エゴン・シーレ 死と乙女

2016年オーストリアルクセンブルグ映画/ディーター・ベルナー監督・脚本作品
映画館に貼ってあった一枚の予告ポスターに惹かれて観に行った。以前観た『黄金のアデーレ』みたいにひと捻りしているのかと予想していたんだけれども、まさかこんなに本格的な伝記映画だったとは。とはいえ、エゴン・シーレについては早世したエロス芸術のひと、程度の予備知識しか持ち合わせていないので(大学時代にものすごくシーレに傾倒していた先輩がきっかけでその名を知った程度)、どこまで史実でどこから脚色なのかはわからないのだけれども。
芸術家のエゴイスティックな面は、なるべく控えめに抑えられた印象を持った。主要登場人物の大半が不幸な最期を遂げるのだけれども、特に誰かを悪役に設定するのではなく、みなそれぞれに時代と運命に飲み込まれていった、という描写だったように感じた。ヨーロッパらしいソフィスティケートというのかな、もっとどぎつい演出や展開を期待する向きには若干物足りないのかもしれないが、まあこれはこれでアリなんじゃないかな。
ただ、主役のエゴン・シーレ役の人がもっと病的な身体だったらさらにイメージ通りだったかも、とは思った。かなり健康的な役者さんで、死に至る病床に伏せってからでも、なおその身体からは生気が出ているのだ(例えに出すのは申し訳ない気もするが、風貌が作家の森見登美彦さんによく似ていた)。


サブキャラ好きとしてはクリムトが出てくるシーンが印象的だった。彼の佇まいは実にイメージ通り(といっても彼の肖像すらよく知らないんだけど)。女優さんたちはどなたも見事な脱ぎっぷりで実によろしい。

画家、あるいは「絵を描くこと」を主題にした作品はやはり面白いですな。…などと胸を張って言えるほど多くの映画を観ているわけでもないのだけれども、「絵描きは何を観ているのか」という<視線の問題>に、映画作家が敏感になるのは必然でもありましょう。「画家とモデル」を主題にしたピカソのデッサンなども含めて、この手のメタ作品ってのは思いっきり自分好みなんであります。

雑記

登場人物のリアリティ、ということでふと思い出した。年明けからずっとサラ・イイネス大阪豆ゴハン』全12巻を再読していて、ああやっぱこれはこの人の最高傑作だよなあ、『誰寝』も悪くなかったけどやっぱ『豆ゴハン』だよなあ、でもこの漫画のどこがどう面白いんだろう、とずっと考えていたのだ。
ゴハンに惹かれた理由としてまず思いつくのは、登場人物の職業の描かれ方だった。ユハさんの勤務する大手ゼネコン、次女美奈子のディスプレイ業界。長男松林の芸大での学生生活。三女菜奈子のいるオートレースの世界だけは自分にもっとも縁遠いのでよくわからないけれども、いわゆる「クリエイター」の職業世界がほどよくリアルに、ほどよくファンタジックに描かれている、そう感じたのだ。
たしかに『誰寝』ではグラフィック・デザイン事務所が、『セケンノハテマデ』ではロックバンドと、続作でもそういった<現場>感はちゃんと描かれているのだけれども、『豆ゴハン』に出てくるそれは、わたしにはいっそうリアリティを持って感じられたのだ。詳しくは知らないけれどもいかにもそういう感じなんだろうな、と思わせるリアリティの生み出し方。いったいぜんたい、どんな取材をすればここまで描けるんだろう。どうイマジネーションを膨らませたらこんな人物造形ができるんだろう。はじめて読んだときも不思議だったけど、いま『豆ゴハン』を再読しても、やはり不思議だ。そしてさらに、バブル景気が終わったあたりのあの時代の雰囲気だとか、作中にも阪神淡路大震災のエピソードが出てくるけれども、そういった「あの頃」ならではの空気感というのもしっかり表出されていて、ほとんど泣きそうになる。
上の『月のぶどう』ではワイン造りの工程がこと細かに記されていて、それが物語と密接に結びついているのがいい。単なる説明にとどまらず、登場人物の性格やストーリーの流れにちゃんと組み合っている。職業ものドラマでは当然のことではあるんだろうけれども、作中で描かれる「仕事や仕草」をきちんとその人物の造形に結びつけられるというのは、実際のところけっこう難しい作業じゃないのかなと思う。



