ラサへの歩き方

2015年中国映画/チャン・ヤン監督作品

いちど映画館に足を運ぶと近日公開のチラシや予告編なんかで新しい作品を知り、それを観に行くとまた新しい映画が…ということで、ここんとこほとんど毎週のようにどこかしらの映画館に出向いている。この作品のチラシを手にしたのは『Song of the SEA』の時だったか『パコ・デ・ルシア』の時だったか。単館系の映画は期間も短いしほとんどが一日一回限りの上映なので、見逃してしまうことも多いのだが、これだけはどうしても観ておきたかった。京都での上映はみなみ会館で、本日封切りだからだろうか、150席ほどのハコにだいたい三分の一くらいは埋まっていたように思う。

(主にアニメなどの)フィクション作品の舞台となった場所を巡ることを指して「聖地巡礼」などというのは、今では一般新聞なんかも使っているけれども、そもそもは宗教用語であるはず(なので「舞台探訪」という言葉を使う人も多いし、わたしもその方が正解だと思う)。本作は、チベット仏教の聖地ラサ、そしてその先に聳える聖山カイラス山への2400キロにも及ぶ巡礼の旅を、ほとんどドキュメンタリーのように描いている。
ドキュメンタリーではないことは、たとえば時に壮大に、時にドラマティックにと自在に変わるカメラアングルからもわかるし、巡礼者のひとりが妊婦で(!)途中で出産したり、もうすぐ最終の地に到着というところで最長老が亡くなったりするという風な「できすぎた」ストーリィからでも察せられるだろう。しかし、この映画は過剰な演出(たとえばBGMを流したりという風な)は一切排除し、巡礼者個々人の内面にも過剰に寄り添うことをせず、ただひたすら五体投地をしながら進むという行為を延々と捉え続ける。そして、ただそれだけで、ひときわ壮大な—生きるとはどういうことか、とか、人生の意味とは、のいうようなものまで—メッセージを投げているのだ。
凄い映画だなあ…と、エンドロールが流れている間、ずっと感慨にふけっていた。

ドキュメンタリーではないと書いたが、しかし、この映画はかぎりなくドキュメンタリーに近いスタンスで制作されたものだろう。あらすじこそ実にシンプルなもの(聖地巡礼の旅)だけど、ディティールは実に複雑かつ豊潤であり、とてもじゃないがひとことでは言い表せない。写し出される風景はものすごく美しく、同時にものすごく過酷であり、登場人物たちの表情や動きはたまらなくエレガントだ。登場人物はみな職業的俳優ではないそうだが、凡百の演技者では出せそうもない日常生活のリアリティや信心の奥深さをうまく引き出し画面に定着させた監督の手腕はすばらしいし、実際にカメラを回すまでに彼らと深くコミュニケーションをとり信頼関係をしっかり築き上げていただろうことも容易に想像できる。


しみじみと、いいものを見せていただいた。感謝。


【2017年4月30日追記】
祝・日本盤DVD発売!ということで、早速手に入れて視聴。正直なところ、京都みなみ会館のスクリーン&音響は今どきのレベルでの高精度を誇るというものではなく、劇場で観ているあいだ解像度の粗さあたりはちょっと気になっていた。DVDを家庭用テレビで再生したところ、少なくとも画面はくっきりと鮮やかで、映画館よりもかなり繊細な印象を受けた。まあ、とはいえ、やはり映画は映画館で観るものである、という考えに変わりはないのだけれども。それに、ひたすら目の前の画面に集中するしかない環境という点で、やはり映画館という専門のスペースは重要だろう(自宅に専用のホームシアターを構築するようなマニアならまた別かもしれないが)。
この映画のような、フィクションでありながらドキュメンタリーでもあるという独特な作品は、こちらもひたすら集中して鑑賞するのがなによりふさわしいし、それなりに「態度」が求められる密度がある。
とはいえ、一種の環境ビデオとして、ずっと流しっぱなしにしていてもいい映画かもしれないとも思う。やたら扇情的に盛り上げるBGMのたぐいが一切ないところなんかもその理由のひとつとして挙げられよう(それでいて物語の展開はけっこうドラマティックなんだけど)。

とまれ、<いいものを見せていただいた>という初見時の感想になんら変わりは無い。改めて、感謝。

SULLY

2016年アメリカ映画/クリント・イーストウッド監督作品

外国映画の邦題にセンスがないとかなんとか、定期的にネットでも話題に上ることがあるけれど、この映画の場合は『ハドソン川の奇跡』という邦題以外にいいタイトルは思いつかない。つーか、この原題で観に行こうと思えるのは事故のことをよく知っていた人くらいじゃないのか。

