それにしても会場はほとんどお年寄り。たまに小さい子供を連れた家族もいたけど。まあ自分も年寄りの一人なんだから別にいいんだけどさ。
蕎麦屋だとかで小さな落語会や勉強会とかやってて面白そうだな、とは思うものの、ああいう小さなスペースだと人数が少ないからやる方もだろうけど見てる方だってすっげえ緊張する。以前なんとかの狂言の会、てのをどこかの小さなお寺の本堂だったかに見に行ったときはぐったり疲れましたよ。わたしらなんかはこういう公民館とか市民ホールみたいなそこそこ大きい会場の方が、より気楽に見られるから良いんですね。<演者と見物人との間にどこまで緊密なコミュニケーションが必要なのか問題>は自分の中では一定の答えは出ていないけど、好みで言えば、わたしは両者があまり近しいのは苦手な方だ。というより「一対不特定大多数」の構図の方がより馴染んでいるから、そうでない場合の対応の仕方がさっぱりわからない、ということなんだろう。生の舞台であっても、どこかテレビかビデオを眺めているような感覚に陥るときがわたしには少なからずあって、それってあまり良いことではないなあとは思うものの、自分でもどうにもしがたい。舞台中継のテレビやビデオを極力観ないようにすればいいんだろうけど、そういう訳にもいかないしねえ。
むしろ、生ステージをもっと日常的に、しょっちゅう接しているべきなんだろうな。「生の現場」への場数の踏み方が、わたしの場合圧倒的に足りないんだろうな、と思う。落語に限らず、コンサート、芝居、ダンスなど、いろんな「ライブ」にもっと足繁く通わなくては…って、別に義務感しょってまで行くこたぁないんだけど。