フィクション作品とその舞台

小説や映画などのフィクション作品で、現実の土地を舞台にするのと架空の地名を使うのとでは何がどう違うんだろう。最近、ちょっとそういうことが気になっている。

・実在の地名を具体的に使う場合=その物語により現実性を持たせたい
・架空地名/地名を出さない場合=その物語により虚構性を持たせたい

とりあえずはそれぞれこういう意図があると考えていいだろうか。中には具体的な地名にとどまらず、物語中の年月日の天気や風の向きまでも史実に忠実な再現を試みる作品もあるが(ドキュメンタリーにフィクションを混ぜ込む手法ということになるのかな)、大抵は実在の場所を適当につまみ借りつつ、現実的な制約(移動距離だのなんだのといった点)に関しては大胆に無視する場合が多いように思う。
マンガ・アニメ作品となると、実写作品に比べて画面上の情報量がどうしても少なくなる。なので背景に実在の場所を据えることで「作品のリアリティ」が底上げされることがあるかもしれない。ファンタジックな物語だからこそ場所の設定に具体性を持たせた方がよりドラマが際立つということもありそうだ。
一方で、現実の土地をロケしているにもかかわらず劇中ではあくまで「架空の場所」としている場合はどうだろう。実写作品だとロケ地はどうしても実在のどこかでやらざるを得ないので、場所に匿名性を持たせたいなら特有のランドマーク(山や川などの自然風景から駅や橋、特徴的な塔や神社仏閣などの人工建造物まで含む)などを極力画面に入れないようにするということぐらいしかできないだろうが、ランドマークを象徴的に画面に入れたとしても、作品中に地名は一切明示しないことだって多いかもしれない。それはもちろん最初に挙げたように、現実世界とは一線を画すことで物語の虚構性をより高めるというのが大きな目的だろう。
虚構性ということであればマンガやアニメーションは全てが絵なのでいくらでも自由に想像上の街を作って闊歩させられるはずなんだけど、わざわざ実在の場所をモデルに(作品によってはかなり緻密に再現)しているくせに、物語上ではあくまで架空の場所としていることがある。これはどう考えたらいいのだろうか。
最近わたしが観たアニメーション作品でいえば、たとえばテレビアニメシリーズ『たまこマーケット』および続編の映画『たまこラブストーリー』(共に京都アニメーション制作、山田尚子監督作品)がそうだった。主人公が暮らしている商店街や通っている学校は、ともに京都市内に特定できるモデルが存在しているにも関わらず、作品中ではあくまで「うさぎ山」という架空の地名だ。『〜ラブストーリー』のクライマックスシーンではJR京都駅が出てくるが、画面からは「京都駅」という表示だけきれいさっぱり消されている。京都タワーも映っているし誰がどうみても京都を舞台にしているとしか見えないのに、あくまでも「架空の街」で押し通していることにはやはり違和感を覚える。もっとも、こういう違和感は地元住民ならではの感覚で、自分がよく知らない土地を舞台に同じようなことをされても、おそらく全く気にならないはずではあるんだけれども。
この物語の中では商店街と学校、そして駅との距離や位置関係ははっきりと示されない。実在モデルはそれぞれかなり離れて存在しているから、そこまで現実に即してしまうと話が成立しないからだ。ただし商店街⇔学校間、学校⇔駅間の位置関係や距離感は非現実的ではあるものの、商店街内部や駅構内などの各空間内はかなり忠実に再現されている。特に商店街のもつ特有の雰囲気などは、取材の成果をかなり反映させていると推測できる。

同じ京都アニメーション制作で現在テレビシリーズ放映中の『響け!ユーフォニアム』では、一転して<京都府宇治市>という実在の地名をはっきり打ち出している。宇治市観光協会はもとより登場人物の通学手段として描かれる私鉄(京阪電車)もかなり取材に協力しているだろうことは、背景美術のディテールの細かさを観てもあきらかだ。
物語の舞台は高校の吹奏楽部というかなり普遍的なものなので、ことさら宇治にこだわる必然性はない。原作小説では関西弁だった登場人物たちの会話をアニメ版では全て標準語にしていることから考えても、たとえ実在の風景をリアルに描いていても地名自体は架空のものに設定し直したところで、それほど大きな問題は生じないはずだ。それこそ『たまこ』シリーズのように。
この物語が宇治でなければ成立し得ない理由があるとすれば、おそらく第8話をおいて他にないだろう。あの回(とくに後半の十数分)だけは、モデルとなった実在の場所の位置関係や距離感がかなりリアルに反映されており、それが筋書きのみならず各場面の緊張感や登場人物のセリフや演技といったドラマの各要素に生きていた。もちろん、実在の場所の位置関係などほとんど全ての視聴者にはあずかり知らぬことであり、舞台が全くの架空であったとしても成り立つストーリーではある。けれども物語の組み立てや演出をしていく上で、実在のモデルがあるのとないのとではやり方がまったく変わってくるだろうし、その結果生みだされる説得力もまったく違ってくるだろう。つまり、8話に関しては実在の場所があったからこそあの強度が持てたのだろうし、だからこそ架空ではなく実在の地名を舞台として設定する必要があったのだと思う。放送日が実在のお祭の前週だったということもあり、2015年の県祭当日は悪天候だったにもかかわらずそれなりの人数が現地を訪れる、いわゆる「聖地巡礼」を行ったと聞く。それもひとえに実在の場所と架空の物語がたいへんうまくマッチングしており、そのことが多くの視聴者にきちんと伝わったからこそ、だろう。