2009年1月、ニューヨークで起こった実際の飛行機事故を題材にした映画。バード・ストライクによる両翼エンジンの停止、近くの空港に戻ることもできずに飛行機はハドソン川に緊急着水。1月の厳寒下、乗客乗員あわせて155名はひとりの死者を出すことなく全員無事救助された。当時の関係者はみな今も生きているし、当時副機長だった人などいまだ現役のパイロットだ(エンドロールによれば着水後の救助隊員などで“本人役”で出演している人も多い)。パンフレットのスタッフ/キャストインタビューなどを読む限り、この映画は実際に起きた出来事を可能な限り忠実に再現していて、メロドラマ的な脚色は一切行っていないという。
だから飛行機事故シミュレーションとしてとてもよく出来ていると感じたし、あの事故をここまで再現できる映画表現ってすごいなあとも思った。
最後まで沈着冷静な態度をとり続けた機長もすごいが、物語の上で敵役となる調査委員会の面々など、主要登場人物のほとんど全員が「その道のプロ」である。敵役とはいえ理不尽で意味不明な存在などではけしてなく、事故の真相を究明する上で絶対に必要なプロセスに過ぎないのだけれども、40年以上にわたるパイロットの「一瞬の判断」をそれこそ重箱の隅をつつくように執拗に追求しつづけるのは、いち観客が観ていても精神的にかなりキツイ。わたしなんぞには到底つとまらない職業なんだなあと思った。

やたら泣き叫んだりやたらBGMが盛り上がったりするような、過度な演出は一切ない。淡々と、それでいて緊迫感が途切れることなく、約1時間半というコンパクトな尺で収めた作り方もまた、登場人物たちと同じように「その道のプロ」の仕事だろう。どんぴしゃで自分好みのドキュメンタリータッチで、いい作品を観たという満足感に浸れる映画だった。

パコ・デ・ルシア 灼熱のギタリスト

2014年/スペイン映画/クーロ・サンチェス監督作品

パコ・デ・ルシアの名前をはじめて聞いたのは—おそらく多くの日本人がそうであるように—アル・ディ・メオラジョン・マクラフリン、そしてパコとのユニット<スーパー・ギター・トリオ>だった。地方都市のギター好き高校生の間でさえライブ盤LPレコードの評判はよく知られていて、なにせそんじょそこらのロックギタリスト以上の熱気と超絶技巧の早弾きがレコードのそこかしこに充満していたのだから、誰もが夢中になるのは当然だった。アル・ディ・メオラパコ・デ・ルシアのどっちが凄いか、などと目を輝かせながら語り合っていた記憶がある(当時のアルは、チック・コリアのリターン・トゥ・フォーエバーの参加などで、日本ではパコよりも知名度があったはずだ)。

本作は、パコの長男であるクーロ・サンチェスが2011年から撮り始めたドキュメンタリー映画。2014年に主役が心臓発作のため急逝するまでに自身の生涯を語ったインタビューをもとに、過去のテレビ出演やライブの様子など、豊富な映像を使って構成されている。

衣料品販売のかたわらセミプロのフラメンコ・ギタリストとしても活動していた父親をもち、幼い頃から音楽への才能を見せていた。父親はパコの兄にギターを教えようとしたが、横で聴くだけだった弟の方が覚えが早かった。父親の演奏でリズムがずれている箇所を即座に指摘するなど、リズム感は天性のものがあったという。兄の方は歌手になり、未成年ながら兄弟であちこちで演奏しはじめる。
ギターがなければ自分の殻に閉じこもったままだった、と彼は言う。彼以上に無口で内向的だった歌手カマロン・デ・ラ・イスラのことを「天才だ」と評するが、自身のことは天才ではなく努力の人だ、としている。幼い頃からリズム感は素晴らしかったが、メトロノームを使い正確なリズムを刻むべく努力したのだ、とも。

フラメンコではじめてジャズのような「即興演奏」を試みた。今ではフラメンコになくてはならない楽器となったカホンをはじめて取り入れたのもパコとそのグループだった。そのようにして伝統的なフラメンコ界に次々と革新的な試みをもたらすものだから、保守的な層からは「あれはフラメンコではない。ただテクニックだけだ」などと糾弾されてきた。そんなネガティブな評価も、フランコ独裁政権が終わる頃にはほとんど聞かれなくなってゆく。



多少の前後の入れ替えはあるものの、映画は基本的には生涯を時系列に沿って追ってゆくので、おおむねわかりやすい作品ではある。しかし、スペイン近現代史のアウトラインだけでも頭にあると、なお良いかもしれない。もちろん、フラメンコ史や偉大な先人たちの功績を知っているとさらに楽しめるはずだ。そのあたり、わたしにはかなり曖昧な知識しかないので、もうちょっと予習しておきゃよかったなあ、と思ったが。たとえば、パコのドキュメンタリー映像であればパコの本名である『フランシスコ・サンチェス』というタイトルの2枚組DVD(日本盤はユニバーサル/UCBU-1004/5、2003年)を持っているのだが、ちゃんと観ないまま長い間ほったらかしになっていたのだ。帰宅して、いま、それを観ながらこれを書いているんだけど、さっきまで観ていた映画とは全く違うアプローチで作られていて(たとえばメキシコでの暮らしぶりなどもたっぷり描かれている)、たいへん面白い。

