ヨーヨー・マと旅するシルクロード

原題:The Music of Strangers/2015年アメリカ映画/モーガン・ネヴィル監督作品
ワールドミュージック”という言葉自体は1960年代に造られたものだそうだが、レコード店などで頻繁に目にするようになったのは1982年にピーター・ガブリエルが<WOMAD(World of Music, Arts and Dance)>をはじめて以降のことだろう。遅くとも80年代終わりごろには、街の小さなCDショップでも棚ひとつ分くらいはこのジャンルが占めていたように記憶している。
ショップの棚は、しかし今世紀に入ると徐々に縮小されていく。それは「ワールドミュージック」が特殊ないちジャンルというよりもっと広くポピュラー音楽の中に拡散していったからでもあるかもしれない。日本でも、ケルト系はじめ様々な国・地域のルーツ音楽を演奏するミュージシャンが増え、アニメや映画の音楽からテレビ番組のBGMに至るまで、「それ風の」メロディやリズムをごく日常的に消費するようになった。

チェリストヨーヨー・マが「シルクロード・アンサンブル」というプロジェクトをはじめたのは1998年のことだという。2000年にはボストンのタングルウッド音楽祭でワークショップを開く。一度限りの試みに終わっていたかもしれないそのプロジェクトは、翌年ニューヨークを恐怖に陥れた911もあって、継続を決意した、と映画では描かれている。

95分というからそれほど長い映画ではない。しかし、その濃密さは群を抜く。特に編集が素晴らしいと感じた映画でもあった。
ヨーヨー・マをはじめとする主要メンバーに密着し、インタビューなどを交えながら映画は進むのだが、たとえば「昔レナード・バーンスタインに教わったときに…」というセリフが出ると、すぐに画面は古いバーンスタインの授業の映像に変わり、彼の言葉を映す。同じように、ダマスカス出身の音楽家やシリアから来た音楽家、あるいはスペイン・ガリシアの音楽家など、出身も経歴も実に多様なアンサンブルのメンバーについて、この映画は彼ら彼女らのアイデンティティの根っこのところを丹念に取材し、掬い取る。「旅するシルクロード」という題名にふさわしい、見事な取材であり、そうして得られた膨大なファクトを実に手短に、かつ印象的に観客に伝える、見事な編集術が施されている。



かつてわたしも熱心に聴いた「90年代ワールドミュージック」は(もちろん今でも大好きなんだが)、商業音楽の文脈に則っていたものばかりを好んで摂取していた(要するに手軽に日本盤CDが買えるようなレベル、ちょっと頑張ってもタワレコやヴァージンやWAVEあたりで店員レコメンドの輸入盤を買い漁るくらい)ということもあって、とてもポップで楽しい世界だった。世界はひとつ、WE ARE THE WORLD、地球が僕らの遊び場だ。そんな風な、ごく楽観的で平和な世界。国境を越え、人種や民族の違いを超え、音楽の力でみんながひとつになれる。そういう甘いメッセージに満ちあふれていたのだ。
潮流がはっきり変わったのは、やはり911以降ということになるだろう。そうして、21世紀がはじまってまだ20年にも満たないいま、その種の音楽は<存在するだけで>強力な政治的メッセージを発するようにまでなってしまったように思える。いつの間にか、ほとんど誰も気付かないうちに。
参加ミュージシャンの—全てではないだろうけど—何人かは母国が戦禍に巻き込まれ、大切な家族や友人を失う。またある人は革命のあと祖国は全く変わってしまった、と語る。母国で暮らすどころか、自国でのコンサートすら当局により中止させられてしまうことも。そんなミュージシャンたちは、だからこそ自分のアイデンティティである文化的伝統・音楽的ルーツをきちんと後世に残したいと願っているし、だからこそこのプロジェクトに参加しているんだ、とも語る。

