The SECRET of KELLS

ブレンダンとケルズの秘密
トム・ムーア監督作品/2009年/フランス・ベルギー・アイルランド合作
 
関西初日、大阪・梅田で吹き替え版と字幕版を連続して観てきた。いやあ、面白かった。
アイルランドの国宝「ケルズの書」の成立にまつわる神話的エピソードをダイナミックにアニメーション映画化した本作は、昨年日本公開された『SONG of the SEA 海のうた』よりも以前に作られた、トム・ムーア監督の商業長編デビュー作…のはず。映画としての完成度はさすがに『海』の方が高いのだろうが、作品に込められた熱量はこちらの方が濃度が濃い…と感じた。
吹き替え/字幕版はどちらも長所短所があって、こればかりは「両方観てください」としか言い様がない。画面の緊張感を孕んだビジュアルをいっさい邪魔しないのはやはり吹き替え版だが、音声のセリフだけでは把握しきれない言葉の意味なんかは、言葉として字幕に表されることではじめてわかることもあるからだ。古代アイルランドの伝承や神話・伝説のあれこれなどに精通しているひとの方が少ないだろうから、まあ仕方の無いことでもあるんだけど(なので、物語をしっかり把握した後ならば、オリジナル版で鑑賞するのが一番かもしれない)。
実は、わたしは昨年『海』を観た直後に本作のDVD(英語/仏語字幕版、当然日本語などどこにも出て来ない)を購入していた。英語字幕で鑑賞していて全体のアウトラインはなんとなく把握していたつもりだったが、やはりきちんと翻訳されたものを観ると、全然わかっていなかったんだなあと思うことしきり。
 
最大のハイライトは、やはり主人公のブレンダンがただひとりクロム・クルアハと対峙するシークエンスだろうか。あのシーンは何度観ても手に汗握る、アニメーション映画史上としてもかなり上位にランクされるに違いない名場面ではないかと思う。写字師、という役職を得ている主人公少年ならばこその戦い方であり、また、ここは映像作家・アニメーション作家としての監督の思い入れもたっぷり詰まった展開のしかたであった。
そういう意味では、この映画の見どころは他にもたくさんあるし(もちろんエンディングだって息を呑むほど美しい)、いずれのシークエンスもまさに“アニメーション”でしか表現し得ないだろう説得力に満ちあふれていた。近年の、時に実写と見まごうばかりの(というか実写以上のリアルさを追い求めている)日本製アニメーション作品では決して体験することのできないセンス・オブ・ワンダーが、そこかしこに詰まっている。現在の、商業ベースの日本人アニメーション作家でこういった作風に堂々と拮抗できるのは、たぶん湯浅政明さんぐらいじゃなかろうか。映画が映画として成立する必然性、同時にそれがアニメーションでなくてはならない必然性。それらをとてつもない強度をもった説得力として提示できる映像作家。トム・ムーアというひとは、わたしにとってはアニメーション界の新しいヒーロに思えてしかたがない。この作家がこれからどのような世界観を提示してくれるのか、いち観客としてはとにかく楽しみなのであります。

有頂天家族2

ずいぶん駆け足だったなあ、というのが第一印象。2クールとまでは言わないが、せめてプラスもう1話、つまり全13話くらいにはならなかったものか。なんだかダイジェスト版を観ているようで、せっかくの原作が少々もったいない気がした。

絵はキレイだし、声優陣の演技も申し分ない。最終回のバトルシーンも凄かった。それだけに、もう少し各場面をじっくりたっぷり観てみたかった。
アニメーション版で見る限り、話の構成は第1期のじわじわと盛り上げていくスタイルが好きで、「2」の方が静と動のダイナミズムはより計算されているように思うんだけど、トータルで「いいお話しを聞いた」という満足感はやはり「1」に軍配が上がるかなあ。
ともあれ、来月発売予定のブルーレイボックス上巻と、今月末に出るサントラCDは今からすっごく楽しみ。音楽は今回もとても印象的だったし、「2」のサントラもきっとヘビロテ間違いなしだろう。そうそう、パッケージ版はまたキャスト陣のオーコメが入るんだろうか。こちらにも期待したいっす。

