むかしばなし

遠い遠い、昔の思い出。





映画『聲の形』で聴覚障害者についていろいろ話があるようだが(映画に字幕がないこととか)、わたしがごく個人的に思い出していたのは、また別のことだった。不幸な事故により下半身不随になり車椅子生活を余儀なくされた方が大学時代にいたけれども(年齢としては先輩だけども学生としては同級生になり、家もわりと近くだったのでしょっちゅうつるんで遊んでた)、それとは別の、もっと昔の話。


小・中学校時代、障害者だけのクラスがあった。当時は「特殊学級」という呼び名だった。今ではそんな露骨なネーミングはしないと思うが、当時は身体障害者も含む「知恵遅れの子どもたち」のクラスとして一般的だった。
そこの生徒たちを敬遠する連中はたくさんいた。というか、クラスメイトの母親たちからして「特殊学級の子どもたちには近づかないよう」にしていた節があったように思う。「我が子のクラス」と「特殊学級のクラス」とは違うんだ、一緒にしないで欲しい。そんな空気感が、目に見えないところで漂っていたように思う。

別に自分のことを特別視するつもりはないが、わたしはそういう空気はあまり気にせず、しょっちゅう「特殊学級」の部屋に遊びに行っていた。おもしろい絵本なんかがその教室だけにあったから、それを読みたかったってこともある。

そんなわたしのことを、まず最初に気にしていたのは担任の先生だった。「知恵遅れの子」を「いじめ」たり「からかい」に来ているのではないか、という警戒心だ。特殊学級担当の女性教師から面と向かって「キミは何しに来てんの」と言われたことも何度かあった。
はあ。まあ。などと曖昧な受け答えをしつつ、そのクラスの子たち(おなじ教室に同級生もいれば下級生もいる)と一緒に絵本を読んだり、簡単なゲームをしたりして楽しく遊んでいた。

これは天に誓ってもいいが、当時のわたしがそこにしょっちゅう出入りしていた理由は、単に自分が「楽しかった」だけあり、同情心や優越感を抱くため、ということなど露にも思わなかった。あとで(担任の先生を含め)回りからそういう意味のことを言われてびっくりした。担任から親へなにかしら伝えられたんだろう、あるとき母親から「特殊学級に遊びに行っているそうね」と言われてひどく驚いたことも覚えている。そのときも「だって面白いもん」と答えたはずで、なぜそんなに回りが大げさに問題視しているのかは、さっぱり理解できなかった。


九九がわからないから教えて、とか、ひらがながうまく書けないとか、放課後の「特殊学級」の同級生/下級生たちにはずいぶんいろいろ相談を受けていた。へえ、そっかー、と言いながら、わたしはそれなりに一所懸命彼ら/彼女らと向き合い、というかものを教えるほど出来ている子どもでもなかったから、ただただ一緒に遊んでいただけだった。

転機が訪れたのは卒業も近くなったある秋のことだった。
わたしにしょっちゅう懐いていた下級生の女の子と、たまたまふたりきりになる瞬間があり、いつものようになんか本でも読もうか、と学級文庫に手を伸ばしそうになったとき。
急にその子がうんと顔を近づけてきた。
「キスしてもいいんよ」と彼女は言った。
このとき、彼女はもっと卑猥でもっと性的なことを言ったような気もする。しかし、中学生のわたしにとって、それはあまりに唐突すぎ、あまりにオトナすぎた。

「やめてえや」近づいた彼女をどんと突きとばした。「そんなんやないし」

少しばかり沈黙が続いた。やがて教室に第三者が戻ってき、それをきっかけに、とりあえずはいつもの雰囲気になった。
しかしわたしは、それからあの教室に行くのが怖くなり、避けるようになった。

卒業式の日だったかその直前だったか、「特殊学級」の担任の女先生に呼ばれ、<あの日>のことを謝罪された。あのあと彼女はすごく後悔していて。私からも、あなたにも悪いと思っている。そんな風な言葉だったろうか。卒業前にもういちど、あのクラスに行ってくれないか。そうも言われた。

そこまで言われて、特に断る理由は思いつかなかった。わたしは懐かしのあの教室に行って、僕はもう卒業やけどみんな元気でね、みたいな当たり障りのないことを言って、そそくさとその場を去った。



…一生懸命思い出したけど、わたしの記憶は以上だ。もちろん、以上の記述は、自分の都合のいいように記憶を改変している可能性は大いにある。当時の自分に「障碍者」にたいする差別心や、そこまでいかなくとも『面倒くささ』や『しんどさ』をまったく感じていなかったかと問われれば、返す言葉はない。自分としてはそういう気持ちを抱いたことはけしてなかったと思うのだけれども、それは「今になって当時の自分を振り返って」のことだろうと問い詰められたら言い返す自信はない。
しかしあのとき、わたしが思ったのは「女ってこええな」であり、「通常学級」の子より「特殊学級」の子の方がよりダイレクトで「こええな」であり、いきなり性的な結びつきを求められても対応出来ない自身の幼さを突き付けられた感があり、というか性の目覚めって女の子の方がはるかに上を行ってるんだという怖さでもあり。数十年たった今でも、あのときの「事件」は自分の中でどう消化していいのか、実はよくわかっていなかったりもする。十二分におっさんになった今では、キスのひとつくらい別に減るもんじゃなしブチューってやっちまえじゃいいじゃん、などと思ってしまったりするんだけれど、やっぱそれは違うんだろうな。
 
   