プロジェクトの発足当初、批評家やマスコミからは酷評されたとヨーヨー・マは言う。各地の伝統音楽を寄せ集めたところで、しょせんは多国籍どころか無国籍のなんだかよくわからない音楽しか出来上がらないんじゃないか、そんな懸念を持たれていたというのだ。もちろん、誰か他のひとが手掛けていたらそんなお粗末な結果で終わっていた可能性だってあったはずだ。しかしこのプロジェクトの中心にはヨーヨー・マがいた。彼がいたからこそ成功し、アンサンブルが唯一無二の存在になり得た…と言っていいのかもしれない。
自国第一主義を掲げた大統領が当選したアメリカ合衆国をはじめ、世界の状況は20世紀後半よりも—この映画が制作された2015年よりもさらに—<グローバリズム>にとっては居心地が悪くなっている。中東を取り巻く戦況も終わりが見えない。そういう時代だからこそ、この映画が描き出す世界はとてもとても重要な意味を持つ。できれば何度も見返したい映画でもある。なのでDVD化を今から心待ちにしております。

【ちょこっと追記】
この映画、とても現代的で重要なテーマを追求しているのだけれど、テイスト自体はとても明るい。そしてそれもまた、ヨーヨー・マの人柄を反映しているもののように思える。映画がはじまって最初のころ、彼がある講演の開口いちばんにジョークを披露する。
<ある少年が、父親に言いました。お父さん、僕は大人になったら立派なミュージシャンになりたいんだ。すると父親は悲しそうに首を横に振ったのです。息子よ、残念ながらそのふたつはどちらかしか選べないんだ…>
そのジョークの通り、映画でのヨーヨー・マはとてもオチャメ…というかガキっちょぽい。ああ、好かれる人柄なんだなあ、というのがよく伝わってくるのだ。

明日のアー/猫の予想未来図II

京都・元立誠小学校にて観劇。

前回「ふたりのアー」に続く第二回公演の関西公演。前回よりもそれぞれの演目が長めで、その分笑いどころが少なくなったように感じた。シュールな設定や話の持って行きかたは相変わらずなんだけど、ネタがちょっと微妙なのが多かった。初回のように短めでインパクト勝負、の方が彼らには合ってるのかもしれない。よく知らんけど。
ネットワークビジネスの上の方>における栩秋太洋さんの身体の動きはさすがと言うほか無く、実に見応えがあった。それと宮部純子さんの全編通しての怪演ぶりもすごかった。このおふたりを間近で観られたのはなによりだった。
次回はまた来年の今ごろになるのかなー。チケット売るのも大変だろうけど、長く続けてもらいたいユニットではあります。

LA LA LAND

2016年米映画/デイミアン・チャゼル監督・脚本

とりあえず、長い(128分)。あと15分くらいはカットできたんじゃなかろうか。
映画館で予告編を何度か観ていたこともあり、だいたいの出来具合は予想していた。まあアカデミー賞だなんだと公開前からメディアやたら騒がしかったので、そもそもさほど期待はしていなかった(…ツイッターにはいかにも期待してるっぽいツイートを流したこともあったけど)。
ダンスシーンでカメラがやたら動くのはまったく自分好みじゃないとはいえ、まあ仕方がないだろう。それは我慢できる。しかし、肝心のダンスがどれもこれもキレがなく、一本調子なのにはほとほとマイった。パンフレットには幾人ものライターが<ダンスが上手すぎないのがいい>という旨のことを書いているが、なにをか況んや。ダンスが下手なミュージカルがイイって? ミュージカルをあまり馬鹿にするんじゃないよ。