【追記】
そういや寿老人(李白)さいごどこ行った???
上で「駆け足」って書いたけど、最後の最後までなんか投げっぱなしでぶった切られた感が残ったなあ。ちと残念。

TAP THE LAST SHOW

2017年東映/水谷豊監督作品


“古き善き”を濃厚に感じさせつつも、現代風に仕上げられた映画だった、という第一印象。

ストーリィ自体は王道というかまあぶっちゃけベタなもので、特に出演する若きダンサーたちのそれぞれのバックグラウンドのあたり、やや取って付けた感はある(脚本というか設定として、いちばん難しい箇所でもあるんだろうが、それにしても深窓の令嬢のアレとかまるでアレだよね、とかは思ったが)。
わたしはテレビをほとんど観ないので、出演している役者さんがどれが誰だかがわかるのはほんの2、3名だけだ。その分、画面に映る人たちは「その役」というよりも「その人」そのもの、という目で見ていた。しかし、このドラマをそういう目で見られるのは、この作品の多くのシーンでリアルなドキュメンタリーを撮っているような気にさせられるから、なのかもしれない。
なにより、この映画のもっとも重要な「ダンスシーン」がマジモンなのだ。映画的にはきっとクライマックスのショウ・タイムが見せ場なのだろうけど、わたしがいちばん面白かったのはむしろ前半のオーディション〜練習シーンの、若きダンサーたちの本気の姿だったりする。そのへんに「ウソ」っぽさがほとんど感じられないからこそ、この作品は「映画」たりえているのだろう。



今年ももう半分近くになるんだけど、これまで観た中で特に「ダンス」が印象的な映画というと、湯浅政明監督『夜明け告げるルーのうた』と、今回の『TAP』のふたつだけかなあ。ひとつはそもそもストーリィのごく一部だし、さらに言えばダンスシーンはひときわアニメーション的なファンタジーあふれる演出。対するもうひとつは、まるでライブ中継みたいなリアルな実写映像。と、まるで正反対なんだけど、それぞれ「ダンス」をきちんと「ダンス」としてフィルムに定着させてやるぞという強い意志が感じられるのがたいへん心地よかった(別作品の悪口をあまり言わない方がいいとは思うけど、これらの日本映画に比べて某・米アカデミー賞受賞作品のダンスのがっかり具合ときたら、もう)。


この手の映画では主役連中よりも脇を固める登場人物の渋さに惹かれることが多い。今回もたとえば「八王子のジンジャー」と「アステア太郎」のデュエットにはニヤリとしたし(ああいう演出は往年のハリウッドミュージカル映画の十八番だよなあ)、劇場の事務員さんのことあるごとに光る演技など、心に残るシーンが多かった(メインのご老体おふたりの演技はなにしろ往年のハードボイルドすぎて。いやもちろんコレは褒め言葉ではあるんだけど)。もうひとつ、ほんの一瞬の出番だけど、ぽっちゃりダンサーさんのご亭主さんの、まあ似たもの夫婦感というかいかにもさにも笑わせてもらった(一見無駄なようで、こういう遊びがなけりゃ映画全体がどれだけ淋しいものになってしまうか)。
 
とはいえ、個人的には物語の隅々にまで共感/納得できたわけではないし、肝心のショウの音楽/編曲も個人的にはあまり好きになれない。
けれども、それでもクライマックスのダンスシーンには思わず息を呑んだし、なんなら盛大なスタンディングオベーションをしていたかもしれない(映画館に他の観客が誰もいなけりゃ、絶対大きな拍手をしていた)。
ダンスシーンのメイキングと、それからあのショウの(観客の視線などの、ダンス以外のシーンがない)アナザーバージョンが特典ディスクとして付くならば、絶対DVDでもブルーレイでも買います! まあ、いや、そういうのが無くてもたぶんディスクは買っちゃうとは思うけど。
ダンスをちゃんとダンスとして映像に残してくれた。この映画は、そんな当たり前のことをきちんとやっているから素晴らしい。正直言ってドラマ部分の方はわたしにはよくわからないけど、それはそれとして、「ダンス映画」として、実にいいものを見せていただいたことに最敬礼! なのであります。


