神聖なる一族24人の娘たち

2012年/ロシア/アレクセイ・フェドルチェンコ監督作品
モスクワからおよそ640キロほど東にあるマリ・エル共和国。その独自の文化的特質をふんだんに取り入れたファンタジー…いや、ドキュメンタリー?…ではないな。「説話」とか「民話」という語の方がしっくりくるな。
映画の告知ポスターを見たのは今年の夏頃だったか、民族衣装を身に纏った女性たちのポートレート写真が並ぶお洒落なデザインに惹かれ、以来気になっていたのだ。内容とは関係なくこれは観に行かなきゃなるめえな、とすぐに思った。なにせロシア連邦内の少数民族ものなんて滅多に見る機会はないからだ。で、年末ぎりぎりになってようやく京都みなみ会館で鑑賞することができた。

邦題から、大家族のお話かと思っていたんだけど、そうではなかった。<一族>とは一家族のことではなく、マリ人というひとつの民族のことだった。帝国時代から長くロシアの支配下におかれていたが、マリ語はフィン・ウゴル系であり、宗教観や自然観なども独自のものがあるという。映画に登場する女性たちはすべて“O”からはじまる名前で統一されており、短いもので1分くらい、長いものでもせいぜい10数分くらいのさまざまなエピソードがひたすら続くという構成になっている。個々のエピソードが最終的にひとつにまとまるのかと思ってたけどそうではなく、しかしそれぞれの話の根底にはすべてマリ人たちの信仰や伝承がしっかりと根付いていて、それが映画の大きな幹となっている。
オチのついた笑えるエピソードも中にはあるが、大半は人生のほんの一瞬を切り取ったかのような詩的な映像で、中には語られるだけで劇中には登場しない女性もいる。エロティックなシーンが多めなのは「女性」を主役にしているからでもあるのだろうけれども、いくつかのエピソードで殺人/自殺あるいは死者が甦えるなど「死」が扱われていたところから、大きく「死生観」をテーマにしているがゆえなのだろう、と思った(ちなみに予告チラシやパンフレットには<ロシア版「遠野物語」や「アイヌ民話」のような>というフレーズがある)。

起承転結や勧善懲悪といったわかりやすいドラマはないが、しかしここにはもっと大きな<ひとがこの地で生きてゆくということ>という物語がある。雪深い新年から四季をめぐって次の冬まで、丹念に撮影された映像も美しい。全編を観終わってなんともいいがたい余韻が残る、いい映画だった。

【20171028.追記】
ブルーレイディスクが届いたので、およそ10ヶ月ぶりに見返した。理不尽な伝習や古い因習に囚われた人々の物語…という風に観ることもできるのだろうが、そもそも人間社会というのは別の文化圏から見ればはなはだ理不尽かつ不合理な暮らしを死守しているものだ。たとえばアメリカ合衆国が未だに銃の呪縛から逃れられないとか、あるいはわが日本でも、たとえば憲法九条を頑なに固守する層の存在を、摩訶不思議に思う人がいることだろう。外部から見ればほとんどギャグのような“神話”であっても、当事者にとってははなはだ切実な“現実”なのである…ということを、この映画は語っているのではないか。映画館ではじめて見たときには大いに笑っていたシーンの数々が、自宅のテレビで再見したときにはなんだかすごくしんみりしてしまった。昨今ダイバーシティとかなんとか言われているけれども、たとえばこの映画をどう評価するかってのは人によって大きく異なる、つまりはかなり大きな試金石になり得るのかもしれない。

この世界の片隅に

片淵須直監督作品/2016年
こうの史代原作の同題の漫画作品のアニメーション映画化として、封切り前から話題になっていた映画。公開初日の朝一番の回に出かけた。もともと上映館が少なかった(関西では梅田のシネルーブルくらいじゃなかったっけ)のだけれど、前評判の高さからか京都でも上映されたのは素直に嬉しい。イオンシネマ京都桂川の、わりと音響にこだわった部屋らしく、スクリーンもとても大きかった。幸いにしてど真ん中のかなりいい席が取れて、視聴環境としてはこの上ない。


後半、悲劇が起こる直前当たりからの<世界が変わってしまう>十数分間は、特に際立っていた。あの場面はおそらく映画史上に残るだろう、とまで思った。アニメーションならではの技法でもあるが、アニメだ実写だ特撮だという細かいジャンル分けはヌキにして、「映像表現」としてただひたすら残酷なまでに美しい。このパートを観られただけでも早朝から足を運んだ甲斐があったと感じた。