中高生時代の性的な憧れやら未熟さってのは、昔も今もそんなに変わっていないんだろう、と思う。

高校時代に下級生の女の子連中がいわゆる「援助交際」で中退していたり、小学生時代にものすごく優等生だった女子が中学〜高校のあいだにヤクザの情婦になったとかなんかで同級生男子のあいだに激しい動揺が走ったとか、まあ思い起こせば実にいろんなことがあった。携帯電話やインターネットはおろか、ポケベルさえ発明されていなかったはるか昔の話である。



ま、いつだってヤる奴はヤってるし、モテない奴はどんな時代だってモテてねえ。男と女って、そんなもんだよな。

超高速!参勤交代リターンズ

2016年/本木克英監督作品

2014年に公開された前作『超高速!参勤交代』も観に行ってるが、クライマックスのド派手な大立ち回りが気に入らず、ここで感想文も残していない。肩の凝らない娯楽映画とはいえ、あそこまで無茶な展開にする必要があったのかなあ、などと当時思っていたものだ。

それでなくてもヒット作の続編、しかも、最初から計画されていたわけではなく前作の商業的成功を受けて急遽企画された映画となると、むしろがっかりすることの方が多いんじゃないか。そう思いながら劇場に向かった。

もともと<ハイ・スピードで目的地に向かうハメになった男達の七転八倒>というアイディアの面白さは、ほぼ前作で語り尽くされている。なので今回は、前作の敵役であった老中松平信祝の悪役ぶりを大幅にスケールアップさせている。結果、参勤交代のあれこれは完全にワキに追いやられ、勧善懲悪ものの痛快時代劇に変貌したが、この方向転換は正解だろう。前作で大活躍した面々がふたたび結集し、前作以上の一致団結ぶりを見せる、というだけでちゃんとエンターテインメントになっているのだ。
前作以上にギャグも多く、また殺陣のアクションもかっこいい(控えめながらちゃんと血しぶきも飛ぶ)。絶体絶命のピンチを切り抜ける奇抜なアイディアも楽しい。内藤の殿さまが敵方に取り囲まれる場面がふたつみっつあって、その「逆転勝ちの方法」がいずれも似たような展開だったのだけがいくぶん惜しまれるけれども。
2時間というたっぷりと時間を使う映画なので、テンポは必ずしも早くはない。もっと脚本を刈り込んで90分くらいに収めた方が…とも思ったけれどもどうなんだろう。

ともあれ、娯楽映画として、個人的には前作以上に楽しめた。やっぱチャンバラは楽しいな。

聲の形(こえのかたち)

2016年/山田尚子監督作品

原作は(最初の短編含め)いっさい未読。そっか、これ、少年マンガが原作なんだよな。西宮さんというより、なにより石田くんの救済の物語だったんだ。


17日の舞台挨拶パブリックビューイング付き上映会に出かけた。わたしが行った会場では、上映直前に完売・満席になった。満員の映画館なんて何年ぶり、いや十何年ぶりになるのかな? 今でこそたとえば『君の名は。』なんかは毎回満員御礼だというが、あの作品でさえ、封切り直後にわたしが行った時はまだまだ空席の方がはるかに多かったから、今回のようにぎっしり埋まった客席に埋もれて映画を観ること、それ自体が実に新鮮だった。中高生と思われる若い女性客も多く、それだけ期待されていた映画化だったんだろう。


公開直前に、ネット上にたくさん露出された監督やキャストやスタッフインタビューのたぐいはほとんど読んでいたし、原作漫画が描かれた際の評判なんかも少しは目にしていたので、まったくなにも知らずに物語に接した、というわけではない。とはいえ具体的なエピソードやあらすじの展開なんかは全然知らないので、これ、どういう結末になるんだろうと、終始ドキドキしながら観ていた。
上映中ずっと、こういう映画って、昭和の昔ならきっと小説が原作で、映画化も実写になっていたんだろうなあ、とも思った。このストーリーがまず漫画で描かれ、それをアニメーションとして映画化する、そのこと自体がふた昔ほど前ならまず考えられなかったことなのかもしれない。たとえば実写映画であるはずの『シン・ゴジラ』がアニメ監督によるアニメの文法で制作されていることと、『聲の形』がいわゆるお約束的なアニメの文脈には則っていない作り方をされていることは、ともに2010年代の映像作品としてなにか通底する部分があるのだと思う。
その流れで言えば、ヒーロー/ヒロインはじめ主要な登場人物たちがそれぞれ長所も短所もある、等身大に近い人物として造形されているのもとても<現代っぽい>と言えるのかもしれない。欠点というかネガティブな面が描かれていない人物っていうと、主人公の母親くらいだろうか? あ、「親友」である永束くんもわりと<高校生男子でここまでイイ奴、いるかあ?>とか思ったけど。
そういう、主要各キャラクターのネガ面も丁寧に描出しつつ、しかし映画全体としては暗くなりすぎず、また重くもなりすぎずに見せているのは脚本ならびに演出の力と言えるだろう。実際、けっこう笑える場面が随所に差し込まれていたのには感嘆したし、各キャラクターのネガティブなところも単に物語の展開上の<嫌な役どころ>という記号ではなく、自分にだってそういう部分はいっぱいあるよね、という共感を得られる描き方をしているのがすばらしい。