響け!ユーフォニアム』第8話(おまつりトライアングル)は登場人物たちの行動を辿り、またその演出のしかたを詳細に分析していくとたいへん面白いと思うんだけど、そこまでの分析力は自分にはない。とりあえず以下思いついたことだけをざっくり書いてみる。(地図はクリックで拡大します)




・縣神社=ふだんはひっそりとしたごく小さな神社。平等院の南西に位置する。
宇治神社=縣神社からみて宇治川をはさんで北東に位置。ふだんから観光客もそれなりに訪れる人気神社。アニメでもすでに1話と7話に登場している。
年に一度の県祭のときだけは人の流れが逆転し、縣神社周辺に集中する。相対的に宇治神社周辺は人が少なくなる(…と思う。その日に行ったことがないので実際は知らない。というか、宇治周辺って夜になればどこも閑散としているはずだ)。
宇治上神社=宇治神社のすぐ北、山の裾に位置する。世界遺産に指定される前はひっそりとした静かな神社だった。いまは平等院とセットで訪れる団体客もそれなりに多い。

さて、「お祭りに行く」約束をしたはずの久美子と麗奈は、縣神社には目もくれず宇治神社で待ち合わせをしている。しかも各々楽器を持っている。ふたりは宇治上神社の横を通り大吉山の展望台を目指す。「どっちが好き?さっきの神社とこっちの神社」という麗奈のセリフは宇治神社宇治上神社のことを指しており、麗奈は「渋くて、オトナの感じがする(誰のことを指しているのかは10話で判明する)」宇治上神社の方がいいという。ふたりはそのまま、宇治上神社の真上にある大吉山展望台に向かう。

一方、葉月と秀一はJR宇治駅で待ち合わせ。祭の当日は、屋台が多く出る宇治橋商店街がJR宇治駅から縣神社方向への歩行者一方通行になっているのでこの待ち合わせ場所はごく自然だ(葉月の自宅からの最寄り駅である黄檗駅からは京阪線とJR線のふたつの電車が出ている。普段の通学では京阪宇治線を使っている葉月が、お祭りというイベントの日だけJRを使うという特別感を演出している。コクって振られたあと、家に帰るのは普段使いの京阪線で、だから葉月はラストシーンで宇治橋を渡っている)。ふたりは宇治川の南岸、平等院裏手のベンチ(よりによって秀一と久美子がいつも使っている場所だ)に腰掛けるが、実はこのベンチは、宇治川を挟んで大吉山展望台とちょうど向かい合わせになっている。つまり久美子と秀一は、お互い知らないうちに向き合っていることになる。

麗奈と久美子が登った大吉山は普通に歩けば15〜20分程度のハイキングコース。ただし街灯もなにもないので夜中に行くところではないし、重い楽器を抱えてハイヒールで登るところでもない(もっといえば、当然ながら白いワンピースで出かけるところでもない)。この部分だけ取り出すとはなはだ無謀で危険だし非現実的もいいところなんだけど、靴擦れについての会話や血のにじんだ靴を見せることで少女たちの行為に一定のリアリティを持たせている。もとより非現実的な行動=異次元ファンタジーへの旅=をしているのだから、山を登るにつれ二人の会話の内容が次第に高揚してゆくのが実に自然に見える。日常から次第に離脱していくこのあたりの描写は、とにかくふたりの声のトーン、演技がすばらしい。

・展望台で「あれってお祭りの灯りかな」と無邪気に言う久美子に対して麗奈は「そんなに塚本(秀一)が気になる?」と問う。
・一方、川のベンチでは葉月からの性急な告白を断った秀一に対して葉月が「じゃあ、私が久美子との間をとりもつわ」と宣言。
久美子も秀一も、それに対して同じような調子で慌てて否定するのが可愛い。ふたりとも反応がそっくりなのだ。

このとき川を挟んで対面しているのは久美子と秀一だけではない。展望台で眼下に広がる夜景の灯りと、それに照らされて青白く輝く麗奈の強い表情は、ベンチで宇治川の静かなきらめきをバックに黒いシルエットだけで示される葉月のアップ(まばたきだけの演技が泣かせる)と鮮やかに対比されている。久美子と秀一とが似たもの同士であることを示すと同時に、麗奈と葉月についてはその正反対なところを見せつけるという、美しくも残酷な場面となっている。


吹奏楽部の他のメンバーおよび見回りの先生たちは屋台のあるメイン通りと縣神社境内(屋台の出る範囲内=トライアングル内)に収まっていて、ごく普通にお祭を楽しんでいることがわかる。葉月と秀一がいる場所も一応お祭り圏内だけれども、メインルートからは少し外れて宇治川岸に。このふたりはお祭りエリアに背を向けて、展望台方向を見ていることになる。そして同時間、久美子と麗奈だけがその展望台、つまり彼らとはまったく別の空間にいる。
整理すると、皆が集まっている縣神社がいちばん低い土地にあり、麗奈と久美子だけが川向こう(つまり異世界)にいる。ふたりは宇治神社宇治上神社と順をきちんと踏んで徐々に高度を上げていき、やがてさらにその上空に位置する大吉山に辿り着く。そして、まったく気づかないまま麗奈/久美子を川岸から眺めているのが秀一と葉月という構図。
この第8話がひときわドラマチックなのは実在の場所とその位置関係に忠実に人物を配しているからで、<実在の場所が物語の強度を高める>好例となっていると思う。
ふたりが展望台で演奏するメロディが下界にいる全てのひとたちにやさしく降り注ぐエンディングは屈指の名シーン。賑やかなお祭り会場のすぐそばにあるひっそりとした無人の展望台、というきわめて映画的なロケーションを最大限有効に使ってここまでの大きなドラマを組み立てた原作者およびアニメーションスタッフ、声を演じたキャストには特大のスタンディングオベーションを贈りたい。