ともあれ、繊細で職人気質とも言えそうな人となりが存分に描き出されているだけでも興味深いが、やはり演奏場面の映像はただただ圧倒されるし、エロティック、とさえ呼びたいほどの音色にうっとり浸っていられるだけでも至福である。

むかしばなし

遠い遠い、昔の思い出。





映画『聲の形』で聴覚障害者についていろいろ話があるようだが(映画に字幕がないこととか)、わたしがごく個人的に思い出していたのは、また別のことだった。不幸な事故により下半身不随になり車椅子生活を余儀なくされた方が大学時代にいたけれども(年齢としては先輩だけども学生としては同級生になり、家もわりと近くだったのでしょっちゅうつるんで遊んでた)、それとは別の、もっと昔の話。


小・中学校時代、障害者だけのクラスがあった。当時は「特殊学級」という呼び名だった。今ではそんな露骨なネーミングはしないと思うが、当時は身体障害者も含む「知恵遅れの子どもたち」のクラスとして一般的だった。
そこの生徒たちを敬遠する連中はたくさんいた。というか、クラスメイトの母親たちからして「特殊学級の子どもたちには近づかないよう」にしていた節があったように思う。「我が子のクラス」と「特殊学級のクラス」とは違うんだ、一緒にしないで欲しい。そんな空気感が、目に見えないところで漂っていたように思う。

別に自分のことを特別視するつもりはないが、わたしはそういう空気はあまり気にせず、しょっちゅう「特殊学級」の部屋に遊びに行っていた。おもしろい絵本なんかがその教室だけにあったから、それを読みたかったってこともある。

そんなわたしのことを、まず最初に気にしていたのは担任の先生だった。「知恵遅れの子」を「いじめ」たり「からかい」に来ているのではないか、という警戒心だ。特殊学級担当の女性教師から面と向かって「キミは何しに来てんの」と言われたことも何度かあった。
はあ。まあ。などと曖昧な受け答えをしつつ、そのクラスの子たち(おなじ教室に同級生もいれば下級生もいる)と一緒に絵本を読んだり、簡単なゲームをしたりして楽しく遊んでいた。

これは天に誓ってもいいが、当時のわたしがそこにしょっちゅう出入りしていた理由は、単に自分が「楽しかった」だけあり、同情心や優越感を抱くため、ということなど露にも思わなかった。あとで(担任の先生を含め)回りからそういう意味のことを言われてびっくりした。担任から親へなにかしら伝えられたんだろう、あるとき母親から「特殊学級に遊びに行っているそうね」と言われてひどく驚いたことも覚えている。そのときも「だって面白いもん」と答えたはずで、なぜそんなに回りが大げさに問題視しているのかは、さっぱり理解できなかった。


九九がわからないから教えて、とか、ひらがながうまく書けないとか、放課後の「特殊学級」の同級生/下級生たちにはずいぶんいろいろ相談を受けていた。へえ、そっかー、と言いながら、わたしはそれなりに一所懸命彼ら/彼女らと向き合い、というかものを教えるほど出来ている子どもでもなかったから、ただただ一緒に遊んでいただけだった。

転機が訪れたのは卒業も近くなったある秋のことだった。
わたしにしょっちゅう懐いていた下級生の女の子と、たまたまふたりきりになる瞬間があり、いつものようになんか本でも読もうか、と学級文庫に手を伸ばしそうになったとき。
急にその子がうんと顔を近づけてきた。
「キスしてもいいんよ」と彼女は言った。
このとき、彼女はもっと卑猥でもっと性的なことを言ったような気もする。しかし、中学生のわたしにとって、それはあまりに唐突すぎ、あまりにオトナすぎた。

「やめてえや」近づいた彼女をどんと突きとばした。「そんなんやないし」

少しばかり沈黙が続いた。やがて教室に第三者が戻ってき、それをきっかけに、とりあえずはいつもの雰囲気になった。
しかしわたしは、それからあの教室に行くのが怖くなり、避けるようになった。

卒業式の日だったかその直前だったか、「特殊学級」の担任の女先生に呼ばれ、<あの日>のことを謝罪された。あのあと彼女はすごく後悔していて。私からも、あなたにも悪いと思っている。そんな風な言葉だったろうか。卒業前にもういちど、あのクラスに行ってくれないか。そうも言われた。

そこまで言われて、特に断る理由は思いつかなかった。わたしは懐かしのあの教室に行って、僕はもう卒業やけどみんな元気でね、みたいな当たり障りのないことを言って、そそくさとその場を去った。