 
タイトルからも察せられるように<音の映像化>が本作の主題のひとつでもある。そういう意味では、この作品は「劇場という特殊な空間」でこそ鑑賞すべき映画でもあるはずだ。単にストーリーを絵解きしました、というのではなく、画面の隅々、あるいは表現されている音のひとつひとつにまできちんと意味を持たせている、そういう映画だ。それでいて難解なところはなにもなく、初見であるわたしですらちゃんと感動できるし、エンターテインメントとして楽しめる。まあ、あえて言うと、脇役として出てくる何人かは原作を知らないゆえ少しばかり唐突な感じもしたんだけれども、それは映画全体を損なうものではなかったはず。
ライブビューイングで観た監督の挨拶で、「繰り返し観て貰える強度を持たせた」という意味の発言があったと記憶している。その言葉に偽りはない、と思った。

SONG of the SEA

2014年/アイルランドルクセンブルグ・ベルギー・フランス・デンマーク合作/トム・ムーア監督作品
 
アイルランドの伝説をベースにした物語。絵も音楽も素晴らしく、93分間があっという間だった。


日本製のアニメーションは、これは最近の流行なんだろうけれども、実在の土地・場所をこれでもかと美しく精密に描く美術が特徴だ。それはそれで観ていて圧倒させられるし、いわゆる「聖地巡礼」の楽しみもあるんだろうけれども、そういう作品ばかりだとちょっと胃もたれしてしまう。その点、この作品のアートワークはまさにどんぴしゃで好みだった。絵本がそのまま動き出したような、と表現するのがいちばんふさわしいだろうか。一方で、実験的なアート・アニメーションにありがちな難解さはかけらもなく、登場人物の動きなんかは日本のアニメ風でもあり、とてもわかりやすい。パンフレットによればトム・ムーア監督はスタジオジブリなどをずいぶん研究したらしく、少なくとも影響下にあることは間違いないだろう。
キャラクターデザインはいかにも子ども向けという感じだけれども、主役である幼いシアーシャがときどき髪をかき上げる仕草があって、そこがなんとも色っぽかった(たしか3〜4回でてきたはず)。静止画で見るのと映画館で動きがついたのを見るのとで印象がこんなに変わるのか、と驚いた。芝居も丁寧だし、静と動のメリハリも非常に効いている。


物語はハロウィンの一夜がメインとなる。ここ数年、ハロウィンというとただの仮装パーティーみたいな扱いを(日本では)されがちだけど、ここでは人間と精霊が触れあう大切な日として描かれている。このあたりの感覚はさすがアイルランドと言うべきだろう。
もうひとつ、この作品は「うた」や「物語」が伝承されていくことの大切さを描いた映画でもある。母から子へ教え継がれるうた、精霊シャナキーが語り継ぐ物語。そのひとつひとつが、どれも深い慈しみをもって表現されているのだ。音楽を担当しているのはキーラで、これがまた泣かせます。アイリッシュ・トラッドファンにはおなじみの楽曲(『Dulaman』)が出てきたときには、思わずにやにやしてしまった。しかも物語のなかでけっこう重要な契機となるうただったりするし。


字幕版で観てすっかり満足したんだけれども、吹き替え版も実はちょっと気になっている。もういちど劇場に足を運ぶべきか、きっと販売してくれるであろうブルーレイを待つ方がいいか…いや、出るのかなあ。
トム・ムーア監督の第一作は「ケルズの書」をモチーフにした『The Secret of Kells(2009年)』だそうだ。日本では映画祭などのイベントで何度か上映されたらしいが、わたしは未見。アマゾンをのぞいたら米国盤BDがあったので思わず注文してしまった。たぶん言葉はなにひとつ聞き取れないと思うけど、まあいいや(笑)

君の名は。

2016年/新海誠監督作品

新海作品というと『言の葉の庭』がネットでの評判がよかったので、昨年だったか一昨年だったかにDVDを買い求めたことがある。しかし、帰宅して大いにわくわくして見始めたものの、あまりに陰気くさいハナシだったので最初の20分くらいで止めてしまい、実はいまだに最後まで見ていない。風景描写もふくめてたいへん繊細な作風であることはわかったが、これは作中世界に存分に没入できる、映画館という環境でこそ見るべき映画なんだろうなあと思ったのだ。なので新海誠の映画は、これまで“なにひとつ”観ていない。
いつだったか、映画館でこの作品の短めの特報を見たときは、「男女入れ替え」の「すれ違い」の恋愛映画だろうと見当をつけた。切なく甘酸っぱい青春ラブコメ(主役は二人とも高校生のようだし)かあ。まあ王道だよね、と。
その後、少し長めの予告編を、これまた別の映画館で見た。そこでは最初に見た特報と違って「早くしないとみんな死んじゃう」とかなんとかいうセリフや、いかにもクレーターの跡っぽい画像が出てきて、頭の中がハテナマークでいっぱいになった。なんだこれは? ひょっとしてハードSFなのか? ひとむかし前に流行った<セカイ系>なのか? で、実はこの段階でなんだかつまんなさそうだな、と思ってしまったのだ。
とか言いながらもやはりどこかで気になっていたんだろう。結局、公開早々に劇場に駆けつけた。