サラ・イネスの作品でもうひとつ気になるのは「作中に具体的な固有名をどこまで使うか」問題だ。というのも、このひとの漫画では<かなり具体的なイメージ>を<ものすごく遠回りな言い方>で定着させることがしばしばあって、そういう言葉の扱い方も作家性のひとつだろうなあと思っているのだけれども、このへんの研究はまたいつか。実はこのあたり「サラ・イネスにとってリアリティとは何か」を考える上でもっともキーになるところ、のはずなんだが。

月のぶどう

月のぶどう/寺地はるな著/ポプラ社/2017年

前作『ミナトホテルの裏庭には』から約一年、書き下ろし長編としては3作目にあたるはず。
大阪府下の架空のワイン醸造家を舞台にした物語で、今作も登場人物のそれぞれがそれぞれにくっきりと立っていて、面白かった。前作までと違ってふわふわと謎めいた人物が少なくなったかな、でもその分、みんな色んなものを抱えながらそれでも明日も生きていくんだ、という強い気構えが感じられる。どこかファンタジー世界の住人のように感じられたこれまでの小説から一歩踏み込んで、より現実世界へ近づいたような。
唯一、森園君が物語の半分くらいで退場したのだけが気になったけど、それ以外の登場人物にそれぞれのこれからの希望をイメージさせる終わりかたもいい。
『ミナトホテル』は2時間くらいの映画にすればいい感じ、と読んでいて思ったが、こちらはテレビドラマが似合うかも。季節の移ろいとか時間の流れにあわせて主人公たちの気持ちが変化してゆくさまがそう思わせるのだろう。いずれにせよ、この作者の書く文章はいちいち映像が鮮明に浮かび上がる。そこが魅力なんだと思う。
これまで小説をほとんど読まないで生きてきた自分としては、デビュー作(というかその前からだけど)から新刊をリアルタイムで買っているのはこの小説家が生まれて初めてとなる。いつまで続くかはわからないけれど、この先、もうしばらくは追いかけてみようと思っている。

捲土重来

この春から、森見登美彦原作のテレビアニメ『有頂天家族』の続編がはじまる。つい先日、下鴨神社にて関連イベントがあったそうだが、平日なのでわたしは当然行けてない。なんでも同作品が京都市の「京都特別親善大使」第1号に選定されたということで、そのイベントには京都市長まで出張ったというからたいそうなものだ。
イベントには参加できなかったがアニメ化を記念してクリアファイルを販売していると聞いて、さっき下鴨神社まで行ってきた。初詣にも行っているから、今年すでに2度目だ。お正月は人でいっぱいで身動きがとれなかったが、今度はのんびりと参拝できた。
お目当てのクリアファイル(500円)の他に、金閣銀閣の招き猫(3500円)も売っていたのでえーいとばかりに両方購入。気が大きくなったついでに資料館(三箇所で500円)も見て回り、さらについでだからというわけで近所の三井家別邸を見学(410円)。時折はげしく降る雪の中、お昼はアニメ1期にもちょっと出てきた枡形商店街奥のお蕎麦屋さんまで足を伸ばして胡麻だれざるそばをいただく。帰りにふたばでお餅を買って、これじゃなんだかすっかり観光客である。まあいいけど。
同じ森見原作アニメとしては、同時期に公開される予定の映画『夜は短し歩けよ乙女』(湯浅政明監督作品)も楽しみだ。湯浅監督のテレビアニメ『四畳半神話大系』も面白い作品だったので、同じスタッフが再集結するというだけでいやがおうにも期待が高まる。この勢いで他の森見作品も映像化されたらいいな。たとえば『聖なる怠け者の冒険』なども京都を縦横無尽に駆け巡る話だし、見応えがありそうだ。