この映画は「説明」をほとんどしない。テロップとしては○年○月、という日付が入るのみ。ということもあって、登場人物の人間関係が少々わかりずらい。特に映画序盤は、小さなエピソードが次々に起きるので、なんだかよくわからいままだった。原作漫画ならいったん立ち止まってもういちど前のページを読み直したりできるんだけど、映画だとそれができないので、ちょっと置いてきぼり感があった。テンポがよい、といえばその通りなんだけど、序盤はもうすこしゆっくりとした描写でもよかったのではなかろうか。どんな映画/ドラマでもそうなんだろうけれども、冒頭からいきなり物語世界の中に没入させるためには相当な工夫が必要なんだと思う。じゃあこの映画の場合どうすれば良かったのかと問われると、途端に口ごもってしまうのではあるけれども。




 
(後刻追記)
あの戦争の時代を実際に生きていたわたしの老いた両親に自信を持って薦められるかどうか、と映画を観ながらずっと考えていた。残念ながら序盤のテンポの早さ/場面切替の多さには、たぶんうちの親はついていけそうにないな、と思った。なので、上では<少々わかりずらい>と評した次第。若い観客にはたぶんこのくらいのテンポでないと「間延びする」と思われるのだろうな、とも思うが。
実は監督はテレビシリーズ向きだと言っているそうで、それにはわたしも全く同感。この作品は2時間という短い枠ではなく、半年なり一年なり、それなりのゆったりとしたスパンで登場人物をじっくり描写するのが向いているのではなかろうか(原作漫画の連載がまさにそうだった)。ドラマが後半に向けてどんどんテンポアップするためにも、物語のはじめはともすれば退屈と感じられるほどのたっぷりとした「時間」が必要なのだと思う。

映画ができるまでの数々の困難、クラウドファンディングを利用してようやく制作に向けて動き出すことができた事実などは、公開前にたくさん出たパブリシティや(通常なら公開後に出版されるはずの)公式ガイドブックや絵コンテ本といったたくさんの関連商品を読んでいたのでもちろん知っている。なのでここでわたしが言っていることは、現実を無視したただの理想論ではある。
だが、空想ついでに言うけれど、今のテレビ界隈で半年かけて登場人物の成長物語に熱心に寄り添ってくれそうなのといえば、NHKの朝ドラくらいしかないだろう。主演女優つながりではないが、朝ドラ初の試みとしてアニメ「この世界の片隅に」を放送する、ってのはかなり面白い試みじゃないかと思うんだけど、どうだろう。

ラサへの歩き方

2015年中国映画/チャン・ヤン監督作品

いちど映画館に足を運ぶと近日公開のチラシや予告編なんかで新しい作品を知り、それを観に行くとまた新しい映画が…ということで、ここんとこほとんど毎週のようにどこかしらの映画館に出向いている。この作品のチラシを手にしたのは『Song of the SEA』の時だったか『パコ・デ・ルシア』の時だったか。単館系の映画は期間も短いしほとんどが一日一回限りの上映なので、見逃してしまうことも多いのだが、これだけはどうしても観ておきたかった。京都での上映はみなみ会館で、本日封切りだからだろうか、150席ほどのハコにだいたい三分の一くらいは埋まっていたように思う。

(主にアニメなどの)フィクション作品の舞台となった場所を巡ることを指して「聖地巡礼」などというのは、今では一般新聞なんかも使っているけれども、そもそもは宗教用語であるはず(なので「舞台探訪」という言葉を使う人も多いし、わたしもその方が正解だと思う)。本作は、チベット仏教の聖地ラサ、そしてその先に聳える聖山カイラス山への2400キロにも及ぶ巡礼の旅を、ほとんどドキュメンタリーのように描いている。
ドキュメンタリーではないことは、たとえば時に壮大に、時にドラマティックにと自在に変わるカメラアングルからもわかるし、巡礼者のひとりが妊婦で(!)途中で出産したり、もうすぐ最終の地に到着というところで最長老が亡くなったりするという風な「できすぎた」ストーリィからでも察せられるだろう。しかし、この映画は過剰な演出(たとえばBGMを流したりという風な)は一切排除し、巡礼者個々人の内面にも過剰に寄り添うことをせず、ただひたすら五体投地をしながら進むという行為を延々と捉え続ける。そして、ただそれだけで、ひときわ壮大な—生きるとはどういうことか、とか、人生の意味とは、のいうようなものまで—メッセージを投げているのだ。
凄い映画だなあ…と、エンドロールが流れている間、ずっと感慨にふけっていた。

ドキュメンタリーではないと書いたが、しかし、この映画はかぎりなくドキュメンタリーに近いスタンスで制作されたものだろう。あらすじこそ実にシンプルなもの(聖地巡礼の旅)だけど、ディティールは実に複雑かつ豊潤であり、とてもじゃないがひとことでは言い表せない。写し出される風景はものすごく美しく、同時にものすごく過酷であり、登場人物たちの表情や動きはたまらなくエレガントだ。登場人物はみな職業的俳優ではないそうだが、凡百の演技者では出せそうもない日常生活のリアリティや信心の奥深さをうまく引き出し画面に定着させた監督の手腕はすばらしいし、実際にカメラを回すまでに彼らと深くコミュニケーションをとり信頼関係をしっかり築き上げていただろうことも容易に想像できる。