…びっくりした。こんな映画、こんな物語だったのか。すごいなあ。
ものすごく濃密というか、話が二転三転していくジェットコースタームービー。とてもひとことで要約できないストーリー。なのに、上映時間は1時間47分。シン・ゴジラよりも短いぞ。つまりは脚本と構成の妙に、まず圧倒させられたのだ。
青春もののオリジナル作品としては、特報で予告していた「見知らぬ男女の入れ替え」というアイディアだけでたぶん一本の映画として成立するはずなのだけど、そこから話が大きく膨らむ過程が素晴らしかったし、すれ違いのふたりが出会う必然性もその大きな舞台装置の中でしっかり生きている。エンディングはひとつの物語の終わりと言うよりも、むしろここからふたりの物語が始まるんだという幸せな予兆に満ちていて、ぐっとくる。
公式ビジュアルガイドに掲載の監督インタビューだったか、「いまさらジェンダーの差異で話はつくらない」という意味の言葉があった。なるほど、わたしなんかが最初に予想していた<甘酸っぱい青春ラブコメ>路線ははなから作るつもりではなかったということか。思春期の男女の身体が入れ替わるという大事件ではどうしたって避けられない<ジェンダーの差異>表現は、劇中ではなんとかうまく(露骨になりすぎない程度に)やりすごしていたように思った。ホントにあんなことになったらもっと生々しい問題で大変なはず、というかまずまっさきに病院に行くよね、ていうハナシなんだけど、そこいらへんは上手に回避している。このへんは脚本が大変だったんじゃないかなあ。しかし<ジェンダーの差異>が映画の主題ではないとはいえ、男女が入れ替わるからには登場人物はその差異はきちんと見せなければ話にならない。入れ替わっているあいだの細かい仕草やセリフの言い方などは、その差異を芝居として丁寧に表現していて、そこも見事だった。

新宿や四ッ谷あたりの実在する東京という都市と、飛騨地方という言及はあるもののまるきり架空の街である糸守という町。そして三年というタイムラグ。時空間のまったく違う場所に生きている男女ふたりがどこでどう交差するのか。そのための仕掛けが1000年に一度の彗星群というわけなんだけど、ちゃんと説明しようとするとあまりに複雑で、けれども映画を見ているあいだはそんなことは全然気にならなかったので、やはりこれは脚本と演出の巧さというべきなんだろう。あ、そういう意味では「時をかける少女」ぽくもあるかもしれない。
——夢の中で現実とは違う世界を生きている、という夢は、実はわたしもよく見る。さすがに自分自身が異なるジェンダーで登場したことは一度もないし、まったく見たこともない風景に囲まれたこともないけれども(見覚えのある風景がちょっとずつ違っている、という感じ)。けれど「違う人生を生きている自分」ということ自体には、個人的にはほとんど違和感はなかった。
とはいえ、誰もが必ず体験することでもないとは思うし(夢なんか見たことないって人も多いだろう)、だから設定としてはけっこう取っつきにくい世界観ではないかという気もする。そのあたりを、細密に描かれた作中の風景によってしっかり補填しているのがこの監督ならではなんだろう。なにせ、東京に住んだことのないわたしですら冒頭すぐに「あ、新宿だ」とわかるくらいには<リアル>なのだし。



これだけの大がかりなフィクションをこれだけコンパクトにまとめている映画なので、ストーリーを細かく分析していけばたぶん無理矢理だなあというところもたくさんあるんだろうとは思う。けれども、少なくともまったくの初見で映画館に坐っていたあいだはそんなことは全然気にならなかったし、映画のクライマックスと導入部分がつながったところで、ああこれは最初からもういちど見直さなきゃとも思ったので、作品としては大成功なんだろう。とりあえずDVDが出たら絶対買うつもりだし、ずっとほったらかしにしていた『言の葉』を、今こそちゃんと見てみようかなとも思った。




【追記】
↑を書いてから某掲示板を覗いてみたら、主にタイムパラドックスに関する矛盾点がたくさん突かれていて笑った。なるほどなあ。確かに、お互いの関係に3年の時差があるってのを主役ふたりとも全く気付いていなかったというのは、かなり重大な指摘だと思う。スマホの日記アプリを介して連絡しあっていたからには、日付っていうのはいちばん最初に気付くべき事項でもあるはずだろうし。それと、日本にとって国難とも言うべきあれほどの大事件について、映画の前半部分で全くといっていいほど触れられていないのも。
言われてみればどの指摘も映画を見ている最中に少しばかり頭をよぎったことばかりだし、そのへんを気にし出すと映画本編が楽しめないのもよくわかる。
けどまあ、そーゆー<ご都合主義>ってのは昨今の映画には(洋画・邦画ともに)よくあることだしぃ、てな感じでスルーしてもいいんじゃないかなぁ。…って、甘すぎ?

桃太郎 海の神兵/くもとちゅうりっぷ

デジタル修復版ブルーレイディスク購入(松竹/SHBR-0384/2016年)。
アニメーション作品としての完成度の高さだけは古くから良く知られていて、ただ太平洋戦争中の国策プロパガンダ映画だったため長らく一般の目に触れる機会がほとんどなかった「桃太郎 海の神兵」。わたしが観たのは1980年代半ばごろだったかと思う。調べれば正確なことが書けるんだろうけど、とりあえず今は記憶だけをたよりにする。映画会社の倉庫からフィルムが発見→解説付きで全国各地の(映画館ではなく)市民会館とか大学の講堂みたいな場所で限定公開、みたいな流れだったかと思う。京都市内の、どこで観たのかまでは記憶にないけど、京大の講堂みたいなところだったか、府か市の施設だったか。いずれにせよそこそこ公的な場所で観たはずだ。昨年亡くなられた今江祥智さんが観客として来られていて、嬉しそうにしてらっしゃったのだけは鮮明に覚えている。
その時も「神兵」「ちゅうりっぷ」の二本立てだったはずだ。個人的にはわたしは「くもとちゅうりっぷ」目当てで、1時間以上もある大作「神兵」の方は半分うとうとしながら観ていた。古いフィルムだからキズもものすごく、また会場も映画を専門に見せる部屋ではないから音もよくない。セリフだって聞き取りにくく、わざわざ観に行ったにもかかわらず「早く終わらねーかな」などと思いながらその場にいた。