…一生懸命思い出したけど、わたしの記憶は以上だ。もちろん、以上の記述は、自分の都合のいいように記憶を改変している可能性は大いにある。当時の自分に「障碍者」にたいする差別心や、そこまでいかなくとも『面倒くささ』や『しんどさ』をまったく感じていなかったかと問われれば、返す言葉はない。自分としてはそういう気持ちを抱いたことはけしてなかったと思うのだけれども、それは「今になって当時の自分を振り返って」のことだろうと問い詰められたら言い返す自信はない。
しかしあのとき、わたしが思ったのは「女ってこええな」であり、「通常学級」の子より「特殊学級」の子の方がよりダイレクトで「こええな」であり、いきなり性的な結びつきを求められても対応出来ない自身の幼さを突き付けられた感があり、というか性の目覚めって女の子の方がはるかに上を行ってるんだという怖さでもあり。数十年たった今でも、あのときの「事件」は自分の中でどう消化していいのか、実はよくわかっていなかったりもする。十二分におっさんになった今では、キスのひとつくらい別に減るもんじゃなしブチューってやっちまえじゃいいじゃん、などと思ってしまったりするんだけれど、やっぱそれは違うんだろうな。
 
   

中高生時代の性的な憧れやら未熟さってのは、昔も今もそんなに変わっていないんだろう、と思う。

高校時代に下級生の女の子連中がいわゆる「援助交際」で中退していたり、小学生時代にものすごく優等生だった女子が中学〜高校のあいだにヤクザの情婦になったとかなんかで同級生男子のあいだに激しい動揺が走ったとか、まあ思い起こせば実にいろんなことがあった。携帯電話やインターネットはおろか、ポケベルさえ発明されていなかったはるか昔の話である。



ま、いつだってヤる奴はヤってるし、モテない奴はどんな時代だってモテてねえ。男と女って、そんなもんだよな。

超高速!参勤交代リターンズ

2016年/本木克英監督作品

2014年に公開された前作『超高速!参勤交代』も観に行ってるが、クライマックスのド派手な大立ち回りが気に入らず、ここで感想文も残していない。肩の凝らない娯楽映画とはいえ、あそこまで無茶な展開にする必要があったのかなあ、などと当時思っていたものだ。

それでなくてもヒット作の続編、しかも、最初から計画されていたわけではなく前作の商業的成功を受けて急遽企画された映画となると、むしろがっかりすることの方が多いんじゃないか。そう思いながら劇場に向かった。

もともと<ハイ・スピードで目的地に向かうハメになった男達の七転八倒>というアイディアの面白さは、ほぼ前作で語り尽くされている。なので今回は、前作の敵役であった老中松平信祝の悪役ぶりを大幅にスケールアップさせている。結果、参勤交代のあれこれは完全にワキに追いやられ、勧善懲悪ものの痛快時代劇に変貌したが、この方向転換は正解だろう。前作で大活躍した面々がふたたび結集し、前作以上の一致団結ぶりを見せる、というだけでちゃんとエンターテインメントになっているのだ。
前作以上にギャグも多く、また殺陣のアクションもかっこいい(控えめながらちゃんと血しぶきも飛ぶ)。絶体絶命のピンチを切り抜ける奇抜なアイディアも楽しい。内藤の殿さまが敵方に取り囲まれる場面がふたつみっつあって、その「逆転勝ちの方法」がいずれも似たような展開だったのだけがいくぶん惜しまれるけれども。
2時間というたっぷりと時間を使う映画なので、テンポは必ずしも早くはない。もっと脚本を刈り込んで90分くらいに収めた方が…とも思ったけれどもどうなんだろう。

ともあれ、娯楽映画として、個人的には前作以上に楽しめた。やっぱチャンバラは楽しいな。

聲の形(こえのかたち)

2016年/山田尚子監督作品

原作は(最初の短編含め)いっさい未読。そっか、これ、少年マンガが原作なんだよな。西宮さんというより、なにより石田くんの救済の物語だったんだ。


17日の舞台挨拶パブリックビューイング付き上映会に出かけた。わたしが行った会場では、上映直前に完売・満席になった。満員の映画館なんて何年ぶり、いや十何年ぶりになるのかな? 今でこそたとえば『君の名は。』なんかは毎回満員御礼だというが、あの作品でさえ、封切り直後にわたしが行った時はまだまだ空席の方がはるかに多かったから、今回のようにぎっしり埋まった客席に埋もれて映画を観ること、それ自体が実に新鮮だった。中高生と思われる若い女性客も多く、それだけ期待されていた映画化だったんだろう。