しみじみと、いいものを見せていただいた。感謝。


【2017年4月30日追記】
祝・日本盤DVD発売!ということで、早速手に入れて視聴。正直なところ、京都みなみ会館のスクリーン&音響は今どきのレベルでの高精度を誇るというものではなく、劇場で観ているあいだ解像度の粗さあたりはちょっと気になっていた。DVDを家庭用テレビで再生したところ、少なくとも画面はくっきりと鮮やかで、映画館よりもかなり繊細な印象を受けた。まあ、とはいえ、やはり映画は映画館で観るものである、という考えに変わりはないのだけれども。それに、ひたすら目の前の画面に集中するしかない環境という点で、やはり映画館という専門のスペースは重要だろう(自宅に専用のホームシアターを構築するようなマニアならまた別かもしれないが)。
この映画のような、フィクションでありながらドキュメンタリーでもあるという独特な作品は、こちらもひたすら集中して鑑賞するのがなによりふさわしいし、それなりに「態度」が求められる密度がある。
とはいえ、一種の環境ビデオとして、ずっと流しっぱなしにしていてもいい映画かもしれないとも思う。やたら扇情的に盛り上げるBGMのたぐいが一切ないところなんかもその理由のひとつとして挙げられよう(それでいて物語の展開はけっこうドラマティックなんだけど)。

とまれ、<いいものを見せていただいた>という初見時の感想になんら変わりは無い。改めて、感謝。

SULLY

2016年アメリカ映画/クリント・イーストウッド監督作品

外国映画の邦題にセンスがないとかなんとか、定期的にネットでも話題に上ることがあるけれど、この映画の場合は『ハドソン川の奇跡』という邦題以外にいいタイトルは思いつかない。つーか、この原題で観に行こうと思えるのは事故のことをよく知っていた人くらいじゃないのか。

2009年1月、ニューヨークで起こった実際の飛行機事故を題材にした映画。バード・ストライクによる両翼エンジンの停止、近くの空港に戻ることもできずに飛行機はハドソン川に緊急着水。1月の厳寒下、乗客乗員あわせて155名はひとりの死者を出すことなく全員無事救助された。当時の関係者はみな今も生きているし、当時副機長だった人などいまだ現役のパイロットだ(エンドロールによれば着水後の救助隊員などで“本人役”で出演している人も多い)。パンフレットのスタッフ/キャストインタビューなどを読む限り、この映画は実際に起きた出来事を可能な限り忠実に再現していて、メロドラマ的な脚色は一切行っていないという。
だから飛行機事故シミュレーションとしてとてもよく出来ていると感じたし、あの事故をここまで再現できる映画表現ってすごいなあとも思った。
最後まで沈着冷静な態度をとり続けた機長もすごいが、物語の上で敵役となる調査委員会の面々など、主要登場人物のほとんど全員が「その道のプロ」である。敵役とはいえ理不尽で意味不明な存在などではけしてなく、事故の真相を究明する上で絶対に必要なプロセスに過ぎないのだけれども、40年以上にわたるパイロットの「一瞬の判断」をそれこそ重箱の隅をつつくように執拗に追求しつづけるのは、いち観客が観ていても精神的にかなりキツイ。わたしなんぞには到底つとまらない職業なんだなあと思った。

やたら泣き叫んだりやたらBGMが盛り上がったりするような、過度な演出は一切ない。淡々と、それでいて緊迫感が途切れることなく、約1時間半というコンパクトな尺で収めた作り方もまた、登場人物たちと同じように「その道のプロ」の仕事だろう。どんぴしゃで自分好みのドキュメンタリータッチで、いい作品を観たという満足感に浸れる映画だった。

パコ・デ・ルシア 灼熱のギタリスト

2014年/スペイン映画/クーロ・サンチェス監督作品

パコ・デ・ルシアの名前をはじめて聞いたのは—おそらく多くの日本人がそうであるように—アル・ディ・メオラジョン・マクラフリン、そしてパコとのユニット<スーパー・ギター・トリオ>だった。地方都市のギター好き高校生の間でさえライブ盤LPレコードの評判はよく知られていて、なにせそんじょそこらのロックギタリスト以上の熱気と超絶技巧の早弾きがレコードのそこかしこに充満していたのだから、誰もが夢中になるのは当然だった。アル・ディ・メオラパコ・デ・ルシアのどっちが凄いか、などと目を輝かせながら語り合っていた記憶がある(当時のアルは、チック・コリアのリターン・トゥ・フォーエバーの参加などで、日本ではパコよりも知名度があったはずだ)。

