ノアと家族の物語

●ノア 約束の舟 ダーレン・アロノフスキー監督作品/2014年/アメリカ映画

以下、とっちらかって文章としては結構がついてないけど、とりあえず思いつくままに。

ご存じ旧約聖書に描かれたノアの箱舟の映画化。ノアはある夜、神のお告げを聞く。<大洪水が起こり、人類は滅亡する>。彼は大きな箱船をつくり、動物たちをひとつがいずつ載せ、来たるべき大厄災を乗り切るのだ。
創世記を読んだことがなくても、物語の骨格は誰でも知っているだろう。こんな壮大な叙事詩が今までまともに映画にならなかったのが不思議なほどだ(アニメーションやパロディとしてならたくさん作られてきたが)。映画を見終わって、なるほど、この物語を映画にするのはたいへん困難なことだとつくづく感じた。
箱舟、多くの動物たち、そして大洪水など、映像化が難しい要素は満載だが、CGなど特殊撮影技術の発達した現在ではまあ不可能なことではないだろう。実際、この映画もCGたっぷりで、驚くほどナチュラルに作られているとは言え、CG臭さは若干気にもなった。しかしこの作品の場合、それはそんなに重要な問題ではない。今どきこの手の映画がCGありきで制作されていることくらい、当たり前だしね。
この映画の複雑さを生みだしているのは、まぎれもなくノアその人の人物像で、つまり彼は動物たちと自分の家族のみを舟に乗せて、厄災を生き延びるのだけど、それはすなわち「自分とその家族」以外のすべての人類を見殺しにしてしまう、ということでもある。いくら神のお告げを聞いたからとはいえ、要するにノアは、その他おおぜいの人類にとってみれば、憎むべき大殺戮者そのものなのである。
映画の主人公はノアで、だからいわゆる「正義のヒーロー」みたいなつもりで映画を観ていくと、いつのまにか彼がとんでもない悪役になってしまっていく、そのプロセスが非常に興味深かった。彼と敵対するトバルという男は<最初の殺人者>カインの末裔という設定で、神の言葉が聞こえないために彼は神を信じない。そのかわり、人間こそがこの地球上の頂点にたつべき存在だと高らかに叫ぶ。誰かを傷つけたり殺したりするのも人間だからこそ、という哲学を持っているのだ。
<神は死んだ>と言われて久しいが、現代人にとってはトバルにこそたっぷり感情移入できるんじゃなかろうか。ノアがどんどん非情になってゆくのと好対照で、この対比はとてもわかりやすく面白い。
楽園を追放されたアダムとイブの子孫である人間は、神の意志に反したが故に生まれながらに罪人であり、新しい世界に生き延びることが許されない―そう言われてしまったら、人間にとってそれは絶望でしかない。自分の手で箱舟の扉を閉じ、なんとか助かろうとにじりよってくる人間たち全てを振り落としてしまったノアの心境には、共感も同情も難しいだろう。脚本・演出はもとより、なにより演じる役者にとってもたいへん困難な課題だったはずだ。


映画は、そのあたりのたいへんデリケートな内容を、ヘンにごまかすことなく正面から捉えていたのが良かった。ノアのとった行動にはまったく共感できないけれども、大厄災で人類が滅びるという運命に誰ひとり逆らえない以上は、ノアに付き従うことしかできない。その途方もない絶望感。
ノアは自分たちを含めた人間という種が絶滅することに疑いをもたない。なので洪水が終わったあと、やがて自分たちもそのまま死んでゆくだろう。ノアひとりだけならまあそれでもいいのかも知れないが、彼には妻と三人の息子、それに旅の途中で助けたイラという少女がいる。怪我のため子供を産めない身体になっていたイラは、大厄災の直前に祝福を受け、やがて身ごもる。自分たちの代で滅びてしまうこととばかり思っていたノアは、新しい命が誕生することに困惑し、怒り、生まれた子が女なら即座に殺してしまうと断言する。果たせるかな、生まれてきたのは双子の女の子だった。さあどうするノア。
 


神はお告げはするけれども悩める人間に手を差し伸べることもなければ、逆に自らの意志でその滅亡に手を下すこともしない(大洪水は神の意志である、とノアは信じているが)。だからこそ、生きるも死ぬも、結局は人間自らがその運命を選び取っていかなければならない。この映画の結論はそういうメッセージを発していると感じた。

CGへの違和感ともうひとつ、気になったのは衣装やヘアメイク。なにしろ手足のツメは綺麗に切りそろえられているし、中盤のノアの頭髪はバリカンできれいさっぱり整えられているし、いかにも機械で編まれた布地を使ってきちんと縫製された服を着ているし、さらには立派な靴まで履いている。おいおい、ノアの時代ってどんな高度な古代文明やねん。
このへんはアレだ、以前お台場でみたグレゴリー・コルベールの『ashes and snow』のつくる世界観と共通するモノがありますな。いかにも現代西洋人らしい世界観とでもいうか、嘘でもいいから「文明の痕跡」をそこに混ぜておかなければ気が済まない性分というか。まあ、それを言うなら、たかだか箱舟ひとつで動物たちを救った気になってるノア(とその物語を愛してきた人々)こそ西洋的思考のかたまりではあるんだろう。現存する全てがいったん滅びても、やがてまた海中から新しい生物が生まれ、ふたたび歴史を作りだすのであるなら、ノア自身も箱舟に乗らず皆とともに死んでいった方が「正しい」気もする。つーかわたしならたぶんそうする。それは進化論とかそういうのじゃなしに、<神はあらゆるところに宿る>という考え方の方がわたしにはしっくりくるし、ならば「わたしがここで死んでもまた別の神が別の世界で新しい歴史をつくるだろう」と思うからだ。ノアは一神教のひとなので、だからこそ自分の非情なまでの信念をここでつらぬけたのだけど、彼の家族たちはもちろんノアそのひとではない。それぞれに意志をもった、ひとりの人間だ。
トバルとの戦い、そして家族たちとの軋轢を経て、ノアは最後の最後に「人間」らしくなる。「人間」がつくり、「人間」が鑑賞する映画作品だからこその、これは救済でもあるのだろう。

一神教のひとって、なんというか、いろいろ面倒だな。…映画を観終わって、直後にアタマに浮かんだのがこのひとことだった。