公開直前に、ネット上にたくさん露出された監督やキャストやスタッフインタビューのたぐいはほとんど読んでいたし、原作漫画が描かれた際の評判なんかも少しは目にしていたので、まったくなにも知らずに物語に接した、というわけではない。とはいえ具体的なエピソードやあらすじの展開なんかは全然知らないので、これ、どういう結末になるんだろうと、終始ドキドキしながら観ていた。
上映中ずっと、こういう映画って、昭和の昔ならきっと小説が原作で、映画化も実写になっていたんだろうなあ、とも思った。このストーリーがまず漫画で描かれ、それをアニメーションとして映画化する、そのこと自体がふた昔ほど前ならまず考えられなかったことなのかもしれない。たとえば実写映画であるはずの『シン・ゴジラ』がアニメ監督によるアニメの文法で制作されていることと、『聲の形』がいわゆるお約束的なアニメの文脈には則っていない作り方をされていることは、ともに2010年代の映像作品としてなにか通底する部分があるのだと思う。
その流れで言えば、ヒーロー/ヒロインはじめ主要な登場人物たちがそれぞれ長所も短所もある、等身大に近い人物として造形されているのもとても<現代っぽい>と言えるのかもしれない。欠点というかネガティブな面が描かれていない人物っていうと、主人公の母親くらいだろうか? あ、「親友」である永束くんもわりと<高校生男子でここまでイイ奴、いるかあ?>とか思ったけど。
そういう、主要各キャラクターのネガ面も丁寧に描出しつつ、しかし映画全体としては暗くなりすぎず、また重くもなりすぎずに見せているのは脚本ならびに演出の力と言えるだろう。実際、けっこう笑える場面が随所に差し込まれていたのには感嘆したし、各キャラクターのネガティブなところも単に物語の展開上の<嫌な役どころ>という記号ではなく、自分にだってそういう部分はいっぱいあるよね、という共感を得られる描き方をしているのがすばらしい。


 
タイトルからも察せられるように<音の映像化>が本作の主題のひとつでもある。そういう意味では、この作品は「劇場という特殊な空間」でこそ鑑賞すべき映画でもあるはずだ。単にストーリーを絵解きしました、というのではなく、画面の隅々、あるいは表現されている音のひとつひとつにまできちんと意味を持たせている、そういう映画だ。それでいて難解なところはなにもなく、初見であるわたしですらちゃんと感動できるし、エンターテインメントとして楽しめる。まあ、あえて言うと、脇役として出てくる何人かは原作を知らないゆえ少しばかり唐突な感じもしたんだけれども、それは映画全体を損なうものではなかったはず。
ライブビューイングで観た監督の挨拶で、「繰り返し観て貰える強度を持たせた」という意味の発言があったと記憶している。その言葉に偽りはない、と思った。

SONG of the SEA

2014年/アイルランドルクセンブルグ・ベルギー・フランス・デンマーク合作/トム・ムーア監督作品
 
アイルランドの伝説をベースにした物語。絵も音楽も素晴らしく、93分間があっという間だった。


日本製のアニメーションは、これは最近の流行なんだろうけれども、実在の土地・場所をこれでもかと美しく精密に描く美術が特徴だ。それはそれで観ていて圧倒させられるし、いわゆる「聖地巡礼」の楽しみもあるんだろうけれども、そういう作品ばかりだとちょっと胃もたれしてしまう。その点、この作品のアートワークはまさにどんぴしゃで好みだった。絵本がそのまま動き出したような、と表現するのがいちばんふさわしいだろうか。一方で、実験的なアート・アニメーションにありがちな難解さはかけらもなく、登場人物の動きなんかは日本のアニメ風でもあり、とてもわかりやすい。パンフレットによればトム・ムーア監督はスタジオジブリなどをずいぶん研究したらしく、少なくとも影響下にあることは間違いないだろう。
キャラクターデザインはいかにも子ども向けという感じだけれども、主役である幼いシアーシャがときどき髪をかき上げる仕草があって、そこがなんとも色っぽかった(たしか3〜4回でてきたはず)。静止画で見るのと映画館で動きがついたのを見るのとで印象がこんなに変わるのか、と驚いた。芝居も丁寧だし、静と動のメリハリも非常に効いている。


物語はハロウィンの一夜がメインとなる。ここ数年、ハロウィンというとただの仮装パーティーみたいな扱いを(日本では)されがちだけど、ここでは人間と精霊が触れあう大切な日として描かれている。このあたりの感覚はさすがアイルランドと言うべきだろう。
もうひとつ、この作品は「うた」や「物語」が伝承されていくことの大切さを描いた映画でもある。母から子へ教え継がれるうた、精霊シャナキーが語り継ぐ物語。そのひとつひとつが、どれも深い慈しみをもって表現されているのだ。音楽を担当しているのはキーラで、これがまた泣かせます。アイリッシュ・トラッドファンにはおなじみの楽曲(『Dulaman』)が出てきたときには、思わずにやにやしてしまった。しかも物語のなかでけっこう重要な契機となるうただったりするし。