本作は、パコの長男であるクーロ・サンチェスが2011年から撮り始めたドキュメンタリー映画。2014年に主役が心臓発作のため急逝するまでに自身の生涯を語ったインタビューをもとに、過去のテレビ出演やライブの様子など、豊富な映像を使って構成されている。

衣料品販売のかたわらセミプロのフラメンコ・ギタリストとしても活動していた父親をもち、幼い頃から音楽への才能を見せていた。父親はパコの兄にギターを教えようとしたが、横で聴くだけだった弟の方が覚えが早かった。父親の演奏でリズムがずれている箇所を即座に指摘するなど、リズム感は天性のものがあったという。兄の方は歌手になり、未成年ながら兄弟であちこちで演奏しはじめる。
ギターがなければ自分の殻に閉じこもったままだった、と彼は言う。彼以上に無口で内向的だった歌手カマロン・デ・ラ・イスラのことを「天才だ」と評するが、自身のことは天才ではなく努力の人だ、としている。幼い頃からリズム感は素晴らしかったが、メトロノームを使い正確なリズムを刻むべく努力したのだ、とも。

フラメンコではじめてジャズのような「即興演奏」を試みた。今ではフラメンコになくてはならない楽器となったカホンをはじめて取り入れたのもパコとそのグループだった。そのようにして伝統的なフラメンコ界に次々と革新的な試みをもたらすものだから、保守的な層からは「あれはフラメンコではない。ただテクニックだけだ」などと糾弾されてきた。そんなネガティブな評価も、フランコ独裁政権が終わる頃にはほとんど聞かれなくなってゆく。



多少の前後の入れ替えはあるものの、映画は基本的には生涯を時系列に沿って追ってゆくので、おおむねわかりやすい作品ではある。しかし、スペイン近現代史のアウトラインだけでも頭にあると、なお良いかもしれない。もちろん、フラメンコ史や偉大な先人たちの功績を知っているとさらに楽しめるはずだ。そのあたり、わたしにはかなり曖昧な知識しかないので、もうちょっと予習しておきゃよかったなあ、と思ったが。たとえば、パコのドキュメンタリー映像であればパコの本名である『フランシスコ・サンチェス』というタイトルの2枚組DVD(日本盤はユニバーサル/UCBU-1004/5、2003年)を持っているのだが、ちゃんと観ないまま長い間ほったらかしになっていたのだ。帰宅して、いま、それを観ながらこれを書いているんだけど、さっきまで観ていた映画とは全く違うアプローチで作られていて(たとえばメキシコでの暮らしぶりなどもたっぷり描かれている)、たいへん面白い。

ともあれ、繊細で職人気質とも言えそうな人となりが存分に描き出されているだけでも興味深いが、やはり演奏場面の映像はただただ圧倒されるし、エロティック、とさえ呼びたいほどの音色にうっとり浸っていられるだけでも至福である。

むかしばなし

遠い遠い、昔の思い出。





映画『聲の形』で聴覚障害者についていろいろ話があるようだが(映画に字幕がないこととか)、わたしがごく個人的に思い出していたのは、また別のことだった。不幸な事故により下半身不随になり車椅子生活を余儀なくされた方が大学時代にいたけれども(年齢としては先輩だけども学生としては同級生になり、家もわりと近くだったのでしょっちゅうつるんで遊んでた)、それとは別の、もっと昔の話。


小・中学校時代、障害者だけのクラスがあった。当時は「特殊学級」という呼び名だった。今ではそんな露骨なネーミングはしないと思うが、当時は身体障害者も含む「知恵遅れの子どもたち」のクラスとして一般的だった。
そこの生徒たちを敬遠する連中はたくさんいた。というか、クラスメイトの母親たちからして「特殊学級の子どもたちには近づかないよう」にしていた節があったように思う。「我が子のクラス」と「特殊学級のクラス」とは違うんだ、一緒にしないで欲しい。そんな空気感が、目に見えないところで漂っていたように思う。

別に自分のことを特別視するつもりはないが、わたしはそういう空気はあまり気にせず、しょっちゅう「特殊学級」の部屋に遊びに行っていた。おもしろい絵本なんかがその教室だけにあったから、それを読みたかったってこともある。

そんなわたしのことを、まず最初に気にしていたのは担任の先生だった。「知恵遅れの子」を「いじめ」たり「からかい」に来ているのではないか、という警戒心だ。特殊学級担当の女性教師から面と向かって「キミは何しに来てんの」と言われたことも何度かあった。
はあ。まあ。などと曖昧な受け答えをしつつ、そのクラスの子たち(おなじ教室に同級生もいれば下級生もいる)と一緒に絵本を読んだり、簡単なゲームをしたりして楽しく遊んでいた。

