北白川家に仏壇がないのはなぜか

…を、ここしばらくぼんやり考えていた。実はこの問題はテレビシリーズ(まーけっと、以下M)の時から気になっていた。Mではどう考えても意図的に隠していたとしか思えず、しかしその理由がよくわからなかったのだ。それが、映画(ラブストーリー、以下L)を観て、ようやく少し氷解したように思う。

なにしろそこそこ老舗の餅屋である(M第1話で「おじいちゃんのおじいちゃんが始めた」というセリフがあるから現当主で5代目ということになる)。しかも伝統の味を頑なに受け継ごうとしている店だ。居間には立派な仏壇があり、また月命日には墓参を欠かさない、そういう古風な家風であってまったくおかしくない。なのにMではそういうシーンは一切出て来なかった。せいぜいが、主人公が商店街の通りにある地蔵に手を合わせるシーンがちょっと出るだけ。



推測だけど、実はあの家にはちゃんと仏壇がある。あるのだけれども、彼女はそれを使おうとせず、毎日自分で花を買ってきて、(おそらくは母親が愛用していた)質素な鏡台に飾るという日課を繰り返していたのではないか。
何故か? それはたぶん、母親の死を彼女がまだきちんと受け止められていなかった、ということなのではないだろうか。つまりは「見たくないものは目に入らない」。彼女の目には家の仏壇が視界に入らない。仏壇を認めてしまえば、それはつまり母親がはっきりと過去の人物になってしまうから(そういえばこの家には祖父は健在だが祖母はいない。一度たりとも話題に上らないのは、きっと主人公が生まれる以前に亡くなっているからだと思われる。つまり祖母こそ<過去の人物>で、主人公にとっては母親をそういうポジションに置くことにいまだ強い抵抗があるのだろう。だからこそ、彼女はあるはずの仏壇が見えないのだ)。かわりに、彼女は自分なりの祭壇を手作りすることで、かろうじて「母親」とつながろうとしていたのではないか。高校生にしてはちょっと子供じみた振る舞いではあるけれども、実際、彼女はある面において極度に子供じみた(というか年齢に不相応な)ところがあるキャラクターとして描写されている(アホ毛たっぷりのヘアスタイルもそうだし、わかりやすいところでは、たとえばLでの銭湯のシーン。この場面では姉より妹の方が精神的に成熟している様子が、ふたりの芝居で見事に表現されている。母親は妹を出産した直後に亡くなっているから妹に母親の記憶はない。姉にとっての祖母みたいなものだから<過去の人物>として割り切ることができているのだろう)。

もちろん彼女は、母親の不在=死を、事実としては認識している。しかしその事実は、実は視聴者にも巧妙に/あるいは強制的にはぐらかされつづけていた。M第1話、母がいつも口ずさんでいたという奇妙な鼻歌のメロディーについて、鳥から「母親に訊けばいいだろう」と問われて「そうなんだけどね、でもお母さんはわたしが小学5年生の時に…」と言いかける。すると、鳥は大急ぎで彼女の口を塞ぐ。あまりに唐突で急な鳥の行動が少し不自然に感じられて、わたしはそこにずっと引っかかっていたのだが、同じ行動は最終話でもリフレインされるので、あれはかなり意図的な演出であるとみていい。つまり「その先の決定的な言葉」をどうやっても言わせないぞという、強烈な意志。


花屋で花を買い、鏡台の一輪挿しに挿す、という主人公の仕草はMのシリーズ中何度も出てくる。「母親の死」はじゅうぶん匂わせているものの、しかし劇中セリフとしてはっきりと明言することなく(「母親がいない」とは言っている)、Mは進んでいった。おかげで<実は母親は生きていて、単に家出かなにかで、最終回になってひょっこり姿を現すんじゃないか>などという全く誤った予想までしてしまっていたのだ。回が進むにつれそうではなく、あ、やっぱり亡くなってるんだよな、とは思い直したものの、Mは全体にファンタジー色が強いので、そういうトンデモどんでん返しがあっておかしくはない雰囲気でもあったのだ。
5話で「昔ちょっとおちこんだ時があって」と語らせたり、6話で人のいなくなった商店街に極度に怯える様子など、彼女の「過去のトラウマ」を断片的に見せつつ、しかしそれ以上語ることはしない。最終回になってようやく母親の葬儀のシーンがちらっと回想されるのだが、しかしそれとてもほんのごく一瞬、うっかりすると見逃しそうなくらいの短時間だった。Mでは、結局一度たりとも「母の死」それ自体はコトバとしては表現されていなかったはずだ(とうぜん死因も不明だが、プール回での回想やLで川に溺れるところからみて水難事故だったんだろうか。9話で若き頃の母親が日傘を持って現れるので、もともと身体が弱かっただろうことは記号的に示唆されているが)。

結局、Mでは「母親の不在」は描いていても「死」を真っ正面から描くことはしなかった。主人公自身の「思い出したくないトラウマだよぉ」というセリフのとおり、その話題は演出上徹底して避けられていたのだ。表面的なストーリーの背後に埋め込まれた「隠し設定」みたいな扱い方ですらあったと思う。結果として、Mはやや「わかりにくい」作品となった。大事なことを直接描かずにほのめかす手法は、なるほど上品ではあるものの、だからといって説明が足りないのは視聴者を無駄に突き放すだけだろう。Mの放映開始前後の雑誌インタビューなどで、監督は「多幸感」を表現したい、という意味のことを語っていたと記憶しているが、だとすれば「母親の死」をことさらに避けていたのは、実は主人公ではなく監督自身だったのかもしれない。


幸いにも、Lではそのあたりのことをもうすこし深く踏み込んで描写している。葬儀シーンの回想もMとは違ってかなりはっきり語られる。主人公の回想は誤解まじりのあやふやな記憶から、やがてはっきりとした真実に気付くことになり、クライマックスで彼女が取る行動を後押しする決定的な要因となった。母親の死とそれにまつわるエピソードにしっかり向き合うことで、現在の自分自身に直面した切実な問題を乗り越えることができたのだ。つまり、Lは、恋愛映画でありつつ主人公や友人たちそれぞれの成長の物語でもあるのだけれど、こと主人公に関していえば、それは「母親の生と死を克服する」ことで可能になった、そんな物語でもあったのだ。


河原のシーンで「うちのお餅(=主人公がずっと理想とし、生きる基準にしていた母親の象徴)」に似た小石を思わず落としてしまい、そのあと自分も落ちてしまう。ずぶ濡れになって起き上がってからの彼女は挙動がことごとくおかしくなってしまうのだが、それは「擬似的な死とそこからの再生」の、とてもわかりやすい表現だ(そういう意味では、Lのティザー広告が登場人物たちのおそらくはヌードを想像させる、少々刺激的な表現だったのも納得がいく。あれはあらたに生まれ直す、という意味での「裸」なのだろう)。

母親の死という「過去のトラウマ」に囚われたままだったこれまでの彼女は、店の手伝いこそしっかりこなせるものの、学校の部活動はいつまでたっても上手くならないし(加えてMのノベライズ版では成績も悪いと記述されている)、年頃の女の子にしてはどうかというくらい恋愛感情にも鈍いしで、あきらかに人間的ななにかが「欠如」していた。Lは、そういう彼女のひとりの女性としての回復の物語、ひとなみの人間性を取り戻すことができた経緯を丁寧に描いた作品として観ることができるし、だからこそ単に<主人公カップルの恋愛が成就してよかったね>以上の、もっと深い感動をそこから感じることができるのだろうと思う。