さてこの招き猫、どこに飾ろうか。

Super Folk Song ピアノが愛した女。

坂西伊作監督作品/1992年/ソニー・ミュージック・エンターテインメント/日本

矢野顕子のレコーディング風景を撮ったドキュメンタリー映画。25年ぶりに『デジタル・リマスター版』と銘打っての劇場公開だ。
もっとも、わたしは25年前は映画館では観ていない。かわりにレーザーディスクを発売すぐに入手し、家で何度も繰り返し観た。今でもディスクは手元にあるものの、肝心のプレイヤーがぶっ壊れていて(電源は入るもののトレイが開かない)すでに宝の持ち腐れ状態だ。まあ、今度のも早々にブルーレイとして発売されるだろうなとは予想がつくものの、やっぱり気になったので映画館まで出かけた。限定2週間のみの上映、しかも上映館も限られている。価格も普通の映画より高く、2,300円もする。それでも劇場に足を運んだのは、ひとつにたいへん集中力を要求する映画だということと(四半世紀前はそれこそテレビの前で息をひそめて画面を見つめていたものだが、今その集中力が保てるかどうか怪しい。映画館なら否応なく画面のみに集中できる)、やはり『デジタル・リマスター版』の音がどんなものか確かめてみたかったからだ。
購入したレーザーディスクは、結局何回見返しただろう? 10回近くは観ただろうか。20年以上ぶりに観たそれは、覚えているディテールもあればすっかり忘れていたところもあって、それなりに新鮮な気持ちで対することができた。
劇場で映画を観て、いちばん驚いたのは、ノイズだった。ヒスノイズというのかホワイトノイズというのか専門用語は知らないけれども、シャーッというやや高音のノイズが、ほぼ全編にわたって響いている。映画の冒頭、撮影キャメラのノイズが録音に影響されているんじゃないかという問答があり、結局ソレは撮影機材のせいではないということになったんだけれども、それどころじゃないノイズが、演奏中ずっと鳴っている。
最初、上映機材のせいなんだろうか、この映画館特有の現象なんだろうかと思った。しかしそのノイズは、画面の切り替わりに応じて高く低く、また大きく小さくなっている。あきらかにこのノイズは、撮影された画面と同時に収録されているものにちがいない。

25年前といえばすでにコンパクト・ディスクの時代だし、録音機材も徐々にデジタル化しつつあった。しかしながら、本作のレコーディングはテープを使っていて、なかばアナログでもあった。この映画に通奏低音のようにひびくノイズは、そのせいなんだろうか? わたしにはそこまでの専門的なことはわからない。
かつてレーザーディスクを家のテレビで観ていた時には、こんなノイズなんてまったく気付かなかった。オーディオに特化した機材なんて持っていないし、そんなに大音量で聴くこともなかったから、仮に入っていたとしても聞こえていなかったのだろう。
デジタル・リマスターの作業において、このノイズを消すことは出来なかったのだろうか。技術的に可能として、けれどもここに「残って」いるのは、どういう理由なんだろう。はっきりとした意志を持ってノイズを残したとしか考えられないのだけれども、じゃあその理由は? 何度考えてもわからない。

神聖なる一族24人の娘たち

2012年/ロシア/アレクセイ・フェドルチェンコ監督作品
モスクワからおよそ640キロほど東にあるマリ・エル共和国。その独自の文化的特質をふんだんに取り入れたファンタジー…いや、ドキュメンタリー?…ではないな。「説話」とか「民話」という語の方がしっくりくるな。
映画の告知ポスターを見たのは今年の夏頃だったか、民族衣装を身に纏った女性たちのポートレート写真が並ぶお洒落なデザインに惹かれ、以来気になっていたのだ。内容とは関係なくこれは観に行かなきゃなるめえな、とすぐに思った。なにせロシア連邦内の少数民族ものなんて滅多に見る機会はないからだ。で、年末ぎりぎりになってようやく京都みなみ会館で鑑賞することができた。