字幕版で観てすっかり満足したんだけれども、吹き替え版も実はちょっと気になっている。もういちど劇場に足を運ぶべきか、きっと販売してくれるであろうブルーレイを待つ方がいいか…いや、出るのかなあ。
トム・ムーア監督の第一作は「ケルズの書」をモチーフにした『The Secret of Kells(2009年)』だそうだ。日本では映画祭などのイベントで何度か上映されたらしいが、わたしは未見。アマゾンをのぞいたら米国盤BDがあったので思わず注文してしまった。たぶん言葉はなにひとつ聞き取れないと思うけど、まあいいや(笑)

君の名は。

2016年/新海誠監督作品

新海作品というと『言の葉の庭』がネットでの評判がよかったので、昨年だったか一昨年だったかにDVDを買い求めたことがある。しかし、帰宅して大いにわくわくして見始めたものの、あまりに陰気くさいハナシだったので最初の20分くらいで止めてしまい、実はいまだに最後まで見ていない。風景描写もふくめてたいへん繊細な作風であることはわかったが、これは作中世界に存分に没入できる、映画館という環境でこそ見るべき映画なんだろうなあと思ったのだ。なので新海誠の映画は、これまで“なにひとつ”観ていない。
いつだったか、映画館でこの作品の短めの特報を見たときは、「男女入れ替え」の「すれ違い」の恋愛映画だろうと見当をつけた。切なく甘酸っぱい青春ラブコメ(主役は二人とも高校生のようだし)かあ。まあ王道だよね、と。
その後、少し長めの予告編を、これまた別の映画館で見た。そこでは最初に見た特報と違って「早くしないとみんな死んじゃう」とかなんとかいうセリフや、いかにもクレーターの跡っぽい画像が出てきて、頭の中がハテナマークでいっぱいになった。なんだこれは? ひょっとしてハードSFなのか? ひとむかし前に流行った<セカイ系>なのか? で、実はこの段階でなんだかつまんなさそうだな、と思ってしまったのだ。
とか言いながらもやはりどこかで気になっていたんだろう。結局、公開早々に劇場に駆けつけた。




…びっくりした。こんな映画、こんな物語だったのか。すごいなあ。
ものすごく濃密というか、話が二転三転していくジェットコースタームービー。とてもひとことで要約できないストーリー。なのに、上映時間は1時間47分。シン・ゴジラよりも短いぞ。つまりは脚本と構成の妙に、まず圧倒させられたのだ。
青春もののオリジナル作品としては、特報で予告していた「見知らぬ男女の入れ替え」というアイディアだけでたぶん一本の映画として成立するはずなのだけど、そこから話が大きく膨らむ過程が素晴らしかったし、すれ違いのふたりが出会う必然性もその大きな舞台装置の中でしっかり生きている。エンディングはひとつの物語の終わりと言うよりも、むしろここからふたりの物語が始まるんだという幸せな予兆に満ちていて、ぐっとくる。
公式ビジュアルガイドに掲載の監督インタビューだったか、「いまさらジェンダーの差異で話はつくらない」という意味の言葉があった。なるほど、わたしなんかが最初に予想していた<甘酸っぱい青春ラブコメ>路線ははなから作るつもりではなかったということか。思春期の男女の身体が入れ替わるという大事件ではどうしたって避けられない<ジェンダーの差異>表現は、劇中ではなんとかうまく(露骨になりすぎない程度に)やりすごしていたように思った。ホントにあんなことになったらもっと生々しい問題で大変なはず、というかまずまっさきに病院に行くよね、ていうハナシなんだけど、そこいらへんは上手に回避している。このへんは脚本が大変だったんじゃないかなあ。しかし<ジェンダーの差異>が映画の主題ではないとはいえ、男女が入れ替わるからには登場人物はその差異はきちんと見せなければ話にならない。入れ替わっているあいだの細かい仕草やセリフの言い方などは、その差異を芝居として丁寧に表現していて、そこも見事だった。

新宿や四ッ谷あたりの実在する東京という都市と、飛騨地方という言及はあるもののまるきり架空の街である糸守という町。そして三年というタイムラグ。時空間のまったく違う場所に生きている男女ふたりがどこでどう交差するのか。そのための仕掛けが1000年に一度の彗星群というわけなんだけど、ちゃんと説明しようとするとあまりに複雑で、けれども映画を見ているあいだはそんなことは全然気にならなかったので、やはりこれは脚本と演出の巧さというべきなんだろう。あ、そういう意味では「時をかける少女」ぽくもあるかもしれない。
——夢の中で現実とは違う世界を生きている、という夢は、実はわたしもよく見る。さすがに自分自身が異なるジェンダーで登場したことは一度もないし、まったく見たこともない風景に囲まれたこともないけれども(見覚えのある風景がちょっとずつ違っている、という感じ)。けれど「違う人生を生きている自分」ということ自体には、個人的にはほとんど違和感はなかった。
とはいえ、誰もが必ず体験することでもないとは思うし(夢なんか見たことないって人も多いだろう)、だから設定としてはけっこう取っつきにくい世界観ではないかという気もする。そのあたりを、細密に描かれた作中の風景によってしっかり補填しているのがこの監督ならではなんだろう。なにせ、東京に住んだことのないわたしですら冒頭すぐに「あ、新宿だ」とわかるくらいには<リアル>なのだし。



