買い物がますます下手に

とあるボカロPのCDが出てるってのを知って、昼休みにとらのあなに立ち寄った。事前にCDジャケ絵はネットで見て予習していた筈だったのだが、いざ店頭で探そうとするとどれも同じジャケ絵に見えてくらくらしてきた。以前、東方Projectの同人CDを購入したときもそうだったんだけど、そういえばあのときは絵を見ずひたすらアルバムタイトルだけで検索した(それと新着タイトルだったので比較的探しやすかったというのもあった)。
本にしろDVDにしろ、店で買うとき、わたしはあまり「タイトル」だとか「作者名」とか「版元」だとかを意識しない。意識っつうか、正確な情報をろくに把握しないまま「ま、行けばなんとかなるでしょ」で出かけるものだから、それでいつもエライ目にあう。
そうでなくとも、ボカロCDって匿名性が高めだと思うのだ。作者名はおろか下手すりゃ曲名だってあいまいにしか覚えてない。そんな人が、たとえば漠然と<ボカロのヒット曲集>が聞きたいという程度なら、そのとき店頭に置いてあるどれを手にとっても大差はなかろう。しかし今回わたしが欲しかったのは特定のPさんの単独アルバムだったけどハンドルというかペンネームというか、ごく適当につけられたと思しいその名前は「人名」と認識して記憶するにははなはだ曖昧な一般名詞でもあって、(アルバムタイトルも同じくごくありふれた名詞だった…もっとも、そちらは未発表曲のタイトルでもあって、いちおうこのアルバムの目玉作品でもあったのだけれど)似たようなイラストが並ぶ棚の前で自分が探しているモノが何だったのか、たちまちにして混乱してしまったのだ。
マンガ本や新書、あるいは雑誌でもそう。特定の「タイトル」をきちんと漏れなく買うためには、事前にちゃんとメモを取って行かなければならなくなった。これまでならメモなどなくてもなんとかなったんだけど、ここ数年はそれで失敗することが増えたのだ。そして、これはなにも趣味の分野の買い物だけではなく日常でもそうで、スーパーに行くときには必ず事前にメモを作って行くようになったし、それでも買い忘れてしまうことも一、二度あった。
まあ早い話が老化だよねということなんではあるが、モノに対する執着が少しずつ薄れてきているのではという気がしないでもない。よほど自分にとって大切な買い物ならメモとかなくても大丈夫だからだ。ということはメモもとらず店頭で混乱してしまうモノは自分にとっては所詮それだけのモノということでもあって「ま、買えなければ買えないでもいいや」と心のどこかで思っていることのあらわれだと言うこともできる。実際、買って帰っても一度ぱらっと開いてみたがそのまましまい込んでしまう本の多いこと多いこと。読みたくて買った本のはずなのになんで買ってしまうと読みたくなくなるのだろう。なので自分にとって「買わずに(気が)済んだ」というのは一種の救いでもある、のだと思う。それが楽しい人生かと言われたら首をすくめるしかないんだけれども、ま、自分のキャパのなかで読める本、見られるビデオ、聴けるCDの総量は年々少なくなっているわけで、これからは「あきらめていく」態度も重要になってくるんだろーなーと。いくつになっても好奇心旺盛で活動的で、というご老人もこの世にはたくさんいるし世間的にはそういう人が良いとされてるんだろうけど、自分には向いてないよな、と。
買い物が年々下手になっていくのは、そういう自分にとっては必然なのかもしれない。今それを買わなくていいよ、今日新刊書買うくらいなら2年前に買ったあれを先に読めよって言われているんだろうなと思う。そうでなくてもしまうとこないよとか死んだあと大変だからこれ以上荷物増やすなとか、自分のなかで無意識のうちに自制しているのかもしれない。…まあいいやもうどうでも(←って目黒孝二さんのエッセイの口癖だったかしらん、昔はピンとこなかったけど今ではとっても良く分かる気分だなあ)。