往年のMGMミュージカル映画、それもフレッド・アステアが特に好きなもので、ついそういう目線で見てしまうのだが、なるほど、監督もそういう「古き善き黄金時代」を現代に再現したかったんだろうなというのはよくわかる。設定・ストーリーもいわゆる<バックステージもの>に収まるものだし。ミュージカルナンバーのそこかしこに、かつて観た映画を彷彿とさせる絵作りがされているのもいい—といってもわたしはアステア映画の他はジーン・ケリー主演作品をいくつかと、その他は少しくらいしか知らないのであまり大きなことは言えないけど—。
歌、たとえば主人公ふたりのデュエット《CITY OF STARS》やヒロインがオーディションで語る《THE FOOLS WHO DREAM》は素晴らしかった。代役なしで演じたというピアノ演奏シーンもけして悪くない。それだけに、ダンス・ナンバーがもうちょっとピリッとしていればなあ。

物語をほろ苦く終わらせたのもひねりがないと思った。いっそ(それこそRKO時代のアステア=ロジャース映画のように)脳天気なほどのハッピー・エンドにして、とことんファンタジーで終わらせる方が、何周か回ってかえって新鮮だったかも…などと思ったり。

映画館によって客の入りは違うんだろうけど、私が観たハコ(そのシネコンの中でたぶん一番大きなシアター)では1割から2割程度の埋まり具合。封切り最初の週末の、朝イチの回でこの程度である。ま、ロングラン上映はしなさそうかな。

エゴン・シーレ 死と乙女

2016年オーストリアルクセンブルグ映画/ディーター・ベルナー監督・脚本作品
映画館に貼ってあった一枚の予告ポスターに惹かれて観に行った。以前観た『黄金のアデーレ』みたいにひと捻りしているのかと予想していたんだけれども、まさかこんなに本格的な伝記映画だったとは。とはいえ、エゴン・シーレについては早世したエロス芸術のひと、程度の予備知識しか持ち合わせていないので(大学時代にものすごくシーレに傾倒していた先輩がきっかけでその名を知った程度)、どこまで史実でどこから脚色なのかはわからないのだけれども。
芸術家のエゴイスティックな面は、なるべく控えめに抑えられた印象を持った。主要登場人物の大半が不幸な最期を遂げるのだけれども、特に誰かを悪役に設定するのではなく、みなそれぞれに時代と運命に飲み込まれていった、という描写だったように感じた。ヨーロッパらしいソフィスティケートというのかな、もっとどぎつい演出や展開を期待する向きには若干物足りないのかもしれないが、まあこれはこれでアリなんじゃないかな。
ただ、主役のエゴン・シーレ役の人がもっと病的な身体だったらさらにイメージ通りだったかも、とは思った。かなり健康的な役者さんで、死に至る病床に伏せってからでも、なおその身体からは生気が出ているのだ(例えに出すのは申し訳ない気もするが、風貌が作家の森見登美彦さんによく似ていた)。


サブキャラ好きとしてはクリムトが出てくるシーンが印象的だった。彼の佇まいは実にイメージ通り(といっても彼の肖像すらよく知らないんだけど)。女優さんたちはどなたも見事な脱ぎっぷりで実によろしい。

画家、あるいは「絵を描くこと」を主題にした作品はやはり面白いですな。…などと胸を張って言えるほど多くの映画を観ているわけでもないのだけれども、「絵描きは何を観ているのか」という<視線の問題>に、映画作家が敏感になるのは必然でもありましょう。「画家とモデル」を主題にしたピカソのデッサンなども含めて、この手のメタ作品ってのは思いっきり自分好みなんであります。