これだけの大がかりなフィクションをこれだけコンパクトにまとめている映画なので、ストーリーを細かく分析していけばたぶん無理矢理だなあというところもたくさんあるんだろうとは思う。けれども、少なくともまったくの初見で映画館に坐っていたあいだはそんなことは全然気にならなかったし、映画のクライマックスと導入部分がつながったところで、ああこれは最初からもういちど見直さなきゃとも思ったので、作品としては大成功なんだろう。とりあえずDVDが出たら絶対買うつもりだし、ずっとほったらかしにしていた『言の葉』を、今こそちゃんと見てみようかなとも思った。




【追記】
↑を書いてから某掲示板を覗いてみたら、主にタイムパラドックスに関する矛盾点がたくさん突かれていて笑った。なるほどなあ。確かに、お互いの関係に3年の時差があるってのを主役ふたりとも全く気付いていなかったというのは、かなり重大な指摘だと思う。スマホの日記アプリを介して連絡しあっていたからには、日付っていうのはいちばん最初に気付くべき事項でもあるはずだろうし。それと、日本にとって国難とも言うべきあれほどの大事件について、映画の前半部分で全くといっていいほど触れられていないのも。
言われてみればどの指摘も映画を見ている最中に少しばかり頭をよぎったことばかりだし、そのへんを気にし出すと映画本編が楽しめないのもよくわかる。
けどまあ、そーゆー<ご都合主義>ってのは昨今の映画には(洋画・邦画ともに)よくあることだしぃ、てな感じでスルーしてもいいんじゃないかなぁ。…って、甘すぎ?

桃太郎 海の神兵/くもとちゅうりっぷ

デジタル修復版ブルーレイディスク購入(松竹/SHBR-0384/2016年)。
アニメーション作品としての完成度の高さだけは古くから良く知られていて、ただ太平洋戦争中の国策プロパガンダ映画だったため長らく一般の目に触れる機会がほとんどなかった「桃太郎 海の神兵」。わたしが観たのは1980年代半ばごろだったかと思う。調べれば正確なことが書けるんだろうけど、とりあえず今は記憶だけをたよりにする。映画会社の倉庫からフィルムが発見→解説付きで全国各地の(映画館ではなく)市民会館とか大学の講堂みたいな場所で限定公開、みたいな流れだったかと思う。京都市内の、どこで観たのかまでは記憶にないけど、京大の講堂みたいなところだったか、府か市の施設だったか。いずれにせよそこそこ公的な場所で観たはずだ。昨年亡くなられた今江祥智さんが観客として来られていて、嬉しそうにしてらっしゃったのだけは鮮明に覚えている。
その時も「神兵」「ちゅうりっぷ」の二本立てだったはずだ。個人的にはわたしは「くもとちゅうりっぷ」目当てで、1時間以上もある大作「神兵」の方は半分うとうとしながら観ていた。古いフィルムだからキズもものすごく、また会場も映画を専門に見せる部屋ではないから音もよくない。セリフだって聞き取りにくく、わざわざ観に行ったにもかかわらず「早く終わらねーかな」などと思いながらその場にいた。

それ以来すっかり忘れていたんだけれども、このたびデジタル修復版が出るというので思わず購入。いま再生しながらこれを書いている。
修復版だから当然なんだけど、キズ・ノイズの全く無い画面は不思議な感じがする。モノクロ映画だけれどもにもかかわらずカラフルな印象を与えるのはアニメーションならでは、と言っていいんだろうか。
画面の手前から奥、あるいは下から上へ。遠近感を強調した躍動感のあるカットが多く印象に残る。登場人物は主役の桃太郎を除けばほとんど動物ばかりなんだけど、四足で駆け抜けたと思えば次のシーンでは擬人化された二本立ちで歩き回るなど、自在なアニメーションぶりが楽しい。



「くもとちゅうりっぷ」は「神兵」以上に画面が鮮明になっていてびっくりした。かつて観たときはほとんどディテールがわからないくらいに荒れた画面だったんだけどなあ。よくぞここまで修復したものだ——とジャケットを改めて見てみたら、こちらは<デジタル復元版>となっているのね。まあ、修復ならぬ<復元>というのは納得だ。これが見られただけでも買って良かった。それにしてもテントウムシ少女のなんともコケティッシュなことよ。
この映画をつくった政岡憲三については、本ディスク解説も書いておられる萩原由加里さんの著書「政岡憲三とその時代 「日本アニメーションの父」の戦前と戦後」(青弓社/2015年)に詳しい。買った当時ざっと読んだきりだったんだけど、これを機会にもういちど読み直してみようっと。