邦題から、大家族のお話かと思っていたんだけど、そうではなかった。<一族>とは一家族のことではなく、マリ人というひとつの民族のことだった。帝国時代から長くロシアの支配下におかれていたが、マリ語はフィン・ウゴル系であり、宗教観や自然観なども独自のものがあるという。映画に登場する女性たちはすべて“O”からはじまる名前で統一されており、短いもので1分くらい、長いものでもせいぜい10数分くらいのさまざまなエピソードがひたすら続くという構成になっている。個々のエピソードが最終的にひとつにまとまるのかと思ってたけどそうではなく、しかしそれぞれの話の根底にはすべてマリ人たちの信仰や伝承がしっかりと根付いていて、それが映画の大きな幹となっている。
オチのついた笑えるエピソードも中にはあるが、大半は人生のほんの一瞬を切り取ったかのような詩的な映像で、中には語られるだけで劇中には登場しない女性もいる。エロティックなシーンが多めなのは「女性」を主役にしているからでもあるのだろうけれども、いくつかのエピソードで殺人/自殺あるいは死者が甦えるなど「死」が扱われていたところから、大きく「死生観」をテーマにしているがゆえなのだろう、と思った(ちなみに予告チラシやパンフレットには<ロシア版「遠野物語」や「アイヌ民話」のような>というフレーズがある)。

起承転結や勧善懲悪といったわかりやすいドラマはないが、しかしここにはもっと大きな<ひとがこの地で生きてゆくということ>という物語がある。雪深い新年から四季をめぐって次の冬まで、丹念に撮影された映像も美しい。全編を観終わってなんともいいがたい余韻が残る、いい映画だった。

【20171028.追記】
ブルーレイディスクが届いたので、およそ10ヶ月ぶりに見返した。理不尽な伝習や古い因習に囚われた人々の物語…という風に観ることもできるのだろうが、そもそも人間社会というのは別の文化圏から見ればはなはだ理不尽かつ不合理な暮らしを死守しているものだ。たとえばアメリカ合衆国が未だに銃の呪縛から逃れられないとか、あるいはわが日本でも、たとえば憲法九条を頑なに固守する層の存在を、摩訶不思議に思う人がいることだろう。外部から見ればほとんどギャグのような“神話”であっても、当事者にとってははなはだ切実な“現実”なのである…ということを、この映画は語っているのではないか。映画館ではじめて見たときには大いに笑っていたシーンの数々が、自宅のテレビで再見したときにはなんだかすごくしんみりしてしまった。昨今ダイバーシティとかなんとか言われているけれども、たとえばこの映画をどう評価するかってのは人によって大きく異なる、つまりはかなり大きな試金石になり得るのかもしれない。

この世界の片隅に

片淵須直監督作品/2016年
こうの史代原作の同題の漫画作品のアニメーション映画化として、封切り前から話題になっていた映画。公開初日の朝一番の回に出かけた。もともと上映館が少なかった(関西では梅田のシネルーブルくらいじゃなかったっけ)のだけれど、前評判の高さからか京都でも上映されたのは素直に嬉しい。イオンシネマ京都桂川の、わりと音響にこだわった部屋らしく、スクリーンもとても大きかった。幸いにしてど真ん中のかなりいい席が取れて、視聴環境としてはこの上ない。


後半、悲劇が起こる直前当たりからの<世界が変わってしまう>十数分間は、特に際立っていた。あの場面はおそらく映画史上に残るだろう、とまで思った。アニメーションならではの技法でもあるが、アニメだ実写だ特撮だという細かいジャンル分けはヌキにして、「映像表現」としてただひたすら残酷なまでに美しい。このパートを観られただけでも早朝から足を運んだ甲斐があったと感じた。

この映画は「説明」をほとんどしない。テロップとしては○年○月、という日付が入るのみ。ということもあって、登場人物の人間関係が少々わかりずらい。特に映画序盤は、小さなエピソードが次々に起きるので、なんだかよくわからいままだった。原作漫画ならいったん立ち止まってもういちど前のページを読み直したりできるんだけど、映画だとそれができないので、ちょっと置いてきぼり感があった。テンポがよい、といえばその通りなんだけど、序盤はもうすこしゆっくりとした描写でもよかったのではなかろうか。どんな映画/ドラマでもそうなんだろうけれども、冒頭からいきなり物語世界の中に没入させるためには相当な工夫が必要なんだと思う。じゃあこの映画の場合どうすれば良かったのかと問われると、途端に口ごもってしまうのではあるけれども。