雑記

登場人物のリアリティ、ということでふと思い出した。年明けからずっとサラ・イイネス大阪豆ゴハン』全12巻を再読していて、ああやっぱこれはこの人の最高傑作だよなあ、『誰寝』も悪くなかったけどやっぱ『豆ゴハン』だよなあ、でもこの漫画のどこがどう面白いんだろう、とずっと考えていたのだ。
ゴハンに惹かれた理由としてまず思いつくのは、登場人物の職業の描かれ方だった。ユハさんの勤務する大手ゼネコン、次女美奈子のディスプレイ業界。長男松林の芸大での学生生活。三女菜奈子のいるオートレースの世界だけは自分にもっとも縁遠いのでよくわからないけれども、いわゆる「クリエイター」の職業世界がほどよくリアルに、ほどよくファンタジックに描かれている、そう感じたのだ。
たしかに『誰寝』ではグラフィック・デザイン事務所が、『セケンノハテマデ』ではロックバンドと、続作でもそういった<現場>感はちゃんと描かれているのだけれども、『豆ゴハン』に出てくるそれは、わたしにはいっそうリアリティを持って感じられたのだ。詳しくは知らないけれどもいかにもそういう感じなんだろうな、と思わせるリアリティの生み出し方。いったいぜんたい、どんな取材をすればここまで描けるんだろう。どうイマジネーションを膨らませたらこんな人物造形ができるんだろう。はじめて読んだときも不思議だったけど、いま『豆ゴハン』を再読しても、やはり不思議だ。そしてさらに、バブル景気が終わったあたりのあの時代の雰囲気だとか、作中にも阪神淡路大震災のエピソードが出てくるけれども、そういった「あの頃」ならではの空気感というのもしっかり表出されていて、ほとんど泣きそうになる。
上の『月のぶどう』ではワイン造りの工程がこと細かに記されていて、それが物語と密接に結びついているのがいい。単なる説明にとどまらず、登場人物の性格やストーリーの流れにちゃんと組み合っている。職業ものドラマでは当然のことではあるんだろうけれども、作中で描かれる「仕事や仕草」をきちんとその人物の造形に結びつけられるというのは、実際のところけっこう難しい作業じゃないのかなと思う。



サラ・イネスの作品でもうひとつ気になるのは「作中に具体的な固有名をどこまで使うか」問題だ。というのも、このひとの漫画では<かなり具体的なイメージ>を<ものすごく遠回りな言い方>で定着させることがしばしばあって、そういう言葉の扱い方も作家性のひとつだろうなあと思っているのだけれども、このへんの研究はまたいつか。実はこのあたり「サラ・イネスにとってリアリティとは何か」を考える上でもっともキーになるところ、のはずなんだが。

月のぶどう

月のぶどう/寺地はるな著/ポプラ社/2017年

前作『ミナトホテルの裏庭には』から約一年、書き下ろし長編としては3作目にあたるはず。
大阪府下の架空のワイン醸造家を舞台にした物語で、今作も登場人物のそれぞれがそれぞれにくっきりと立っていて、面白かった。前作までと違ってふわふわと謎めいた人物が少なくなったかな、でもその分、みんな色んなものを抱えながらそれでも明日も生きていくんだ、という強い気構えが感じられる。どこかファンタジー世界の住人のように感じられたこれまでの小説から一歩踏み込んで、より現実世界へ近づいたような。
唯一、森園君が物語の半分くらいで退場したのだけが気になったけど、それ以外の登場人物にそれぞれのこれからの希望をイメージさせる終わりかたもいい。
『ミナトホテル』は2時間くらいの映画にすればいい感じ、と読んでいて思ったが、こちらはテレビドラマが似合うかも。季節の移ろいとか時間の流れにあわせて主人公たちの気持ちが変化してゆくさまがそう思わせるのだろう。いずれにせよ、この作者の書く文章はいちいち映像が鮮明に浮かび上がる。そこが魅力なんだと思う。
これまで小説をほとんど読まないで生きてきた自分としては、デビュー作(というかその前からだけど)から新刊をリアルタイムで買っているのはこの小説家が生まれて初めてとなる。いつまで続くかはわからないけれど、この先、もうしばらくは追いかけてみようと思っている。