ちなみに、ディスクにはいわゆる特典映像的なおまけは一切ない。デジタル修復の技術的な解説とか、5〜10分程度でいいからちょっと見てみたかったところではある。

シン・ゴジラ

2016年東宝/監督・特技監督樋口真嗣/脚本・編集・総監督=庵野秀明
 
わたしがゴジラ映画を映画館で観るのは親にねだって連れて行ってもらった小学生以来だから、ン十年ぶりになる。大人になってからDVDで観たのは1954年公開の初代版と、ローランド・エメリッヒが監督した1998年版の二作のみで、どちらも映画館では観ていない。子ども時代に観たのはたしかモスラかなにかが出てきた記憶があるんだけれども、正確な作品名などはまるで覚えてない。
ついでに言うと、わたしはエヴァンゲリオンすらちゃんと観たことがない。樋口監督・庵野監督両名とも、名前こそ見知っているものの、その作品を観るのは今回がおそらくはじめてとなるはず。登場人物の顔のアップが頻繁に出てくる独特のタッチは、どちらの監督の演出手法なんだろう?


初見の感想としては、これは怪獣映画というよりディザスター映画と呼ぶ方がいいのかもしれない、というものだった。平和な日常が突如現れる謎の巨大生命体によって徹底的に壊される。立ち向かうすべさえわからない絶望感。そういう意味では、わたしの好きな映画『クローバーフィールド』(2008年/マット・リーヴス監督)を思い起こさせもした。ただ、あの作品のラストは途方もない絶望のまま終わったけれども、本作はとにもかくにも怪獣の活動を停止させることに成功し、明日への希望につなげている。とはいえ、そいつは「我々」ののど元に刃を突き付けたまま屹立しているわけで、この締めくくり方はたいへん現代的だと思う。
でもってこの映画、怪獣が暴れ回る以外の時間は、ほとんど関係閣僚会議なんである。このあたりは現実の日本に「想定外の災害」が発生した場合のシミュレーションを、それなりにリアリティを持って描き出そうとしているが故だろう。まあ実際はもっともっと混乱するんだろうけれども(株価の暴落といった日本経済の危機などは登場人物のセリフで触れるのみで、具体的な描写は無い。つまり、日本社会の混乱ぶりをそれほど強く描かないのは、最初から意図してやっているはずだ)。リアリティといえば、災害対策本部?らしき部屋が、最初はかなり豪華な設備なのにゴジラによって撤退を余儀なくせられ、立川に移転してからはしょぼい貸しビルみたいな部屋にパイプ椅子を並べて…というのもいかにもそれっぽかった。徹夜してカップうどんすすってるとか、何日も着替えてないとか、うん、このへん日本的でたいへんいい感じ。いかにも緊急事態ですって雰囲気も出てるし。
…といったリアルっぽいディテールと、一方で大風呂敷を広げた空想科学を一緒にやっちまうから、この手の映画は楽しいのだ。最後のゴジラを倒す作戦などは、現実的にはここまで鮮やかに成功するはずはあるまい。もちろんエンターテインメント作品なんだし、ここは成功しなくては終われないのだが。

日本製の特撮映画にそれほど慣れていないということもあって、ゴジラが都内各所を暴れ回るシーンは新鮮で面白かった。遠景としての大厄災もさりながら、ドキュメンタリータッチで撮影された大勢の人々が逃げ惑うシーンは大変だったんだろうなとか思いながら観ていた。避難シーンはCGじゃなくって実際にロケ撮影したもの? それともあれらも作り物の合成なんだろうか? 東京には住んだことがないしそれほど土地勘があるわけではないけど、ところどころ見知った風景がでてくるとやはりドキッとするもので、このあたりはやはり東京在住の人が観たらさらに面白いんだろうなあと思う。
 
作中、巨大生命体の名前を「Godzilla」と命名するのが米国(第一発見者である日本人科学者由来だけれど)というのも皮肉が効いていていい。ゴッズゥイーラ、という発音は難しいから日本じゃ「ゴジラ」と呼ぶことにしよう、なんてセリフも笑わせてくれる。日本とアメリカ、日本と国際社会、日本と国連といった現代世界への批評的視点を織り込んだ脚本、台詞回し、演出が、ちゃんとテーマとつながって作品のなかに生きているのが良かった。そうそう、こういうディザスター映画こそが、ずっと自分が観たかったものなんだよなあ。ここ数年ハリウッド製大規模災害映画をいくつかDVDで観ていてその度にもやもやしていた気分が、ようやく晴れた感じがした。

この映画はきちんと映画館で鑑賞できてよかった。ただ、わたしが観たシネコンは音響がかなりおとなしめだったのだけが不満だ。これこそ爆音上映会とか、近所でやってくれないかな。ゴジラの咆哮がずっしり響くだけで、緊迫感がいや増すはずなので。