芸能とスポーツ

スポーツ新聞がスポーツニュースだけでなく芸能人のスキャンダルも扱うことが、以前から不思議でならなかった。スポーツ紙はスポーツ情報だけ載っけてればいいじゃん。なんで誰それが結婚したとか不倫したとかいう記事を、嬉しそうに掲載するんだろう。
さすがに一般紙ではそういうことはしない。もともと芸能情報はそれほど大きく扱われないし、扱ったとしても社会面だ。間違ってもスポーツ面ではない。
芸能ニュースとスポーツニュースが一緒くたになっている日本の「スポーツ新聞」というメディアは、実はかなり特殊なものなんじゃないか。とはいえわたしは海外メディアの事情をまるで知らないので、これが日本独特のものなのか普遍性のあるものなのかはまったくわからないのだが。
そういえば、2ちゃんねるでも「芸スポ速報+板」だな。まああれは単にスポーツ新聞のフォーマットを踏襲しているだけだが(とはいえ、あれほど「マスゴミ」を嫌っている2ちゃんねらーが「マスゴミ」の枠組みをそのまま引用しているのは面白い。つか、あそこは「マスゴミ」の発信する記事を肴に言いたいことを言ってる場なので、どうしたってその枠組みに乗っかるというか依存しなきゃなんない仕組みになってるんだろうけど)。

話が逸れた。芸能記事とスポーツ記事、普通に考えればこれは全く別ジャンルだ。しかし、そこを敢えて同一ジャンルにしたがっている心理が、抜きがたく存在しているんだろう、我々の心の中に。


と考えて、思い当たった。そうか、ひょっとして、大相撲がそれかもしんない。


神事(=芸能)という側面と、勝敗を決めるスポーツとしての側面。その両方がなければ「大相撲」とはならない。少なくとも、彼らが自称する「国技」にはならない。のだろう。よくわからんが。純粋にスポーツとしての相撲ならば学生相撲をはじめとするアマ相撲大会があるだろうし、純粋な神事なら神社の境内で奉納相撲だけやっておればいい。日本相撲協会の主催する「大相撲」は、その両方を兼ね備えていることこそに存在意義があるのだろう。そうして、その両方を兼ねられるのは「大相撲」を措いて他にない、そういう自負が彼らにはあるのだろう。

もちろんプロスポーツはぜんぶ興行、すなわち客商売なので、おなじ人気商売の芸能界と共通する部分は多い。スポーツ紙が芸能記事を扱って違和感がないのはどちらも「興行」であるからだ、とは言えると思う。
プライベートを取り沙汰されることの多いプロ野球なんてのもすでになかば芸能化しているし、ショーとしてのスポーツならプロレスなんかはもっとはっきりしているだろう。しかしながら、そういう他の人気興行と大相撲を分けているポイントは、自分たちは「神事」を担っているという主張があり、周りもそれを認めているからではあるだろう。他のスポーツがみな世界大会も開催できる近代スポーツなのにくらべ、大相撲がかたくなに前近代なのも、その神性が故に、なのだろう(だから外国人力士はそもそも導入すべきではなかったのだ。まあ、高見山も曙も武蔵丸もいない大相撲てのも寂しい話だが。しかし前近代なら前近代らしく、とことん鎖国しておればよかったのだ。21世紀になって10年以上、平成になって20年以上過ぎてもなお、それを貫くことができていたなら、どんな「大相撲」になっていたか、もう想像もつかないが)。


仮にこの先「スポーツ新聞に芸能情報なんておかしい、不要だ」という声が多くなり、大多数を占めるような時代が来たとしたら、その時こそが本当に「大相撲の消え去る日」なのかもしれない。逆に言えば、そんな時代が来るまでは「大相撲」あるいは「大相撲的なもの」は日本からなくなることはないだろう。しかし、もしスポーツ新聞が芸能人の醜聞を追っかけない時代になったら、それはそれでなんとも窮屈な世の中であるような気もするけれど。


八百長も芸のうち。今回観客を上手に騙し通せなかったのは役者が下手だから。携帯メールなんて馬鹿な道具(それこそ「近代性」の象徴であり、「大相撲」の世界観とは正反対だ)など使わずに、もっとうまくやれ。精進しろ。――スポーツ紙に社説欄はないが、もしあるのなら、ぜひともこう語っていただきたい。それでこそ「日本のスポーツ新聞」であると思う。ポイントは、八百長をするなでも八百長は当たり前でもない。どうせやるなら上手に騙せ、である。大相撲が芸能的スポーツであるなら、一番守ってないといけないところは、この一点に尽きるのではないか。