生きること死ぬこと

 
自分のことは自分でしなさい…などと躾けられるのは幼児の頃の話。大人として、社会人として生きるということは、誰かの後始末をし誰かに後始末をされるという相互依存の環の中に入るということであり、規模の大小、程度の差こそあれ、誰もが誰かに世話になり誰かの世話をしつつ社会生活を営んでいる。
 
下で触れた一昨日の事件、〈財産の処分など全ての後始末をした上で、自らを焼却炉で焼いたご老人〉のことを考えるにつけ、自分の人生を自分で始末するのはほとんど超人的な所業なんではないかと改めて思った。こんなこと、並みの人間にできることではない。自分の一生の幕引きを、自分の思う通りにデザインできたというその一点で、まず普通ではない。まさしく「自分のことは自分で」やり遂げたワケだが、その「自己完結性」に反発を覚える人は多いかも知れない。実際、下にもリンクした2chのスレッド(現在2スレ目)でも、そういう意見が少なからず見られる。確かに、美学としては「自己完結」は見事な美だが、独善的で社会性に欠けると見られることはあるかもしれない。今回の件が、単なる身勝手な行為だとは私には思えないのだが(なにしろ1年前から準備していたということだし)、社会的か反社会的かと言われれば、その特異性からみても答えは明らかだろう。
 
安楽死尊厳死も含め、現代の常識では「自ら死を選ぶ」のは、まだまだ悪だとされている。当たり前だが、そもそも自分の誕生の瞬間でさえ、自分の意志では決められないのだ。だから、その「死」を自分でコントロールすることがタブーとされているのは、なおのこと当然なのかもしれない。残念なことに、この生と死のコントロール・パネルには、生きている間に創り上げられた「自分という概念」が割り込む余地はないのだ。そして、近現代人の持つ「自我」ってヤツほど、やっかいで手に余るモノもないのである。
 
もしも、
自らの生は不可能としても、自らの死を自由に制御できるようになったら、人生はどう変わっていくんだろう。今よりも、自殺する人間は減るような気もするんだけど、どうだろう。少なくとも、肩に担いでいた重荷が少しは軽くなったように感じる人は、今よりも増えるように思うんだけど。
 
  
生きることも、死ぬことも、どちらも残酷だね、と言われると、そうだね、残酷ですね、と私は答える。
生きることも、死ぬことも、どちらも面白いね、と言われたら、そうだね、面白いよね、と答えるだろう。
どちらも本心だし、別に二枚舌を使っているつもりはない。
 
病を得て、苦しんでいる友人がいる。その人はいま、死ぬことを考えている。
私には、その病が快復しますようにと祈ることはできても、
友人の心の中にそれ以上踏み込むことはできない。また、その必要もないのだろう。
ならば、その人の判断を最大限に尊重することこそが、その人の人生の意義を認めるということじゃないかと思う。
生きるも死ぬも、本人が決めるべきことであり、たぶん周りが云々すべき問題ではないのだろう。
…と、こう書くと、「自殺する」という人を止めないなんてと、「反社会的」だと言わるんだろうな、きっと。
 
けれど、私もまた、それがたとえ「反社会的」と言われようとも、自己の死を自分の意志で決定させたいと強く願っている人間のひとりなんだろうなと思う。もっとも、同時に、自分自身では実際に「反社会的行為」が完遂できるほどの意志の強さなど、まったく持ち合わせていないことも、重々承知しているんだけれどもさ。