【翌日追記】
一晩経って、ああそうだ、この映画ってもっと笑いがたくさんあった方が良かったんだ、ということに気が付いた。別にドタバタギャグをやる必要はなく、クスリとさせる感じのユーモアがもっと散りばめられていたら、話のメインである「かっこよさ」と相まってさらに素敵な映画になっていたと思う(劇場の社長とか、そういう味を出そうとしていたことは判るが)。脚本を含め全体からなんとなく感じる余裕のなさというか「いっぱいいっぱいな感じ」は、この映画が初めての監督によるものだからなのだろうか。

今日のハチミツ、あしたの私

寺地はるな著/角川春樹事務所/2017年3月初版

読後のモヤモヤがいまだに晴れない。うーん。



発売後すぐに読み始めたはいいものの、全体の1/6あたりで引っかかってしまい、しばらく放置していた。先日まとまった時間が取れたので(具体的には出張中の新幹線車中だ)残りを一気に読んだ。
冒頭で読み進めるのをやめたのは、登場人物たちの言動すべてにおいてなにひとつ共感も感情移入もできなかったからだ。安西一家はもちろんのこと、主人公である碧についても「なんだこいつ」とまず思ってしまったことが大きい。
碧の彼氏である安西はいわゆる「だめんず」として描写されていて、にもかかわらずなのかどうなのか、碧はそんな安西を見放すことができない。彼が実家に戻るというタイミングで結婚を切り出され、両親に挨拶するため彼の実家に向かうのだけれども、安西の父親はそれを認めない、というか彼氏の方は父親に対して結婚相手としてまともに紹介することすらできていない。
安西父は父で、初対面の女性に対してあまりに理不尽と言うしかない条件を押しつけ…というあたりで本を投げ出したくなった。なんだ、なんなんだ。どいつもこいつもまともな人間がひとりもいやしねえ。でもって、それを唯々諾々と受けちゃう主人公もたいがいだ。
主人公も、子どものころから実の両親の愛情をほとんど受けられていなかったという過去もあり(中学生時代のいじめ問題もある)、なんだかんだで見ず知らずの(恋人とも隔離された)土地で、たったひとりで生きてゆかなくてはならなくなってしまう。いや、おまえ、なんでそこまで。

物語前半の、少々無理のあるように思える設定の数々は、全てが後半に向けてのお膳立てだったというのが読み進むにつれてわかってゆくし、後半はむしろけっこう面白かったんだけど、しかしやはり読後のモヤモヤは残る。うーん、「いいお話し」に持って行きたいが故に設定とか登場人物の性格づけとかを無理矢理持って行っていないか?これ。

著者の小説は、どの作品にも感じているのだけれども、かなり映像的だと思う。どの作品も映画にしたらキレイそうだなとか、こっちの作品は連続ドラマ向きじゃないかな、などと、いつも「映像化」されやすいなあと思って読んでいる。
今回の小説も、映画にしたらけっこう面白いような気がする。養蜂の手順なんかもスクリーンの大画面で見てみたいし。
日本映画に限らず、ヨーロッパの小品あたりでもそうなんだけど、映画だと少しばかり突飛な設定や人物描写でもなんとなく「そんなものか」と流してしまい、気が付いたらクライマックスでぼろぼろ涙を流して「いい映画だったなあ」なんて感想を持って劇場を後にする…なんてことがある。そういう意味でも、このひとの小説ってとても「映画的」であるのかもしれない。
本作の登場人物でいえばたとえば「あざみ」さん。実に存在感のある人物として描かれながら、そのバックグラウンドには全く触れない。主人公からしてこのひとの過去を詮索することは徹底して避けている。「背景がよくわかんないけどやたら光る脇役」っていう存在のしかたって、あらかじめ尺が決められた映画にはよく出てくる気がするのだ。
もちろん、物語に登場する人物について一から十までぜんぶ作品内で説明しなくてはならないなんて法はないし、警察の調書じゃないんだから全てを知る必要など最初からないんだけれども、他の登場人物の「実はこういう一面が」が街の噂話レベルでも描写されているのにくらべ、「あざみ」さんの正体の知れなさはちょっと次元が違う気がするのだ。で、そういう(情報公開の)レベルを作者がかなり意識的にコントロールしているのがよくわかるので、かえって読者としては鼻白らんでしまうというか。結論ありきで書いているんだろうなあということがある時点で伝わってしまうので、残りはなんだかありがたいお説教だけを聞かされている気分になってしまうというか。