捲土重来

この春から、森見登美彦原作のテレビアニメ『有頂天家族』の続編がはじまる。つい先日、下鴨神社にて関連イベントがあったそうだが、平日なのでわたしは当然行けてない。なんでも同作品が京都市の「京都特別親善大使」第1号に選定されたということで、そのイベントには京都市長まで出張ったというからたいそうなものだ。
イベントには参加できなかったがアニメ化を記念してクリアファイルを販売していると聞いて、さっき下鴨神社まで行ってきた。初詣にも行っているから、今年すでに2度目だ。お正月は人でいっぱいで身動きがとれなかったが、今度はのんびりと参拝できた。
お目当てのクリアファイル(500円)の他に、金閣銀閣の招き猫(3500円)も売っていたのでえーいとばかりに両方購入。気が大きくなったついでに資料館(三箇所で500円)も見て回り、さらについでだからというわけで近所の三井家別邸を見学(410円)。時折はげしく降る雪の中、お昼はアニメ1期にもちょっと出てきた枡形商店街奥のお蕎麦屋さんまで足を伸ばして胡麻だれざるそばをいただく。帰りにふたばでお餅を買って、これじゃなんだかすっかり観光客である。まあいいけど。
同じ森見原作アニメとしては、同時期に公開される予定の映画『夜は短し歩けよ乙女』(湯浅政明監督作品)も楽しみだ。湯浅監督のテレビアニメ『四畳半神話大系』も面白い作品だったので、同じスタッフが再集結するというだけでいやがおうにも期待が高まる。この勢いで他の森見作品も映像化されたらいいな。たとえば『聖なる怠け者の冒険』なども京都を縦横無尽に駆け巡る話だし、見応えがありそうだ。

さてこの招き猫、どこに飾ろうか。

Super Folk Song ピアノが愛した女。

坂西伊作監督作品/1992年/ソニー・ミュージック・エンターテインメント/日本

矢野顕子のレコーディング風景を撮ったドキュメンタリー映画。25年ぶりに『デジタル・リマスター版』と銘打っての劇場公開だ。
もっとも、わたしは25年前は映画館では観ていない。かわりにレーザーディスクを発売すぐに入手し、家で何度も繰り返し観た。今でもディスクは手元にあるものの、肝心のプレイヤーがぶっ壊れていて(電源は入るもののトレイが開かない)すでに宝の持ち腐れ状態だ。まあ、今度のも早々にブルーレイとして発売されるだろうなとは予想がつくものの、やっぱり気になったので映画館まで出かけた。限定2週間のみの上映、しかも上映館も限られている。価格も普通の映画より高く、2,300円もする。それでも劇場に足を運んだのは、ひとつにたいへん集中力を要求する映画だということと(四半世紀前はそれこそテレビの前で息をひそめて画面を見つめていたものだが、今その集中力が保てるかどうか怪しい。映画館なら否応なく画面のみに集中できる)、やはり『デジタル・リマスター版』の音がどんなものか確かめてみたかったからだ。
購入したレーザーディスクは、結局何回見返しただろう? 10回近くは観ただろうか。20年以上ぶりに観たそれは、覚えているディテールもあればすっかり忘れていたところもあって、それなりに新鮮な気持ちで対することができた。
劇場で映画を観て、いちばん驚いたのは、ノイズだった。ヒスノイズというのかホワイトノイズというのか専門用語は知らないけれども、シャーッというやや高音のノイズが、ほぼ全編にわたって響いている。映画の冒頭、撮影キャメラのノイズが録音に影響されているんじゃないかという問答があり、結局ソレは撮影機材のせいではないということになったんだけれども、それどころじゃないノイズが、演奏中ずっと鳴っている。
最初、上映機材のせいなんだろうか、この映画館特有の現象なんだろうかと思った。しかしそのノイズは、画面の切り替わりに応じて高く低く、また大きく小さくなっている。あきらかにこのノイズは、撮影された画面と同時に収録されているものにちがいない。