これは天に誓ってもいいが、当時のわたしがそこにしょっちゅう出入りしていた理由は、単に自分が「楽しかった」だけあり、同情心や優越感を抱くため、ということなど露にも思わなかった。あとで(担任の先生を含め)回りからそういう意味のことを言われてびっくりした。担任から親へなにかしら伝えられたんだろう、あるとき母親から「特殊学級に遊びに行っているそうね」と言われてひどく驚いたことも覚えている。そのときも「だって面白いもん」と答えたはずで、なぜそんなに回りが大げさに問題視しているのかは、さっぱり理解できなかった。


九九がわからないから教えて、とか、ひらがながうまく書けないとか、放課後の「特殊学級」の同級生/下級生たちにはずいぶんいろいろ相談を受けていた。へえ、そっかー、と言いながら、わたしはそれなりに一所懸命彼ら/彼女らと向き合い、というかものを教えるほど出来ている子どもでもなかったから、ただただ一緒に遊んでいただけだった。

転機が訪れたのは卒業も近くなったある秋のことだった。
わたしにしょっちゅう懐いていた下級生の女の子と、たまたまふたりきりになる瞬間があり、いつものようになんか本でも読もうか、と学級文庫に手を伸ばしそうになったとき。
急にその子がうんと顔を近づけてきた。
「キスしてもいいんよ」と彼女は言った。
このとき、彼女はもっと卑猥でもっと性的なことを言ったような気もする。しかし、中学生のわたしにとって、それはあまりに唐突すぎ、あまりにオトナすぎた。

「やめてえや」近づいた彼女をどんと突きとばした。「そんなんやないし」

少しばかり沈黙が続いた。やがて教室に第三者が戻ってき、それをきっかけに、とりあえずはいつもの雰囲気になった。
しかしわたしは、それからあの教室に行くのが怖くなり、避けるようになった。

卒業式の日だったかその直前だったか、「特殊学級」の担任の女先生に呼ばれ、<あの日>のことを謝罪された。あのあと彼女はすごく後悔していて。私からも、あなたにも悪いと思っている。そんな風な言葉だったろうか。卒業前にもういちど、あのクラスに行ってくれないか。そうも言われた。

そこまで言われて、特に断る理由は思いつかなかった。わたしは懐かしのあの教室に行って、僕はもう卒業やけどみんな元気でね、みたいな当たり障りのないことを言って、そそくさとその場を去った。



…一生懸命思い出したけど、わたしの記憶は以上だ。もちろん、以上の記述は、自分の都合のいいように記憶を改変している可能性は大いにある。当時の自分に「障碍者」にたいする差別心や、そこまでいかなくとも『面倒くささ』や『しんどさ』をまったく感じていなかったかと問われれば、返す言葉はない。自分としてはそういう気持ちを抱いたことはけしてなかったと思うのだけれども、それは「今になって当時の自分を振り返って」のことだろうと問い詰められたら言い返す自信はない。
しかしあのとき、わたしが思ったのは「女ってこええな」であり、「通常学級」の子より「特殊学級」の子の方がよりダイレクトで「こええな」であり、いきなり性的な結びつきを求められても対応出来ない自身の幼さを突き付けられた感があり、というか性の目覚めって女の子の方がはるかに上を行ってるんだという怖さでもあり。数十年たった今でも、あのときの「事件」は自分の中でどう消化していいのか、実はよくわかっていなかったりもする。十二分におっさんになった今では、キスのひとつくらい別に減るもんじゃなしブチューってやっちまえじゃいいじゃん、などと思ってしまったりするんだけれど、やっぱそれは違うんだろうな。
 
   

中高生時代の性的な憧れやら未熟さってのは、昔も今もそんなに変わっていないんだろう、と思う。

高校時代に下級生の女の子連中がいわゆる「援助交際」で中退していたり、小学生時代にものすごく優等生だった女子が中学〜高校のあいだにヤクザの情婦になったとかなんかで同級生男子のあいだに激しい動揺が走ったとか、まあ思い起こせば実にいろんなことがあった。携帯電話やインターネットはおろか、ポケベルさえ発明されていなかったはるか昔の話である。



ま、いつだってヤる奴はヤってるし、モテない奴はどんな時代だってモテてねえ。男と女って、そんなもんだよな。

超高速!参勤交代リターンズ

2016年/本木克英監督作品

2014年に公開された前作『超高速!参勤交代』も観に行ってるが、クライマックスのド派手な大立ち回りが気に入らず、ここで感想文も残していない。肩の凝らない娯楽映画とはいえ、あそこまで無茶な展開にする必要があったのかなあ、などと当時思っていたものだ。