主人公が30歳そこそこで妙に達観しているというか、なんでもそれなりに上手に対処してしまい過ぎ、というのもある。もちろん彼女には彼女なりの欠点があり、作者はそこも書いてはいるんだけれども、なにしろ小説は彼女の主観をこと細かに描いているので、そのへんは上手に隠そうとしているようにも見える。人物の出来具合は、同い年の安西に比べても格段に差があるし、安西の親族ぜんたいに比べても彼女の方がずいぶんデキる大人という印象を与えるのだ。そこまでデキた主人公なら、もっと早い時点で安西を見限っていてもおかしくない—結局、なぜ碧が安西に惹かれていたのか、最後の最後になって明かされるんだけれども—そしてそのエピソードが、物語全体にほろ苦い印象を与え「いい話だなあ」という感想をもたらすんだけれども—そんな「いい話だなあ」に収束させたいがために全てを組み立てていたというあたりが、ちょっと自分には苦手かも、と思った。

著者の小説でいうとわたしがいちばん好きなのは『ミナトホテルの裏庭には』、次点が『月のぶどう』、そしてデビュー前の『こぐまビル』。ここらへんの作品にはあからさまな作為ではない、物語のダイナミズムそのものに心地良く乗れることができたし、読後感だってたいへん良かった。デビュー作の『ビオレタ』は結局まだ読了してないので(文庫版も買ってはいるけれども読んでない)言及は避けるけど、読んでる途中で投げ出したくなる作品とそうでない作品との差っていったいどのへんにあるんだろう、というのは少しばかり気になる。



しかし、いずれにせよ、このひとの小説がどれも「映像向き」であることには疑いようのないことだとは思う。いずれ何かしら映像化されるんじゃないかという予言をここでしておきつつ、現在連載中の小説が単行本になることを今から心待ちにしております(実は第一回だけ読んだきり以降はまったく知らないので)。

夜明け告げるルーのうた

2017年/湯浅政明監督作品
事前情報をできるだけ避けて(それでも人魚の女の子が出てくるお話しだ、ということは知らされてしまったが)封切りを楽しみにしていた作品。先月の『夜は短し歩けよ乙女』もたいへん素敵だったが、こちらも実にチャーミングだった。
心を閉ざし気味な主人公カイと、天真爛漫な人魚ルー、ふたりの交流だけで話が進むファンタジーかと思ったら、途中で街の大人たちがわらわら出てきて、リアルさが顔を出す。そのふたつのバランスというかさじ加減がなかなか興味深かった。
わたしは宮崎駿監督の『ポニョ』は未見なんだけど、東日本大震災以後、津波が出てくるというので封印された、という噂を聞いたことがある(事実かどうかは知らない)。しかしこの『ルー』は、街がまるごと水没してしまうという大災害を描いている。ああ、この作品も「あの震災以後」の物語なんだと感じ入った。昨年大ヒットした『君の名は。』よりもはるかにストレートに、津波に呑み込まれる街や逃げ惑い流される人々をたっぷり描写しているのだ。そんな彼らを助けて安全な高台にまで運ぶのがルー親子をはじめとする人魚たち。古くから<人魚は人に災難をもたらす>という伝説が伝わる田舎町での、この鮮やかな大逆転こそがこの映画の最大のカタルシスなんだろうと思った。
湯浅作品ならではのポップな色彩とダイナミックに上下する構図、いきなりみんなが踊り出すシュールなおかしさなどなど、「笑いながら泣ける」映画の楽しさが充満していたと思う。うん、実にいい映画でした。