それ以来すっかり忘れていたんだけれども、このたびデジタル修復版が出るというので思わず購入。いま再生しながらこれを書いている。
修復版だから当然なんだけど、キズ・ノイズの全く無い画面は不思議な感じがする。モノクロ映画だけれどもにもかかわらずカラフルな印象を与えるのはアニメーションならでは、と言っていいんだろうか。
画面の手前から奥、あるいは下から上へ。遠近感を強調した躍動感のあるカットが多く印象に残る。登場人物は主役の桃太郎を除けばほとんど動物ばかりなんだけど、四足で駆け抜けたと思えば次のシーンでは擬人化された二本立ちで歩き回るなど、自在なアニメーションぶりが楽しい。



「くもとちゅうりっぷ」は「神兵」以上に画面が鮮明になっていてびっくりした。かつて観たときはほとんどディテールがわからないくらいに荒れた画面だったんだけどなあ。よくぞここまで修復したものだ——とジャケットを改めて見てみたら、こちらは<デジタル復元版>となっているのね。まあ、修復ならぬ<復元>というのは納得だ。これが見られただけでも買って良かった。それにしてもテントウムシ少女のなんともコケティッシュなことよ。
この映画をつくった政岡憲三については、本ディスク解説も書いておられる萩原由加里さんの著書「政岡憲三とその時代 「日本アニメーションの父」の戦前と戦後」(青弓社/2015年)に詳しい。買った当時ざっと読んだきりだったんだけど、これを機会にもういちど読み直してみようっと。

ちなみに、ディスクにはいわゆる特典映像的なおまけは一切ない。デジタル修復の技術的な解説とか、5〜10分程度でいいからちょっと見てみたかったところではある。

シン・ゴジラ

2016年東宝/監督・特技監督樋口真嗣/脚本・編集・総監督=庵野秀明
 
わたしがゴジラ映画を映画館で観るのは親にねだって連れて行ってもらった小学生以来だから、ン十年ぶりになる。大人になってからDVDで観たのは1954年公開の初代版と、ローランド・エメリッヒが監督した1998年版の二作のみで、どちらも映画館では観ていない。子ども時代に観たのはたしかモスラかなにかが出てきた記憶があるんだけれども、正確な作品名などはまるで覚えてない。
ついでに言うと、わたしはエヴァンゲリオンすらちゃんと観たことがない。樋口監督・庵野監督両名とも、名前こそ見知っているものの、その作品を観るのは今回がおそらくはじめてとなるはず。登場人物の顔のアップが頻繁に出てくる独特のタッチは、どちらの監督の演出手法なんだろう?


初見の感想としては、これは怪獣映画というよりディザスター映画と呼ぶ方がいいのかもしれない、というものだった。平和な日常が突如現れる謎の巨大生命体によって徹底的に壊される。立ち向かうすべさえわからない絶望感。そういう意味では、わたしの好きな映画『クローバーフィールド』(2008年/マット・リーヴス監督)を思い起こさせもした。ただ、あの作品のラストは途方もない絶望のまま終わったけれども、本作はとにもかくにも怪獣の活動を停止させることに成功し、明日への希望につなげている。とはいえ、そいつは「我々」ののど元に刃を突き付けたまま屹立しているわけで、この締めくくり方はたいへん現代的だと思う。
でもってこの映画、怪獣が暴れ回る以外の時間は、ほとんど関係閣僚会議なんである。このあたりは現実の日本に「想定外の災害」が発生した場合のシミュレーションを、それなりにリアリティを持って描き出そうとしているが故だろう。まあ実際はもっともっと混乱するんだろうけれども(株価の暴落といった日本経済の危機などは登場人物のセリフで触れるのみで、具体的な描写は無い。つまり、日本社会の混乱ぶりをそれほど強く描かないのは、最初から意図してやっているはずだ)。リアリティといえば、災害対策本部?らしき部屋が、最初はかなり豪華な設備なのにゴジラによって撤退を余儀なくせられ、立川に移転してからはしょぼい貸しビルみたいな部屋にパイプ椅子を並べて…というのもいかにもそれっぽかった。徹夜してカップうどんすすってるとか、何日も着替えてないとか、うん、このへん日本的でたいへんいい感じ。いかにも緊急事態ですって雰囲気も出てるし。
…といったリアルっぽいディテールと、一方で大風呂敷を広げた空想科学を一緒にやっちまうから、この手の映画は楽しいのだ。最後のゴジラを倒す作戦などは、現実的にはここまで鮮やかに成功するはずはあるまい。もちろんエンターテインメント作品なんだし、ここは成功しなくては終われないのだが。

日本製の特撮映画にそれほど慣れていないということもあって、ゴジラが都内各所を暴れ回るシーンは新鮮で面白かった。遠景としての大厄災もさりながら、ドキュメンタリータッチで撮影された大勢の人々が逃げ惑うシーンは大変だったんだろうなとか思いながら観ていた。避難シーンはCGじゃなくって実際にロケ撮影したもの? それともあれらも作り物の合成なんだろうか? 東京には住んだことがないしそれほど土地勘があるわけではないけど、ところどころ見知った風景がでてくるとやはりドキッとするもので、このあたりはやはり東京在住の人が観たらさらに面白いんだろうなあと思う。
 