 
(後刻追記)
あの戦争の時代を実際に生きていたわたしの老いた両親に自信を持って薦められるかどうか、と映画を観ながらずっと考えていた。残念ながら序盤のテンポの早さ/場面切替の多さには、たぶんうちの親はついていけそうにないな、と思った。なので、上では<少々わかりずらい>と評した次第。若い観客にはたぶんこのくらいのテンポでないと「間延びする」と思われるのだろうな、とも思うが。
実は監督はテレビシリーズ向きだと言っているそうで、それにはわたしも全く同感。この作品は2時間という短い枠ではなく、半年なり一年なり、それなりのゆったりとしたスパンで登場人物をじっくり描写するのが向いているのではなかろうか(原作漫画の連載がまさにそうだった)。ドラマが後半に向けてどんどんテンポアップするためにも、物語のはじめはともすれば退屈と感じられるほどのたっぷりとした「時間」が必要なのだと思う。

映画ができるまでの数々の困難、クラウドファンディングを利用してようやく制作に向けて動き出すことができた事実などは、公開前にたくさん出たパブリシティや(通常なら公開後に出版されるはずの)公式ガイドブックや絵コンテ本といったたくさんの関連商品を読んでいたのでもちろん知っている。なのでここでわたしが言っていることは、現実を無視したただの理想論ではある。
だが、空想ついでに言うけれど、今のテレビ界隈で半年かけて登場人物の成長物語に熱心に寄り添ってくれそうなのといえば、NHKの朝ドラくらいしかないだろう。主演女優つながりではないが、朝ドラ初の試みとしてアニメ「この世界の片隅に」を放送する、ってのはかなり面白い試みじゃないかと思うんだけど、どうだろう。

ラサへの歩き方

2015年中国映画/チャン・ヤン監督作品

いちど映画館に足を運ぶと近日公開のチラシや予告編なんかで新しい作品を知り、それを観に行くとまた新しい映画が…ということで、ここんとこほとんど毎週のようにどこかしらの映画館に出向いている。この作品のチラシを手にしたのは『Song of the SEA』の時だったか『パコ・デ・ルシア』の時だったか。単館系の映画は期間も短いしほとんどが一日一回限りの上映なので、見逃してしまうことも多いのだが、これだけはどうしても観ておきたかった。京都での上映はみなみ会館で、本日封切りだからだろうか、150席ほどのハコにだいたい三分の一くらいは埋まっていたように思う。

(主にアニメなどの)フィクション作品の舞台となった場所を巡ることを指して「聖地巡礼」などというのは、今では一般新聞なんかも使っているけれども、そもそもは宗教用語であるはず(なので「舞台探訪」という言葉を使う人も多いし、わたしもその方が正解だと思う)。本作は、チベット仏教の聖地ラサ、そしてその先に聳える聖山カイラス山への2400キロにも及ぶ巡礼の旅を、ほとんどドキュメンタリーのように描いている。
ドキュメンタリーではないことは、たとえば時に壮大に、時にドラマティックにと自在に変わるカメラアングルからもわかるし、巡礼者のひとりが妊婦で(!)途中で出産したり、もうすぐ最終の地に到着というところで最長老が亡くなったりするという風な「できすぎた」ストーリィからでも察せられるだろう。しかし、この映画は過剰な演出(たとえばBGMを流したりという風な)は一切排除し、巡礼者個々人の内面にも過剰に寄り添うことをせず、ただひたすら五体投地をしながら進むという行為を延々と捉え続ける。そして、ただそれだけで、ひときわ壮大な—生きるとはどういうことか、とか、人生の意味とは、のいうようなものまで—メッセージを投げているのだ。
凄い映画だなあ…と、エンドロールが流れている間、ずっと感慨にふけっていた。