【同日追記】
そうそう、思い出した。和尚さんの造形がなんとなく樋口師匠だったことと、町民みんなのダンスシーンでひとコマだけ、のはらしんのすけっぽい男の子がいたような気がしたのがおかしかった。カイのポーズもところどころ過去の湯浅作品を思い出させるところがあって、劇場で観ている最中ずっと心がざわざわしっぱなしだった。音楽もみな素敵だったし(サントラCD出ないのかなあ…)いずれ出るだろうブルーレイディスクも今から心待ちだけど、せめてもう一回は映画館で観ておくべきなんだろうなあ。

【さらに追記】
ネタバレというか映画の核心に触れる部分のことをひとつ。上で、大洪水時に人魚たちが街の人々を救ったと書いた。
映画では人魚を明確に仇として描かれている老人がふたりいて、いずれも若い頃に大切な人を人魚に食われている(母親であったり、恋人であったり)。大洪水が発生し、あたりに人魚が飛びはね回るようになって、ふたりの老人は意を決したように海へ出る。仇を今こそ取ろう、という決意だ。
結論から言うと、ふたりの老人は“帰らぬ人”となってしまう。しかし、その過程で両者共にきちんと、長年の恨み辛みへの解決/救済が与えられていて、とても印象に残った。現世での再会は二度と叶わなくとも、常世に行ってしまえば永遠に生き続けられる。この寓話的な死生観が物語ぜんたいに深みを与えているのだと思う。

【もひとつ追記】
ブルーレイのオーディオコメンタリーで、あの印象的なダンスシーンについて、ほら例えばリバーダンスとかタップとか…と監督が語っていてびっくり。そっかぁRiverdanceかあ。(2017/10/19)

ムトゥ 踊るマハラジャ

1995年インド映画/K.S.ラヴィクマール監督作品

日本公開が1998年、ビデオソフト化がその翌年。わたしは劇場ではなくレーザーディスクで観たはず。1999年というと、えーと18年ほど前か。かつて持っていたディスクはけっこう早い時期に手放して、最近ブルーレイディスクになってると知っていそいそと購入し、すっげー久しぶりに観た。いやあ面白かった。
2時間半を超える大長編。ストーリーは映画なかほどまではけっこう覚えていたんだけど、終盤はほとんど初見に近いような感覚で、新鮮な気持ちで観た。ええっ、ムトゥの出生の秘密ってまさか…!!的な。

まあ、トンデモ・ファンタジー・ミュージカルっていう当初の印象にそれほど変わりはない。
当時としても「なんじゃこりゃあ」的な、悪く言えば「色モノ扱い」でのヒットだったと思うし、今になって見返してもやっぱり全編にわたって「ヘン」としか言いようのない独特のテイストを持った作品なんだけど、ぐいぐいと画面に引きずり込まれる引力が凄いので、まったく飽きさせない。
かつてはダンスの数々にびっくらこいた。今見てもやっぱすごい。力業の編集術もさりながら、やはり人海戦術と生身の身体でどうにかしてしまう現場力が生み出す迫力の凄みなんだろうな。スタントや特撮ももちろん多用しているとはいえ、イマドキのCG作品にはないドキュメンタリー感があって、そこがこの映画の最大の魅力なんだろう。
音楽はどのナンバーもいいなあ。そういや当時サントラCDも買っていて、そちらは今も部屋のどこかに残っているはず。明日にでも探してみようっと。