25年前といえばすでにコンパクト・ディスクの時代だし、録音機材も徐々にデジタル化しつつあった。しかしながら、本作のレコーディングはテープを使っていて、なかばアナログでもあった。この映画に通奏低音のようにひびくノイズは、そのせいなんだろうか? わたしにはそこまでの専門的なことはわからない。
かつてレーザーディスクを家のテレビで観ていた時には、こんなノイズなんてまったく気付かなかった。オーディオに特化した機材なんて持っていないし、そんなに大音量で聴くこともなかったから、仮に入っていたとしても聞こえていなかったのだろう。
デジタル・リマスターの作業において、このノイズを消すことは出来なかったのだろうか。技術的に可能として、けれどもここに「残って」いるのは、どういう理由なんだろう。はっきりとした意志を持ってノイズを残したとしか考えられないのだけれども、じゃあその理由は? 何度考えてもわからない。

神聖なる一族24人の娘たち

2012年/ロシア/アレクセイ・フェドルチェンコ監督作品
モスクワからおよそ640キロほど東にあるマリ・エル共和国。その独自の文化的特質をふんだんに取り入れたファンタジー…いや、ドキュメンタリー?…ではないな。「説話」とか「民話」という語の方がしっくりくるな。
映画の告知ポスターを見たのは今年の夏頃だったか、民族衣装を身に纏った女性たちのポートレート写真が並ぶお洒落なデザインに惹かれ、以来気になっていたのだ。内容とは関係なくこれは観に行かなきゃなるめえな、とすぐに思った。なにせロシア連邦内の少数民族ものなんて滅多に見る機会はないからだ。で、年末ぎりぎりになってようやく京都みなみ会館で鑑賞することができた。

邦題から、大家族のお話かと思っていたんだけど、そうではなかった。<一族>とは一家族のことではなく、マリ人というひとつの民族のことだった。帝国時代から長くロシアの支配下におかれていたが、マリ語はフィン・ウゴル系であり、宗教観や自然観なども独自のものがあるという。映画に登場する女性たちはすべて“O”からはじまる名前で統一されており、短いもので1分くらい、長いものでもせいぜい10数分くらいのさまざまなエピソードがひたすら続くという構成になっている。個々のエピソードが最終的にひとつにまとまるのかと思ってたけどそうではなく、しかしそれぞれの話の根底にはすべてマリ人たちの信仰や伝承がしっかりと根付いていて、それが映画の大きな幹となっている。
オチのついた笑えるエピソードも中にはあるが、大半は人生のほんの一瞬を切り取ったかのような詩的な映像で、中には語られるだけで劇中には登場しない女性もいる。エロティックなシーンが多めなのは「女性」を主役にしているからでもあるのだろうけれども、いくつかのエピソードで殺人/自殺あるいは死者が甦えるなど「死」が扱われていたところから、大きく「死生観」をテーマにしているがゆえなのだろう、と思った(ちなみに予告チラシやパンフレットには<ロシア版「遠野物語」や「アイヌ民話」のような>というフレーズがある)。

起承転結や勧善懲悪といったわかりやすいドラマはないが、しかしここにはもっと大きな<ひとがこの地で生きてゆくということ>という物語がある。雪深い新年から四季をめぐって次の冬まで、丹念に撮影された映像も美しい。全編を観終わってなんともいいがたい余韻が残る、いい映画だった。

【20171028.追記】
ブルーレイディスクが届いたので、およそ10ヶ月ぶりに見返した。理不尽な伝習や古い因習に囚われた人々の物語…という風に観ることもできるのだろうが、そもそも人間社会というのは別の文化圏から見ればはなはだ理不尽かつ不合理な暮らしを死守しているものだ。たとえばアメリカ合衆国が未だに銃の呪縛から逃れられないとか、あるいはわが日本でも、たとえば憲法九条を頑なに固守する層の存在を、摩訶不思議に思う人がいることだろう。外部から見ればほとんどギャグのような“神話”であっても、当事者にとってははなはだ切実な“現実”なのである…ということを、この映画は語っているのではないか。映画館ではじめて見たときには大いに笑っていたシーンの数々が、自宅のテレビで再見したときにはなんだかすごくしんみりしてしまった。昨今ダイバーシティとかなんとか言われているけれども、たとえばこの映画をどう評価するかってのは人によって大きく異なる、つまりはかなり大きな試金石になり得るのかもしれない。