ドキュメンタリーではないと書いたが、しかし、この映画はかぎりなくドキュメンタリーに近いスタンスで制作されたものだろう。あらすじこそ実にシンプルなもの(聖地巡礼の旅)だけど、ディティールは実に複雑かつ豊潤であり、とてもじゃないがひとことでは言い表せない。写し出される風景はものすごく美しく、同時にものすごく過酷であり、登場人物たちの表情や動きはたまらなくエレガントだ。登場人物はみな職業的俳優ではないそうだが、凡百の演技者では出せそうもない日常生活のリアリティや信心の奥深さをうまく引き出し画面に定着させた監督の手腕はすばらしいし、実際にカメラを回すまでに彼らと深くコミュニケーションをとり信頼関係をしっかり築き上げていただろうことも容易に想像できる。


しみじみと、いいものを見せていただいた。感謝。


【2017年4月30日追記】
祝・日本盤DVD発売!ということで、早速手に入れて視聴。正直なところ、京都みなみ会館のスクリーン&音響は今どきのレベルでの高精度を誇るというものではなく、劇場で観ているあいだ解像度の粗さあたりはちょっと気になっていた。DVDを家庭用テレビで再生したところ、少なくとも画面はくっきりと鮮やかで、映画館よりもかなり繊細な印象を受けた。まあ、とはいえ、やはり映画は映画館で観るものである、という考えに変わりはないのだけれども。それに、ひたすら目の前の画面に集中するしかない環境という点で、やはり映画館という専門のスペースは重要だろう(自宅に専用のホームシアターを構築するようなマニアならまた別かもしれないが)。
この映画のような、フィクションでありながらドキュメンタリーでもあるという独特な作品は、こちらもひたすら集中して鑑賞するのがなによりふさわしいし、それなりに「態度」が求められる密度がある。
とはいえ、一種の環境ビデオとして、ずっと流しっぱなしにしていてもいい映画かもしれないとも思う。やたら扇情的に盛り上げるBGMのたぐいが一切ないところなんかもその理由のひとつとして挙げられよう(それでいて物語の展開はけっこうドラマティックなんだけど)。

とまれ、<いいものを見せていただいた>という初見時の感想になんら変わりは無い。改めて、感謝。

SULLY

2016年アメリカ映画/クリント・イーストウッド監督作品

外国映画の邦題にセンスがないとかなんとか、定期的にネットでも話題に上ることがあるけれど、この映画の場合は『ハドソン川の奇跡』という邦題以外にいいタイトルは思いつかない。つーか、この原題で観に行こうと思えるのは事故のことをよく知っていた人くらいじゃないのか。

2009年1月、ニューヨークで起こった実際の飛行機事故を題材にした映画。バード・ストライクによる両翼エンジンの停止、近くの空港に戻ることもできずに飛行機はハドソン川に緊急着水。1月の厳寒下、乗客乗員あわせて155名はひとりの死者を出すことなく全員無事救助された。当時の関係者はみな今も生きているし、当時副機長だった人などいまだ現役のパイロットだ(エンドロールによれば着水後の救助隊員などで“本人役”で出演している人も多い)。パンフレットのスタッフ/キャストインタビューなどを読む限り、この映画は実際に起きた出来事を可能な限り忠実に再現していて、メロドラマ的な脚色は一切行っていないという。
だから飛行機事故シミュレーションとしてとてもよく出来ていると感じたし、あの事故をここまで再現できる映画表現ってすごいなあとも思った。
最後まで沈着冷静な態度をとり続けた機長もすごいが、物語の上で敵役となる調査委員会の面々など、主要登場人物のほとんど全員が「その道のプロ」である。敵役とはいえ理不尽で意味不明な存在などではけしてなく、事故の真相を究明する上で絶対に必要なプロセスに過ぎないのだけれども、40年以上にわたるパイロットの「一瞬の判断」をそれこそ重箱の隅をつつくように執拗に追求しつづけるのは、いち観客が観ていても精神的にかなりキツイ。わたしなんぞには到底つとまらない職業なんだなあと思った。