夜は短し歩けよ乙女

2017年/湯浅政明監督作品

いやあ面白かった。や、原作風に言うなら“オモチロかった”、かな。
TVアニメ『四畳半神話大系』が好きで好きで、一時はDVDを毎晩欠かさず観ていたくらいだったので、その時のスタッフ再集結というこの映画はなにを置いても観に行かねばなのだった。で、実際に観てみたら、あのときよりも数倍、いや数十倍くらいパワーアップしているのが嬉しくもあり、かつ一番の驚きでもあり。監督のやりたいことが隅々まで充満してるなー、という感じだ。
もともと原作小説からして、なんだかよくわからない魅力を湛えた世界だろう。あらすじ、登場人物、設定などなど、どれをとっても一口でまとめられないややこしい。それ故にひとたびハマってしまったら簡単には抜けられない、底なし沼のようなお話しなんだと思う。時間軸も、原作は春から冬へと四季を巡る物語だ。そんなケッタイな小説を、いったいどうやって1時間半という尺の映画に収めるんだろう…まさか最初の飲み比べだけでまとめるとか?でも登場人物にはパンツ総番長とか出てくるしなあ…などと思っていたら、さすがは上田誠さん。見事にすっきりとまとめてくれた(全ては長い一夜の出来事、というアイディアは湯浅監督の発案らしいが)。
映画冒頭こそ、ちょっとおとなしいというか人物関係が少しわかりずらいかな、と思っていたけど続く古本市の頃にはそんな危惧はどこかに吹き飛んで、一気に映画世界にのめり込む。学園祭のゲリラ演劇がミュージカル仕立て!というのにも大笑いしたが、最後の風邪お見舞い行脚に至ってはその独自の表現世界に度肝を抜かれる。クライマックスの暴力的なまでのスペクタクルは、湯浅監督も参加していた映画『クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険』のラストシーンをさらにスケールアップさせたものなのかな。激しすぎる上下降を描く動線は、ここぞとばかりに映画の魅力/アニメーションの醍醐味を見せつける、まさに湯浅ワールドと言っていいものだろう。

原作が森見小説の中でもいちばん人気とあって、もっとこじゃれた(旬のアイドルを主演に抜擢するような)恋愛モノにまとめるのかという懸念もいだいていたけれど、そんなちゃちな予測をあっさりと裏切ってくれたのはとてもとても嬉しい。アニメーションならではの、そして湯浅監督+四畳半スタッフならではの完成度の高さには恐れ入るばかりであります。入場者特典の第二弾を貰うためにも、来週もう一回行くどー!

【ちょこっと追記】
『四畳半』と『有頂天』、そして今回の『乙女』と『有頂天2』と、見た目はおよそ正反対の作風とも言える“アニメ化”が立て続けに公開されること自体、この作家の大変な才能なのだろう。どちらか一方のテイストしか受け付けない視聴者もたぶんたくさんいるだろうし。わたしは取り立ててて熱心な森見ファンというわけでもないのだけれども、ここまで振れ幅が大きく異なる“自作の映像化”を、しかし涼しい顔をして同時に受け止められる原作者の懐の深さには、やはり畏敬の念を抱かざるを得ない。

ヨーヨー・マと旅するシルクロード

原題:The Music of Strangers/2015年アメリカ映画/モーガン・ネヴィル監督作品
ワールドミュージック”という言葉自体は1960年代に造られたものだそうだが、レコード店などで頻繁に目にするようになったのは1982年にピーター・ガブリエルが<WOMAD(World of Music, Arts and Dance)>をはじめて以降のことだろう。遅くとも80年代終わりごろには、街の小さなCDショップでも棚ひとつ分くらいはこのジャンルが占めていたように記憶している。
ショップの棚は、しかし今世紀に入ると徐々に縮小されていく。それは「ワールドミュージック」が特殊ないちジャンルというよりもっと広くポピュラー音楽の中に拡散していったからでもあるかもしれない。日本でも、ケルト系はじめ様々な国・地域のルーツ音楽を演奏するミュージシャンが増え、アニメや映画の音楽からテレビ番組のBGMに至るまで、「それ風の」メロディやリズムをごく日常的に消費するようになった。