作中、巨大生命体の名前を「Godzilla」と命名するのが米国(第一発見者である日本人科学者由来だけれど)というのも皮肉が効いていていい。ゴッズゥイーラ、という発音は難しいから日本じゃ「ゴジラ」と呼ぶことにしよう、なんてセリフも笑わせてくれる。日本とアメリカ、日本と国際社会、日本と国連といった現代世界への批評的視点を織り込んだ脚本、台詞回し、演出が、ちゃんとテーマとつながって作品のなかに生きているのが良かった。そうそう、こういうディザスター映画こそが、ずっと自分が観たかったものなんだよなあ。ここ数年ハリウッド製大規模災害映画をいくつかDVDで観ていてその度にもやもやしていた気分が、ようやく晴れた感じがした。

この映画はきちんと映画館で鑑賞できてよかった。ただ、わたしが観たシネコンは音響がかなりおとなしめだったのだけが不満だ。これこそ爆音上映会とか、近所でやってくれないかな。ゴジラの咆哮がずっしり響くだけで、緊迫感がいや増すはずなので。

WAT世界のアニメーションシアター2016

公式サイトはこちら→http://www.wat-animation.net/

同じ立誠シネマでAプロ・Bプロ両方を観てきたので、こちらも感想を残しておく。
Aプロが<いろいろな愛のかたち>を描く5作品、Bプロが<社会的視点をもつ>5作品。アニメーションとはいえ子ども向けのものではなく、一見子どもむけ風に見えて細部でどきっとする描写があったりする。たとえば鳩時計視点で描かれた『ビトイーン・タイムズ』では、男女カップルの初夜がかなりあからさまに出てくるし(つってもまあ「性教育動画」の範疇なんだけど)、物語のエンディング自体もけしておとぎ話的なめでたしめでたしではない。
また、少女の空想のともだち(他人には見えない)が不妊症に悩む夫婦にさらわれてしまう『Otto - オットー』という作品は、かなり病的な物語で、無理矢理ハッピーエンド風に持って行ってはいるものの後味の悪さが後を引く。それから『ちいさな芽』という作品は環境問題がテーマだと思うが、こちらも一見無邪気なようでいて、なかなかにバッドテイストだった。
良かったのは第88回のオスカーにもノミネートされたという『真逆のふたり』。ことあるごとに喧嘩している仲の悪い夫婦=一軒家の中でそれぞれ上下逆さまの世界に暮らしているという視覚表現がわかりやすく、かつアニメーションならではの表現だろう(実写だったら、小道具のディテールなどにまつわる矛盾をここまで都合良く省略できないはず)。ストーリーも最後までぐいぐい引き込まれたし、ラストにはほろっと来た。明日への希望をも感じさせるいいお話しだった。
もうひとつのお気に入りはブラジルの女性作家による作品『ギーダ』。中年(劇中、勤続30年で表彰されるシーンがある)というにはちょっと初老に差し掛かっている女性の鬱屈した日常生活と、絵画クラブへヌードモデルになりに行くというちょっと非日常的な冒険を、巧みなデッサンで描いた作品で、描線が画面一杯に踊るさまはこれぞアニメーション! と叫びたいくらい生き生きとしていた。5作品中3つまでがクレイアニメで、わたしはどちらかというと平面作品の方が好きなので、余計に『ギーダ』が印象に残ったということもあるけれども、とにかく絵を描くことの嬉しさ、楽しさがこんなに詰まったアニメーションも珍しいのではないだろうか。いやあ、いいものを見せてもらいました。

Bプロは『ホワイトテープ』『ブラックテープ』の2作が実験的なショート・ムービーでひときわ異彩を放っていた。実写映像をもとにしているとのことで、(たぶん)兵士と一般市民との殺し合いが描かれている。ストーリーものというよりむしろイメージ重視なので、映像世界に入り込む前に唐突に終わってしまった、という印象だけが残った。
サンティアゴ巡礼』はたぶん作者の実体験をもとにした、いわばエッセイアニメーションとでも言おうか。おそらく土地勘のあるヨーロッパ人ならもっとリアリティをもって受け止められただろう。色彩や描かれたフォルムの完成度の高さは見応えがあった。
聴覚障害者のカップルによるラブストーリー『触感のダンス』はAプロ(いろいろな愛)でも良かったような気がする。アニメーション的なメタモルフォーゼの表現は素晴らしいものの、物語的には主役の二人が聴覚障害であることの必然性がいまひとつ薄いようにも感じた。クライマックス、遭難した女性を探し出す場面でも「声が使えない」ことがドラマのサスペンスに役立っているようには思えなかったからだ。しかしタイトルにあるとおり、ほとんどダンスをしているようなダイナミックなアニメーションには目を見張らされた。
10作品の中でいちばんの超大作であり問題作だろう『アフガニスタン - 戦場の友情』は、アフガンの戦地に派遣されたデンマーク兵たちの実話に基づく物語だそうで、ハードボイルド、というにはあまりに生々しい描写がリアル。物語がぶった切るように終わる流れも見事。序盤、登場人物の関係がよく把握できなくてそれがしまいまで響いてしまったが、たぶんもういちど観たらすっきり分かるに違いない。ビジュアル的には全作品中もっとも「アニメ」っぽいけれども、シーンの緊迫感や登場人物たちの非情さなどを含め、重厚なドラマ性はいちばん高い。

DVDなどパッケージ販売はされないのかな。まあYouTubeでもいいんだけど——と今ちょっと検索してみたらひとつみつかった。
GUIDA - BY ROSANA URBES https://www.youtube.com/watch?v=c5xB5b3dQK8
そういえば本作でも主人公がおしっこしている場面が堂々と出てきてびっくりしたんだった(音が妙にリアルだ)。そういうところを含めて、女性の老いた身体にきちんと向きあっているのが本作のとびきりの魅力でもある。
(追記:そうだ、この作品は、わたしが好きなフランスの漫画家ジャン・ジャック=サンペに似ているんだ。設定の世界観や物語の組み立てかた、そして絵のスタイルまで、サンペ世界を彷彿させる。や、マネしたとかそういうのではないんだろうけど。でもサンペをアニメーションにしたらきっとこうなるんだろうなあ)