それでなくてもヒット作の続編、しかも、最初から計画されていたわけではなく前作の商業的成功を受けて急遽企画された映画となると、むしろがっかりすることの方が多いんじゃないか。そう思いながら劇場に向かった。

もともと<ハイ・スピードで目的地に向かうハメになった男達の七転八倒>というアイディアの面白さは、ほぼ前作で語り尽くされている。なので今回は、前作の敵役であった老中松平信祝の悪役ぶりを大幅にスケールアップさせている。結果、参勤交代のあれこれは完全にワキに追いやられ、勧善懲悪ものの痛快時代劇に変貌したが、この方向転換は正解だろう。前作で大活躍した面々がふたたび結集し、前作以上の一致団結ぶりを見せる、というだけでちゃんとエンターテインメントになっているのだ。
前作以上にギャグも多く、また殺陣のアクションもかっこいい(控えめながらちゃんと血しぶきも飛ぶ)。絶体絶命のピンチを切り抜ける奇抜なアイディアも楽しい。内藤の殿さまが敵方に取り囲まれる場面がふたつみっつあって、その「逆転勝ちの方法」がいずれも似たような展開だったのだけがいくぶん惜しまれるけれども。
2時間というたっぷりと時間を使う映画なので、テンポは必ずしも早くはない。もっと脚本を刈り込んで90分くらいに収めた方が…とも思ったけれどもどうなんだろう。

ともあれ、娯楽映画として、個人的には前作以上に楽しめた。やっぱチャンバラは楽しいな。

聲の形(こえのかたち)

2016年/山田尚子監督作品

原作は(最初の短編含め)いっさい未読。そっか、これ、少年マンガが原作なんだよな。西宮さんというより、なにより石田くんの救済の物語だったんだ。


17日の舞台挨拶パブリックビューイング付き上映会に出かけた。わたしが行った会場では、上映直前に完売・満席になった。満員の映画館なんて何年ぶり、いや十何年ぶりになるのかな? 今でこそたとえば『君の名は。』なんかは毎回満員御礼だというが、あの作品でさえ、封切り直後にわたしが行った時はまだまだ空席の方がはるかに多かったから、今回のようにぎっしり埋まった客席に埋もれて映画を観ること、それ自体が実に新鮮だった。中高生と思われる若い女性客も多く、それだけ期待されていた映画化だったんだろう。


公開直前に、ネット上にたくさん露出された監督やキャストやスタッフインタビューのたぐいはほとんど読んでいたし、原作漫画が描かれた際の評判なんかも少しは目にしていたので、まったくなにも知らずに物語に接した、というわけではない。とはいえ具体的なエピソードやあらすじの展開なんかは全然知らないので、これ、どういう結末になるんだろうと、終始ドキドキしながら観ていた。
上映中ずっと、こういう映画って、昭和の昔ならきっと小説が原作で、映画化も実写になっていたんだろうなあ、とも思った。このストーリーがまず漫画で描かれ、それをアニメーションとして映画化する、そのこと自体がふた昔ほど前ならまず考えられなかったことなのかもしれない。たとえば実写映画であるはずの『シン・ゴジラ』がアニメ監督によるアニメの文法で制作されていることと、『聲の形』がいわゆるお約束的なアニメの文脈には則っていない作り方をされていることは、ともに2010年代の映像作品としてなにか通底する部分があるのだと思う。
その流れで言えば、ヒーロー/ヒロインはじめ主要な登場人物たちがそれぞれ長所も短所もある、等身大に近い人物として造形されているのもとても<現代っぽい>と言えるのかもしれない。欠点というかネガティブな面が描かれていない人物っていうと、主人公の母親くらいだろうか? あ、「親友」である永束くんもわりと<高校生男子でここまでイイ奴、いるかあ?>とか思ったけど。
そういう、主要各キャラクターのネガ面も丁寧に描出しつつ、しかし映画全体としては暗くなりすぎず、また重くもなりすぎずに見せているのは脚本ならびに演出の力と言えるだろう。実際、けっこう笑える場面が随所に差し込まれていたのには感嘆したし、各キャラクターのネガティブなところも単に物語の展開上の<嫌な役どころ>という記号ではなく、自分にだってそういう部分はいっぱいあるよね、という共感を得られる描き方をしているのがすばらしい。


 
タイトルからも察せられるように<音の映像化>が本作の主題のひとつでもある。そういう意味では、この作品は「劇場という特殊な空間」でこそ鑑賞すべき映画でもあるはずだ。単にストーリーを絵解きしました、というのではなく、画面の隅々、あるいは表現されている音のひとつひとつにまできちんと意味を持たせている、そういう映画だ。それでいて難解なところはなにもなく、初見であるわたしですらちゃんと感動できるし、エンターテインメントとして楽しめる。まあ、あえて言うと、脇役として出てくる何人かは原作を知らないゆえ少しばかり唐突な感じもしたんだけれども、それは映画全体を損なうものではなかったはず。
ライブビューイングで観た監督の挨拶で、「繰り返し観て貰える強度を持たせた」という意味の発言があったと記憶している。その言葉に偽りはない、と思った。