チェリストヨーヨー・マが「シルクロード・アンサンブル」というプロジェクトをはじめたのは1998年のことだという。2000年にはボストンのタングルウッド音楽祭でワークショップを開く。一度限りの試みに終わっていたかもしれないそのプロジェクトは、翌年ニューヨークを恐怖に陥れた911もあって、継続を決意した、と映画では描かれている。

95分というからそれほど長い映画ではない。しかし、その濃密さは群を抜く。特に編集が素晴らしいと感じた映画でもあった。
ヨーヨー・マをはじめとする主要メンバーに密着し、インタビューなどを交えながら映画は進むのだが、たとえば「昔レナード・バーンスタインに教わったときに…」というセリフが出ると、すぐに画面は古いバーンスタインの授業の映像に変わり、彼の言葉を映す。同じように、ダマスカス出身の音楽家やシリアから来た音楽家、あるいはスペイン・ガリシアの音楽家など、出身も経歴も実に多様なアンサンブルのメンバーについて、この映画は彼ら彼女らのアイデンティティの根っこのところを丹念に取材し、掬い取る。「旅するシルクロード」という題名にふさわしい、見事な取材であり、そうして得られた膨大なファクトを実に手短に、かつ印象的に観客に伝える、見事な編集術が施されている。



かつてわたしも熱心に聴いた「90年代ワールドミュージック」は(もちろん今でも大好きなんだが)、商業音楽の文脈に則っていたものばかりを好んで摂取していた(要するに手軽に日本盤CDが買えるようなレベル、ちょっと頑張ってもタワレコやヴァージンやWAVEあたりで店員レコメンドの輸入盤を買い漁るくらい)ということもあって、とてもポップで楽しい世界だった。世界はひとつ、WE ARE THE WORLD、地球が僕らの遊び場だ。そんな風な、ごく楽観的で平和な世界。国境を越え、人種や民族の違いを超え、音楽の力でみんながひとつになれる。そういう甘いメッセージに満ちあふれていたのだ。
潮流がはっきり変わったのは、やはり911以降ということになるだろう。そうして、21世紀がはじまってまだ20年にも満たないいま、その種の音楽は<存在するだけで>強力な政治的メッセージを発するようにまでなってしまったように思える。いつの間にか、ほとんど誰も気付かないうちに。
参加ミュージシャンの—全てではないだろうけど—何人かは母国が戦禍に巻き込まれ、大切な家族や友人を失う。またある人は革命のあと祖国は全く変わってしまった、と語る。母国で暮らすどころか、自国でのコンサートすら当局により中止させられてしまうことも。そんなミュージシャンたちは、だからこそ自分のアイデンティティである文化的伝統・音楽的ルーツをきちんと後世に残したいと願っているし、だからこそこのプロジェクトに参加しているんだ、とも語る。

プロジェクトの発足当初、批評家やマスコミからは酷評されたとヨーヨー・マは言う。各地の伝統音楽を寄せ集めたところで、しょせんは多国籍どころか無国籍のなんだかよくわからない音楽しか出来上がらないんじゃないか、そんな懸念を持たれていたというのだ。もちろん、誰か他のひとが手掛けていたらそんなお粗末な結果で終わっていた可能性だってあったはずだ。しかしこのプロジェクトの中心にはヨーヨー・マがいた。彼がいたからこそ成功し、アンサンブルが唯一無二の存在になり得た…と言っていいのかもしれない。
自国第一主義を掲げた大統領が当選したアメリカ合衆国をはじめ、世界の状況は20世紀後半よりも—この映画が制作された2015年よりもさらに—<グローバリズム>にとっては居心地が悪くなっている。中東を取り巻く戦況も終わりが見えない。そういう時代だからこそ、この映画が描き出す世界はとてもとても重要な意味を持つ。できれば何度も見返したい映画でもある。なのでDVD化を今から心待ちにしております。