せいしゅんひゃきろ


平野勝之監督作品/2016年/制作・配給:本中(R-18指定)
※「せいしゅんひゃきろ」というひらがな表記は映画チラシ掲載に準拠

立誠シネマにて監督のトークイベント付きで鑑賞。トークの冒頭で、「監督と主演女優がお互いに全く興味ない」と言って笑わせていたが、この映画は徹頭徹尾“アタマおかしい”。
監督にオファーが来たのが撮影の4日前というのもそうだし、映画に出てくる人物もみなどこかネジが外れている。それこもこれもみな、アダルトヴィデオ業界を題材にしているからだ…と言っていいのかどうか。
あるアダルト女優が引退を表明、その最後の企画の一環としてこの作品は依頼されたらしい。その女優のファンである一人の青年(年齢は明らかにされていないがトークでの監督の話によればたぶん22〜3ではないか、とのこと)が、新宿から撮影現場の山中湖までの100キロを、2日かけて自らの足で走り通す。見事ゴールできたら、その女優に会えるというものだ。青年はホノルルマラソンを経験してはいるものの42.195キロ以上は未知の領域だし、山中湖は山の中。おまけに実施時期は2015年12月29・30日という。都心ならまだしも、山はぐっと気温が下がる。二日目は絶対しんどいから、初日でできるだけ距離を稼いでおきたい。青年はそう計算する。

撮影までの準備期間があまりになさすぎたこともあったんだろうが、走る青年を追いかける、平野監督ら撮影スタッフのグダグダぶりがとんでもなくヒドい。おそらくは一気に走り抜くつもりだった彼の邪魔になることばかりをやらかしているのだ。
監督は自転車にヴィデオカメラを付けて青年を追う。併走するワンボックス車には二人乗っていて、こちらもカメラを回している。スタート直後は何のトラブルもなく、このままだと全く面白くないから「10キロごとにあいつに何かやらせようぜ」などと言っているのだが。
28キロを超えたあたり、スタッフがちょっと目を離した隙をつくかのように、青年が突如行方不明になる。大きい交差点を左折すべきところを、間違えて真っ直ぐ行ってしまったのか? 走る青年はできるだけ身を軽くしたいから携帯電話や財布など一切を車中に置いたまま。同行スタッフの携帯番号すら事前に教えていない。慌てた撮影班は自転車と車で手分けして周辺を何度も探すが、一向に見つからない。
「そうだ、おれたちの携帯は知らなくても、あいつ自分の携帯に何かメッセージ入れてないか?」監督が気付くのは行方不明になって2時間近くたってからだった。いくらなんでも気付くの遅すぎだろ。そんなこんなでようやく無事に再会。もちろん大幅なロスタイムである。普通ならもうこの辺で心が折れかけてもよさそうなものだが、彼は当然のようにまた走り出す。
結局、初日はちょうど50キロ地点まで走ったところでタイムアップ。温泉施設に泊まったはいいもののあまり寝られなかったらしい。

二日目もまたグダグダスタートだ。できるだけ早く出発したい青年のイライラをよそに、自転車を修理したりなんだかんだで、スタートしたのは午前10時になってから。おいおい、てめーらホントに邪魔することしか考えてないだろ!
青年の足は昼前にはパンパンに張り詰めていて、ほとんど走ることができなくなる。以降はほぼ、歩きだ。ゴールに近づくにつれて上り坂がきつくなり、日が暮れて気温もどんどん下がっていく。二重三重の過酷な状況が容赦なく彼を襲う。山に入ればコンビニすらない(=昼飯さえ抜き)。
それでも彼はあきらめない。ゴールする前にどこかで歯を磨きたい(女優と相対するのに口が臭かったら失礼なので)、などとのたまう。すでにフラフラで、どう見てもヤバイ状況なんだけど、彼はゴールした後のことしか考えていないのだ。真っ暗になった極寒の山のなか、監督の自転車とワンボックスが彼に寄り添う。とんでもなく非常識なシチュエーションながら、しかしこのあたりはものすごく美しいシーンでもあった。

映画は彼の無茶すぎる冒険と平行して、女優の引退記念作品の撮影現場がドキュメントされる。初日がプロ男優たちとの共演、二日目の山中湖は大勢の素人男性たちとの大乱交パーティ。いずれもまあ「奇妙な光景」としか言いようがないが、アダルトヴィデオを見慣れた向きにはこれが「普通」でもあるんだろう。なにが非常識でなにが常識的なのか、世間一般的な価値観をひっくり返したまま、映画は続く。
監督はトークの席上、これを「鮭の群れ」と表現していた。——鮭が一斉に射精するんですよ。で、一匹だけその群れからはずれたのが太平洋からはるばるやってくる。オレはそいつを鳥の目で追いかけてるわけ。魚の群れの中から見ればおかしなコトじゃないんだろうけど、鳥から見たらどいつもこいつもみんなヘンだよなあって。——この作品の中でオレがいちばんマトモだった、と監督は言うが、いやいや、映画の中の監督自身もじゅうぶん“アタマおかしい”って。
 