SONG of the SEA

2014年/アイルランドルクセンブルグ・ベルギー・フランス・デンマーク合作/トム・ムーア監督作品
 
アイルランドの伝説をベースにした物語。絵も音楽も素晴らしく、93分間があっという間だった。


日本製のアニメーションは、これは最近の流行なんだろうけれども、実在の土地・場所をこれでもかと美しく精密に描く美術が特徴だ。それはそれで観ていて圧倒させられるし、いわゆる「聖地巡礼」の楽しみもあるんだろうけれども、そういう作品ばかりだとちょっと胃もたれしてしまう。その点、この作品のアートワークはまさにどんぴしゃで好みだった。絵本がそのまま動き出したような、と表現するのがいちばんふさわしいだろうか。一方で、実験的なアート・アニメーションにありがちな難解さはかけらもなく、登場人物の動きなんかは日本のアニメ風でもあり、とてもわかりやすい。パンフレットによればトム・ムーア監督はスタジオジブリなどをずいぶん研究したらしく、少なくとも影響下にあることは間違いないだろう。
キャラクターデザインはいかにも子ども向けという感じだけれども、主役である幼いシアーシャがときどき髪をかき上げる仕草があって、そこがなんとも色っぽかった(たしか3〜4回でてきたはず)。静止画で見るのと映画館で動きがついたのを見るのとで印象がこんなに変わるのか、と驚いた。芝居も丁寧だし、静と動のメリハリも非常に効いている。


物語はハロウィンの一夜がメインとなる。ここ数年、ハロウィンというとただの仮装パーティーみたいな扱いを(日本では)されがちだけど、ここでは人間と精霊が触れあう大切な日として描かれている。このあたりの感覚はさすがアイルランドと言うべきだろう。
もうひとつ、この作品は「うた」や「物語」が伝承されていくことの大切さを描いた映画でもある。母から子へ教え継がれるうた、精霊シャナキーが語り継ぐ物語。そのひとつひとつが、どれも深い慈しみをもって表現されているのだ。音楽を担当しているのはキーラで、これがまた泣かせます。アイリッシュ・トラッドファンにはおなじみの楽曲(『Dulaman』)が出てきたときには、思わずにやにやしてしまった。しかも物語のなかでけっこう重要な契機となるうただったりするし。


字幕版で観てすっかり満足したんだけれども、吹き替え版も実はちょっと気になっている。もういちど劇場に足を運ぶべきか、きっと販売してくれるであろうブルーレイを待つ方がいいか…いや、出るのかなあ。
トム・ムーア監督の第一作は「ケルズの書」をモチーフにした『The Secret of Kells(2009年)』だそうだ。日本では映画祭などのイベントで何度か上映されたらしいが、わたしは未見。アマゾンをのぞいたら米国盤BDがあったので思わず注文してしまった。たぶん言葉はなにひとつ聞き取れないと思うけど、まあいいや(笑)

君の名は。

2016年/新海誠監督作品

新海作品というと『言の葉の庭』がネットでの評判がよかったので、昨年だったか一昨年だったかにDVDを買い求めたことがある。しかし、帰宅して大いにわくわくして見始めたものの、あまりに陰気くさいハナシだったので最初の20分くらいで止めてしまい、実はいまだに最後まで見ていない。風景描写もふくめてたいへん繊細な作風であることはわかったが、これは作中世界に存分に没入できる、映画館という環境でこそ見るべき映画なんだろうなあと思ったのだ。なので新海誠の映画は、これまで“なにひとつ”観ていない。
いつだったか、映画館でこの作品の短めの特報を見たときは、「男女入れ替え」の「すれ違い」の恋愛映画だろうと見当をつけた。切なく甘酸っぱい青春ラブコメ(主役は二人とも高校生のようだし)かあ。まあ王道だよね、と。
その後、少し長めの予告編を、これまた別の映画館で見た。そこでは最初に見た特報と違って「早くしないとみんな死んじゃう」とかなんとかいうセリフや、いかにもクレーターの跡っぽい画像が出てきて、頭の中がハテナマークでいっぱいになった。なんだこれは? ひょっとしてハードSFなのか? ひとむかし前に流行った<セカイ系>なのか? で、実はこの段階でなんだかつまんなさそうだな、と思ってしまったのだ。
とか言いながらもやはりどこかで気になっていたんだろう。結局、公開早々に劇場に駆けつけた。