【ちょこっと追記】
この映画、とても現代的で重要なテーマを追求しているのだけれど、テイスト自体はとても明るい。そしてそれもまた、ヨーヨー・マの人柄を反映しているもののように思える。映画がはじまって最初のころ、彼がある講演の開口いちばんにジョークを披露する。
<ある少年が、父親に言いました。お父さん、僕は大人になったら立派なミュージシャンになりたいんだ。すると父親は悲しそうに首を横に振ったのです。息子よ、残念ながらそのふたつはどちらかしか選べないんだ…>
そのジョークの通り、映画でのヨーヨー・マはとてもオチャメ…というかガキっちょぽい。ああ、好かれる人柄なんだなあ、というのがよく伝わってくるのだ。

明日のアー/猫の予想未来図II

京都・元立誠小学校にて観劇。

前回「ふたりのアー」に続く第二回公演の関西公演。前回よりもそれぞれの演目が長めで、その分笑いどころが少なくなったように感じた。シュールな設定や話の持って行きかたは相変わらずなんだけど、ネタがちょっと微妙なのが多かった。初回のように短めでインパクト勝負、の方が彼らには合ってるのかもしれない。よく知らんけど。
ネットワークビジネスの上の方>における栩秋太洋さんの身体の動きはさすがと言うほか無く、実に見応えがあった。それと宮部純子さんの全編通しての怪演ぶりもすごかった。このおふたりを間近で観られたのはなによりだった。
次回はまた来年の今ごろになるのかなー。チケット売るのも大変だろうけど、長く続けてもらいたいユニットではあります。

LA LA LAND

2016年米映画/デイミアン・チャゼル監督・脚本

とりあえず、長い(128分)。あと15分くらいはカットできたんじゃなかろうか。
映画館で予告編を何度か観ていたこともあり、だいたいの出来具合は予想していた。まあアカデミー賞だなんだと公開前からメディアやたら騒がしかったので、そもそもさほど期待はしていなかった(…ツイッターにはいかにも期待してるっぽいツイートを流したこともあったけど)。
ダンスシーンでカメラがやたら動くのはまったく自分好みじゃないとはいえ、まあ仕方がないだろう。それは我慢できる。しかし、肝心のダンスがどれもこれもキレがなく、一本調子なのにはほとほとマイった。パンフレットには幾人ものライターが<ダンスが上手すぎないのがいい>という旨のことを書いているが、なにをか況んや。ダンスが下手なミュージカルがイイって? ミュージカルをあまり馬鹿にするんじゃないよ。



往年のMGMミュージカル映画、それもフレッド・アステアが特に好きなもので、ついそういう目線で見てしまうのだが、なるほど、監督もそういう「古き善き黄金時代」を現代に再現したかったんだろうなというのはよくわかる。設定・ストーリーもいわゆる<バックステージもの>に収まるものだし。ミュージカルナンバーのそこかしこに、かつて観た映画を彷彿とさせる絵作りがされているのもいい—といってもわたしはアステア映画の他はジーン・ケリー主演作品をいくつかと、その他は少しくらいしか知らないのであまり大きなことは言えないけど—。
歌、たとえば主人公ふたりのデュエット《CITY OF STARS》やヒロインがオーディションで語る《THE FOOLS WHO DREAM》は素晴らしかった。代役なしで演じたというピアノ演奏シーンもけして悪くない。それだけに、ダンス・ナンバーがもうちょっとピリッとしていればなあ。

物語をほろ苦く終わらせたのもひねりがないと思った。いっそ(それこそRKO時代のアステア=ロジャース映画のように)脳天気なほどのハッピー・エンドにして、とことんファンタジーで終わらせる方が、何周か回ってかえって新鮮だったかも…などと思ったり。

映画館によって客の入りは違うんだろうけど、私が観たハコ(そのシネコンの中でたぶん一番大きなシアター)では1割から2割程度の埋まり具合。封切り最初の週末の、朝イチの回でこの程度である。ま、ロングラン上映はしなさそうかな。