あっさりネタばらししてしまうと、青年は無事にゴールし、本懐を遂げる。あんだけヘトヘトになりながらよくもまあ最後までできるものだと感心するしかない(そのシーンだけが唯一「普通の」描写になっていたのがまたおかしい)。
トーク後の質問コーナーで、撮影スタッフの準備の足りなさを強く指摘していた方がいた。おっしゃることはしごくごもっともで、無事にゴールできたから良いものの、途中で重大な事故にもつながりかねない危険がいっぱいあったのだ。その意味では期せずしてハラハラドキドキの連続となり、映画としてちゃんと面白く成立しているのだが。
映画を観ていた最中は、わたしもまた監督たちの手際の悪さにちょっとイライラしていたんだけれども、準備不足を含めそういうところを全然隠そうとしていないところは、後から思えばこの映画の非常に良い部分でもある。登場人物がことごとく“アタマおかしい”と書いたけど、その“アタマおかしさ”を全然取り繕っていないのだ。結果として、制作側の一本芯の通った“誠実さ”みたいなものを、随所に感じることができた。
商業映画のドキュメンタリー作といえば、某エセ作曲家を追った作品が公開され話題を集めているようだ。そちらの監督は「ドキュメンタリーは嘘をつく」などと言っているようだが、いまさらそんな当たり前のことでドヤ顔されてもなあ、とも思う。そちらについては作品公開前の監督インタビューなどをいくつかネットで読んだだけでお腹いっぱいになり、結局その作品にはまったく興味を持てなくなった。観てもいない映画と比較するのはやっちゃいけないことなんだけれども、感触としては「(どうせ同じ嘘なら)ドキュメンタリー作品としてはこちらの方がより上質なんではないか」という気がしている。なにより、トークで監督があれこれ言い訳がましいことを一切言わなかったことに好感を持った。


立誠シネマでは平野監督の旧作を一挙上映するなど特集を組んで(特集上映はこのあと名古屋でも開催)おり、監督の独特の世界をたっぷり堪能できるようになっている。案内チラシを読む限りにおいては、申し訳ないけど個人的には全く観てみたいと思わないものばかりなのだけれども。


【2017年5月追記】
この映画、パッケージソフト化されないのかなあと思っていたのだが、そもそもがAV女優の引退記念作品だったってことを完全に失念していた。別題名でとっくにDVDが出ていたのね。しかも2,000円でおつりが来る低価格で。
映画とは別にAV作品用の編集になっているのかもという懸念はあったが、とりあえず購入。ざっとひと通り見直した限りでは、記憶とほぼ一致していたと思う。エンディングテーマ曲もカットされてなかったし。なのでひと安心。
ただしこのパッケージは堂々とラックに並べるには抵抗があるなあ。ジャケット自作しようかしらん。
「年齢指定付き」とはいえ「映画」として映画館で観るのと、「AVソフト」として自宅で観るのとではやっぱ印象が変わるよなあ、とも思った。たとえばクライマックスシーンの“取って付けた感”というか嘘くささは「AV」としては必要不可欠な場面だったのか、とか。どこまでがドキュメンタリーでどこからがフィクションなのか問題は編集された「映像作品」であるかぎりどんなものでも常に付きまとう話であるけれど、実はこの作品はそのあたりを意識的に明確に区別しているようにも感じた。

AVとしての直接的なシーンを全てカットした上で、普通の映画として観ても、やっぱりこいつら異常だよね、という感想は持ちうると思う。登場する人たちの言動の大半が、一般的とされる常識や良識などおかまいなしだから、たとえ性的シーンが一切明示されなかったとしても「生理的に無理」って人はけっこう多いんじゃなかろうか。この作品の魅力は、ひとえにそういうぶっとんだところにあると思うのだけど、ダメな人はまったく受け付けないだろうなというのもよくわかる。
もうひとつ見どころをあげるなら、冬の空気感かなあ。早朝の新宿や夜の山中湖など、各地各時間のピンと張り詰めた空気が伝わってきて気持ちいい。たとえこの作品の全て(ストーリィや登場人物のセリフ含め)が完全なフィクションだったとしても、この空気感だけはドキュメンタリーでしかありえないだろう(意外に普通の劇映画でもここまで出ないと思う)。というかこの作品を「ドキュメンタリー」だと観客に信じさせている根拠の半分以上は、おそらく背景の空気感にあるのではないか。

リニアの駅

朝日新聞デジタル:リニア中間駅は奈良 JR東海「京都だとカーブきつい」
http://www.asahi.com/articles/ASJ6865HLJ68OIPE02F.html

山田京都府知事はどうしても京都市に持って来たいようだけど(京都経団連の意向が大きいと思うけど)、むしろ府最南端を活性化させる大きなチャンスと捉えられないのかなあ。奈良市だったら京都府にも隣接してるんだし、学研都市とか木津あたりの再開発を含めて京都にとっても歓迎すべきことだと思うんだけどな。なんでもかんでも京都駅につなげようとしても、現状キャパ的にも無理があるのでは。
昨年、高速道路がつながって府の南北が近くなったことでもあるし、今は京都市よりも周辺の市町村に力を注ぐ方が、長い目で見て得策じゃないかと思うんだけどねえ。
それよか京都駅の案内表示の多言語化をはよ。新幹線ホームなんて英語表記すらほとんど見かけないぞ。アレでどこが国際観光都市なんだか。



ま、要するに『東京一極集中』を解消するため文化庁京都市に誘致したその舌で、すでに新幹線が通っているにもかかわらずリニアも誘致しようとしているその根性が気にくわねえ、ってことなんだけどね。京都府京都市一極集中しませんってのを明確に態度で示すべきだと思いま〜す♪