やたら泣き叫んだりやたらBGMが盛り上がったりするような、過度な演出は一切ない。淡々と、それでいて緊迫感が途切れることなく、約1時間半というコンパクトな尺で収めた作り方もまた、登場人物たちと同じように「その道のプロ」の仕事だろう。どんぴしゃで自分好みのドキュメンタリータッチで、いい作品を観たという満足感に浸れる映画だった。

パコ・デ・ルシア 灼熱のギタリスト

2014年/スペイン映画/クーロ・サンチェス監督作品

パコ・デ・ルシアの名前をはじめて聞いたのは—おそらく多くの日本人がそうであるように—アル・ディ・メオラジョン・マクラフリン、そしてパコとのユニット<スーパー・ギター・トリオ>だった。地方都市のギター好き高校生の間でさえライブ盤LPレコードの評判はよく知られていて、なにせそんじょそこらのロックギタリスト以上の熱気と超絶技巧の早弾きがレコードのそこかしこに充満していたのだから、誰もが夢中になるのは当然だった。アル・ディ・メオラパコ・デ・ルシアのどっちが凄いか、などと目を輝かせながら語り合っていた記憶がある(当時のアルは、チック・コリアのリターン・トゥ・フォーエバーの参加などで、日本ではパコよりも知名度があったはずだ)。

本作は、パコの長男であるクーロ・サンチェスが2011年から撮り始めたドキュメンタリー映画。2014年に主役が心臓発作のため急逝するまでに自身の生涯を語ったインタビューをもとに、過去のテレビ出演やライブの様子など、豊富な映像を使って構成されている。

衣料品販売のかたわらセミプロのフラメンコ・ギタリストとしても活動していた父親をもち、幼い頃から音楽への才能を見せていた。父親はパコの兄にギターを教えようとしたが、横で聴くだけだった弟の方が覚えが早かった。父親の演奏でリズムがずれている箇所を即座に指摘するなど、リズム感は天性のものがあったという。兄の方は歌手になり、未成年ながら兄弟であちこちで演奏しはじめる。
ギターがなければ自分の殻に閉じこもったままだった、と彼は言う。彼以上に無口で内向的だった歌手カマロン・デ・ラ・イスラのことを「天才だ」と評するが、自身のことは天才ではなく努力の人だ、としている。幼い頃からリズム感は素晴らしかったが、メトロノームを使い正確なリズムを刻むべく努力したのだ、とも。

フラメンコではじめてジャズのような「即興演奏」を試みた。今ではフラメンコになくてはならない楽器となったカホンをはじめて取り入れたのもパコとそのグループだった。そのようにして伝統的なフラメンコ界に次々と革新的な試みをもたらすものだから、保守的な層からは「あれはフラメンコではない。ただテクニックだけだ」などと糾弾されてきた。そんなネガティブな評価も、フランコ独裁政権が終わる頃にはほとんど聞かれなくなってゆく。



多少の前後の入れ替えはあるものの、映画は基本的には生涯を時系列に沿って追ってゆくので、おおむねわかりやすい作品ではある。しかし、スペイン近現代史のアウトラインだけでも頭にあると、なお良いかもしれない。もちろん、フラメンコ史や偉大な先人たちの功績を知っているとさらに楽しめるはずだ。そのあたり、わたしにはかなり曖昧な知識しかないので、もうちょっと予習しておきゃよかったなあ、と思ったが。たとえば、パコのドキュメンタリー映像であればパコの本名である『フランシスコ・サンチェス』というタイトルの2枚組DVD(日本盤はユニバーサル/UCBU-1004/5、2003年)を持っているのだが、ちゃんと観ないまま長い間ほったらかしになっていたのだ。帰宅して、いま、それを観ながらこれを書いているんだけど、さっきまで観ていた映画とは全く違うアプローチで作られていて(たとえばメキシコでの暮らしぶりなどもたっぷり描かれている)、たいへん面白い。

ともあれ、繊細で職人気質とも言えそうな人となりが存分に描き出されているだけでも興味深いが、やはり演奏場面の映像はただただ圧倒されるし、エロティック、とさえ呼びたいほどの音色にうっとり浸っていられるだけでも至福である。