この世界の片隅に

片淵須直監督作品/2016年
こうの史代原作の同題の漫画作品のアニメーション映画化として、封切り前から話題になっていた映画。公開初日の朝一番の回に出かけた。もともと上映館が少なかった(関西では梅田のシネルーブルくらいじゃなかったっけ)のだけれど、前評判の高さからか京都でも上映されたのは素直に嬉しい。イオンシネマ京都桂川の、わりと音響にこだわった部屋らしく、スクリーンもとても大きかった。幸いにしてど真ん中のかなりいい席が取れて、視聴環境としてはこの上ない。


後半、悲劇が起こる直前当たりからの<世界が変わってしまう>十数分間は、特に際立っていた。あの場面はおそらく映画史上に残るだろう、とまで思った。アニメーションならではの技法でもあるが、アニメだ実写だ特撮だという細かいジャンル分けはヌキにして、「映像表現」としてただひたすら残酷なまでに美しい。このパートを観られただけでも早朝から足を運んだ甲斐があったと感じた。

この映画は「説明」をほとんどしない。テロップとしては○年○月、という日付が入るのみ。ということもあって、登場人物の人間関係が少々わかりずらい。特に映画序盤は、小さなエピソードが次々に起きるので、なんだかよくわからいままだった。原作漫画ならいったん立ち止まってもういちど前のページを読み直したりできるんだけど、映画だとそれができないので、ちょっと置いてきぼり感があった。テンポがよい、といえばその通りなんだけど、序盤はもうすこしゆっくりとした描写でもよかったのではなかろうか。どんな映画/ドラマでもそうなんだろうけれども、冒頭からいきなり物語世界の中に没入させるためには相当な工夫が必要なんだと思う。じゃあこの映画の場合どうすれば良かったのかと問われると、途端に口ごもってしまうのではあるけれども。




 
(後刻追記)
あの戦争の時代を実際に生きていたわたしの老いた両親に自信を持って薦められるかどうか、と映画を観ながらずっと考えていた。残念ながら序盤のテンポの早さ/場面切替の多さには、たぶんうちの親はついていけそうにないな、と思った。なので、上では<少々わかりずらい>と評した次第。若い観客にはたぶんこのくらいのテンポでないと「間延びする」と思われるのだろうな、とも思うが。
実は監督はテレビシリーズ向きだと言っているそうで、それにはわたしも全く同感。この作品は2時間という短い枠ではなく、半年なり一年なり、それなりのゆったりとしたスパンで登場人物をじっくり描写するのが向いているのではなかろうか(原作漫画の連載がまさにそうだった)。ドラマが後半に向けてどんどんテンポアップするためにも、物語のはじめはともすれば退屈と感じられるほどのたっぷりとした「時間」が必要なのだと思う。

映画ができるまでの数々の困難、クラウドファンディングを利用してようやく制作に向けて動き出すことができた事実などは、公開前にたくさん出たパブリシティや(通常なら公開後に出版されるはずの)公式ガイドブックや絵コンテ本といったたくさんの関連商品を読んでいたのでもちろん知っている。なのでここでわたしが言っていることは、現実を無視したただの理想論ではある。
だが、空想ついでに言うけれど、今のテレビ界隈で半年かけて登場人物の成長物語に熱心に寄り添ってくれそうなのといえば、NHKの朝ドラくらいしかないだろう。主演女優つながりではないが、朝ドラ初の試みとしてアニメ「この世界の片隅に」を放送する、ってのはかなり面白い試みじゃないかと思うんだけど、どうだろう。