…びっくりした。こんな映画、こんな物語だったのか。すごいなあ。
ものすごく濃密というか、話が二転三転していくジェットコースタームービー。とてもひとことで要約できないストーリー。なのに、上映時間は1時間47分。シン・ゴジラよりも短いぞ。つまりは脚本と構成の妙に、まず圧倒させられたのだ。
青春もののオリジナル作品としては、特報で予告していた「見知らぬ男女の入れ替え」というアイディアだけでたぶん一本の映画として成立するはずなのだけど、そこから話が大きく膨らむ過程が素晴らしかったし、すれ違いのふたりが出会う必然性もその大きな舞台装置の中でしっかり生きている。エンディングはひとつの物語の終わりと言うよりも、むしろここからふたりの物語が始まるんだという幸せな予兆に満ちていて、ぐっとくる。
公式ビジュアルガイドに掲載の監督インタビューだったか、「いまさらジェンダーの差異で話はつくらない」という意味の言葉があった。なるほど、わたしなんかが最初に予想していた<甘酸っぱい青春ラブコメ>路線ははなから作るつもりではなかったということか。思春期の男女の身体が入れ替わるという大事件ではどうしたって避けられない<ジェンダーの差異>表現は、劇中ではなんとかうまく(露骨になりすぎない程度に)やりすごしていたように思った。ホントにあんなことになったらもっと生々しい問題で大変なはず、というかまずまっさきに病院に行くよね、ていうハナシなんだけど、そこいらへんは上手に回避している。このへんは脚本が大変だったんじゃないかなあ。しかし<ジェンダーの差異>が映画の主題ではないとはいえ、男女が入れ替わるからには登場人物はその差異はきちんと見せなければ話にならない。入れ替わっているあいだの細かい仕草やセリフの言い方などは、その差異を芝居として丁寧に表現していて、そこも見事だった。

新宿や四ッ谷あたりの実在する東京という都市と、飛騨地方という言及はあるもののまるきり架空の街である糸守という町。そして三年というタイムラグ。時空間のまったく違う場所に生きている男女ふたりがどこでどう交差するのか。そのための仕掛けが1000年に一度の彗星群というわけなんだけど、ちゃんと説明しようとするとあまりに複雑で、けれども映画を見ているあいだはそんなことは全然気にならなかったので、やはりこれは脚本と演出の巧さというべきなんだろう。あ、そういう意味では「時をかける少女」ぽくもあるかもしれない。
——夢の中で現実とは違う世界を生きている、という夢は、実はわたしもよく見る。さすがに自分自身が異なるジェンダーで登場したことは一度もないし、まったく見たこともない風景に囲まれたこともないけれども(見覚えのある風景がちょっとずつ違っている、という感じ)。けれど「違う人生を生きている自分」ということ自体には、個人的にはほとんど違和感はなかった。
とはいえ、誰もが必ず体験することでもないとは思うし(夢なんか見たことないって人も多いだろう)、だから設定としてはけっこう取っつきにくい世界観ではないかという気もする。そのあたりを、細密に描かれた作中の風景によってしっかり補填しているのがこの監督ならではなんだろう。なにせ、東京に住んだことのないわたしですら冒頭すぐに「あ、新宿だ」とわかるくらいには<リアル>なのだし。



これだけの大がかりなフィクションをこれだけコンパクトにまとめている映画なので、ストーリーを細かく分析していけばたぶん無理矢理だなあというところもたくさんあるんだろうとは思う。けれども、少なくともまったくの初見で映画館に坐っていたあいだはそんなことは全然気にならなかったし、映画のクライマックスと導入部分がつながったところで、ああこれは最初からもういちど見直さなきゃとも思ったので、作品としては大成功なんだろう。とりあえずDVDが出たら絶対買うつもりだし、ずっとほったらかしにしていた『言の葉』を、今こそちゃんと見てみようかなとも思った。




【追記】
↑を書いてから某掲示板を覗いてみたら、主にタイムパラドックスに関する矛盾点がたくさん突かれていて笑った。なるほどなあ。確かに、お互いの関係に3年の時差があるってのを主役ふたりとも全く気付いていなかったというのは、かなり重大な指摘だと思う。スマホの日記アプリを介して連絡しあっていたからには、日付っていうのはいちばん最初に気付くべき事項でもあるはずだろうし。それと、日本にとって国難とも言うべきあれほどの大事件について、映画の前半部分で全くといっていいほど触れられていないのも。
言われてみればどの指摘も映画を見ている最中に少しばかり頭をよぎったことばかりだし、そのへんを気にし出すと映画本編が楽しめないのもよくわかる。
けどまあ、そーゆー<ご都合主義>ってのは昨今の映画には(洋画・邦画ともに)よくあることだしぃ、てな感じでスルーしてもいいんじゃないかなぁ。…って、甘すぎ?